作成:2016/6
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 三浦市 MU-01_2
写真1
波食台と馬の背洞門を遠望する
馬の背洞門は赤矢印の位置(南東方向を望む)
写真2 馬の背洞門
写真3 波食台と旧海食崖(段丘崖)
写真の遠景左側に城ケ島灯台が白く見える
写真4 城ヶ島灯台
関東大震災で城ケ島灯台は倒壊した 現在の灯台は大正15年に再建されたものである
撮影:2009/5
寫眞第三十
城ヶ島灯台の被害(資料1より)
馬の背洞門は波の侵食によってできた海食洞です。海に張り出していた岩体であったためにアーチ橋のような形状になっています。
関東大震災より前は、洞門の裾に海水が入り込み、満潮時には小舟で通過できるほどでしたが、関東地震によって地盤は隆起し、陸上の洞門となりました。また、馬の背洞門に続く磯は波打ち際が海側に前進し、旧海食崖(段丘崖)に沿って波食台が広がりました。
< 「馬の背の洞門」の説明板より >
馬の背の洞門
これは自然が作った海蝕洞穴で長い年月をかけて波浪、風雨等に浸蝕されてこのような見事な形となったのです。
地層は第三紀層、鮮新統、三浦層群に属し土質は凝灰質砂礫岩という軟らかい岩質です。高さ八メートル、横六メートル、厚さ二メートルで、土地の人は「馬の背の洞門」のほか「めぐりの洞門」、「眼鏡(めがね)の洞門」などと呼んでいます。
そのどの名前もみな洞門の形から推して名付けたものです。
明治の文豪、大町桂月はここを訪れて次のように述べています。
「――馬の背に至る、怒涛脚下の巌を噛む、左は房州、右は伊豆、前には雲の峰聳ゆ、その雲の峰少し薄らぎて中より大島あらわる、馬の背はやがて馬の首となり、長巌海に突き出す。云々」
三浦市
この海岸には三浦層群の三崎層と初声(はっせ)層が分布します。三崎層は新生代 新第三紀 中新世~鮮新世の地層でこれを鮮新世の初声層が覆っています。
馬の背洞門は初声層で、火山性の砂や礫よりなる凝灰岩です。
三崎層については、前ページを参照ください。
関東大震災で城ケ島灯台は倒壊しました。この燈台は洋式灯台としては観音埼灯台に次ぐわが国2番目の灯台でした。
資料1によると、次のように記されています。
本燈臺は相州三浦半島南端に位し第六等圓形煉瓦造にして燈臺の高5.8米(19尺)明治三年八月の建設に係り燈臺は寫眞第三十の如く基礎より原型を止めず。混凝土造官舎その他の附屬建物は縦横に亀裂を生じて大破しこの地の隆起すること1.7米(5.6尺)餘にして地震當時の状況を示せば燈臺は直ちに東南方に転倒破壞し、この附近は激震と共に約6米(20尺)の津浪にて激浪山の如き中に流出せられたる無數の漁船片々浪の間に漂流せるを見たり。……以下省略
(文中に「寫眞三十の如く」とある写真を左に転写した)
参考資料
全国地質調査業協会連合会 地質情報整備・活用機構(2007)日本列島ジオサイト 地質百選,オーム社,181p
北中康文/写真 斎藤眞・下司信夫・渡辺真人/解説(2012)日本の地形・地質 見てみたい台地の風景116,文一総合出版,287p
横須賀市教育情報センター ホームページ 三浦半島の地層・地質 http://www.edu.city.yokosuka.kanagawa.jp/chisou/index.html
資料1 土木学会(1984)大正十二年関東大地震震害調査報告,第1巻,河川・灌漑・砂防・運河・港湾之部,187p