作成:2016/5

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 秦野市 HN-06

秦野市戸川 --- 仙元神社跡地の復興記念碑 ---

  • 所在地:神奈川県秦野市戸川
  • 震災当時は中郡北秦野村
  • 碑銘:復興記念
  • 形態:石板
  • 建立年月日:昭和3年5月吉日
  • 交通:小田急小田原線「渋沢」駅より
写真1 全景 石碑は住宅地の一角にある

写真1

全景 石碑は住宅地の一角にある

敷地内に、戸川上自治会掲示板がある。


写真2 復興紀念碑

写真2 復興紀念碑


写真3 同上

写真3 同上


写真4 同一敷地内には仙元大神と刻まれた石塔がある

写真4

同一敷地内には仙元大神と刻まれた石塔がある

地元の人によると仙元神社の跡地らしい




撮影:2016/4

仙元神社跡地

復興記念碑は住宅地の一角にあります。同じ敷地内の右端に「仙元大神」と刻まれた石碑があり、神社の跡地と思われます。神社は既にありませんが、地元の人によると神社のお祭りは毎年行われているとか。仙元(せんげん)は浅間に由来するとか。

仙元神社は富士山信仰と結びついた神社であるらしい。

富士宮本宮浅間大社(せんげんたいしゃ)の祭神は木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)(別称:浅間大神(あさまのおおかみ))であり、浅間(あさま)は浅間(せんげん)で仙元大神と同じのようです。

富士宮本宮浅間大社のホームページの「御祭神・御由緒」の項の「庶民の信仰」に次のような説明があり、当初は富士講のような形態で仙元大神が信仰されていたと思われます。

戦国時代末から江戸時代初め、長谷川角行が人穴に籠もり、修験とは異なる仙元大日神を信仰する教えを説きました。これは、関東を中心に広がり、江戸時代中期、富士講へと発展していき、富士登山は急激に増えていきました。各地では浅間神社が祀られ、富士塚などをつくって登るなど、独特の信仰も生まれました。

復興紀念碑

復興紀念碑には、

  • 大正12年の震災により全くひどい惨状を呈したこと、
  • 最も困り果てたのは給水の途絶であり、この土地の150戸1,000名の命にかかわる事態であったこと、
  • 有志の桐山喜八君や飯沼福太郎君等が率先し、区域民が一致協力し、耕地整理法の施行の恩恵によって、精励努力して水路を開き、さらに耕地を整えたこと、
  • 後の世の人が当時を思い起こせるように碑に大要を刻んだこと

等が記されています。

 ⇒ 復興記念碑の碑文を見る


この復興碑の最後には建立年月日の下に「戸川三屋中」と刻まれています。明治22年(町村制の施工)に菩提村・横野村・羽根村・戸川村・三屋村が合併して北秦野村が生まれており、石碑の「戸川三屋中」とは北秦野村の2つの字名(戸川と三屋)の人々を表しています。

耕地整理法

復興碑にある「耕地整理法」は、明治 33(1900)年に耕地の利用を増進する目的で施行された法律で、当時は耕地整理及土地改良奨励規則による国庫補助は15 % でした。復興碑には「耕地整理法の施行の恩恵に浴し」とあり、関東大震災のあった大正12年に農商務省によって制定された「用排水改良事業補助要項」を指すのかもしれません。「用排水改良事業補助」の規定によると、受益面積500町歩以上の用排水幹線、又は用排水設備の都道府県営改良事業に対して50%以内の国庫補助が行われるようになりました。

はっきりとはしませんが、国の補助を受けた県の事業で、耕地整理組合が実施に当たったのでしょうか。




参考資料

富士山本宮浅間神社 ホームページ http://fuji-hongu.or.jp/sengen/history/index.html

秦野市(1987)秦野の記念碑,193p

秦野市役所(1977)秦野 郷土のあゆみ,215p

石井敦(2006)耕地整理事業から土地改良事業への展開過程 -事業内容と類縁用語の検討を中心に-,三重大生物資源紀要,第33号,p29-37