作成:2016/4
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 秦野市 HN-05
写真1
全景 石碑の背後に大きなイチョウの木がある
案内板には、「菩提のイチョウ 菩提地蔵堂跡の大イチョウは市内のものの中で幹周囲が、一番太いもので、雌株である。主幹が途中で折れているのがおしい。……」とある。
写真2 菩提の復旧紀念碑
菩提会館は左背後の建物
写真3 同上
写真4
丹沢とその麓の秦野市西部
正面のピークが三ノ塔で、その肩の小ピークが二ノ塔
葛葉川は2つのピークに挟まれた谷間を源流とし、支流を合わせて旧北秦野村を縦貫する
渋沢丘陵の高頭山より望む
撮影:2016/4
北秦野村は丹沢山塊の三ノ塔(標高1,204m)及び二ノ塔の南側斜面に続く緩斜面に位置する村であり、明治22年(町村制の施工)に菩提村・横野村・羽根村・戸川村・三屋村が合併して生まれました。これらの村名は現在の秦野市の北地区の字名として残っています。
なお、現在の秦野市の市域が確定したのは昭和38年ですが、昭和30年の合併(秦野町、南秦野町、東秦野村、北秦野村)によって秦野市が新設されました。(資料3)
北秦野村役場は復旧紀念碑のある菩提会館の位置にありました(資料2)が、関東大震災で全壊して移転ました(資料1)。また、菩提会館の敷地には菩提のイチョウがありますが、その案内板には地蔵堂跡の表記があり、古くは地蔵堂があったものと思われます。道路の向かい側には三界萬霊塔や菩提水道記念碑(昭和32年建立)などの石碑があり、北秦野村菩提の中心部付近であったようです。
復旧紀念碑には、
等が記されています。
<資料1より>
地震により葛葉川上流の大沢、大音沢、滝の沢の両岸が大きく数十か所にわたり崩壊した。土石が谷川の水を堰止め、谷は数か所にわたりため池のようになってしまった。…(中略)…
地元の人たちが、河川の氾濫を予測し、水切りに努力していた。こうした状況の中で、9月14日から15日の夜にかけて、豪雨にみまわれた。その多量の水の圧力により、谷川を堰止めていた土石の堰が崩壊し、土石流となって、ものすごい勢いで流下した。…(中略)…
次の日、この辺は、河原と化し、大石が、あちこちに散在していた。地元では、山津波(土石流)が起こることが予想され、住民は高地に避難していたので死者はなかった。…(中略)…
菩提地区で流失家屋11戸、泥没家屋11戸、羽根地区で泥没家屋2戸が被害を受けている。さらに24日*は暴風雨により再び、菩提地区3戸、横野地区1戸、戸川地区4戸の居宅が被害を受けたのである。
資料は縦書き 漢数字をアラビア数字に変換 〔 〕内の文字は追加
*24日とは、9月24日
山地斜面末端部付近の緩傾斜面(写真4参照)は扇状地地形や崖錐地形が見られます。これらの地形は土石流の発生や斜面の崩壊が繰り返えされた結果として形成された地形であり、地質的には最も新しい堆積物よりなります。
関東大震災による斜面の崩壊が土石流の発生を促し、堰堤を破壊し河床が上昇することにより更に土砂災害を受けやすくなりました。震災後に災害が拡大し、復旧は地元だけでは解決できないほどになりました。復旧紀念碑には約百町歩*の荒廃地に11万5千円**の国費が投じられたことが刻まれています。
*約百町歩は約1km四方(1町歩は約1万平米で100m×100m)
**11万4千円は現在の価格で約1億円弱(資料4より)
資料1 秦野市(1992)秦野市史 通史3 近代,806p
資料2 井上公夫編著(2013) 関東大震災と土砂災害 古今書院 225p
資料3 秦野市役所(1977)秦野 郷土のあゆみ,215p
資料4 日本銀行ホームページ ホーム > 対外説明・広報 > 日本銀行を知る・楽しむ > 教えて!にちぎん > 日本銀行や金融についての歴史・豆知識 > 昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか?
秦野市(1987)秦野の記念碑,193p
武村雅之(2011)[資料] 神奈川県秦野市での関東大震災の跡-さまざまな被害の記録,歴史地震,26号,p.1-13