関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 高座郡寒川町 SK-01
写真1
寒川神社 入口 太鼓橋・一ノ鳥居付近
写真2
三ノ鳥居から神門に向かう参道
右側に倒壊した一ノ鳥居が保存されている
写真3
神門とその奥に見える拝殿
写真4 拝殿
写真5
初詣 参拝者で賑わう寒川神社境内
写真6 保存されている一ノ鳥居
写真1~4撮影:2015/4
写真5~6 撮影:2003 1/1
< 案内板 御由緒より >
御由緒
祭神
寒川比古命、寒川比女命 寒川大明神と総称する
例祭日 九月二十日
前日祭 九月十九日 流鏑馬人事
当神社の創建は古く日本総国風土記によれば今より約千五百年前 雄略天皇の御代朝廷より奉幣*1のことが記されており 当時 朝野遠近の崇敬篤く著名の大社であったことが知られる その後桓武天皇の延暦七年を始めとして歴代奉幣のことがあり 亦 仁明天皇承和十三年以来数次に亘り神階を奉授せられ 更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳に相模国の名神大社と定められ幣帛*2を奉せられておりこの地方の庶民信仰の中心をなしていた
後世 源頼朝 小田原北条氏累代 社殿造営社領の寄進等あり武田信玄の信仰も特に篤く 徳川時代に至っては徳川氏社殿再建のこと亦社領の寄進等古来武門武将の崇敬は鄭重*3きわまるものがあった
明治四年三月官国幣社*4制度の制定せられるや国幣中社に列せられ国費を以って幣帛料御奉納あらせられたるも昭和二十年十二月神道指令により神社の国家管理を廃止され現在は神社本庁の別表神社として全国崇敬者より御神徳を敬仰されている
*1 奉幣(ほうへい) 神に幣帛をささげること。
*2 幣帛(へいはく) 神に奉献する物の総称。みてぐら。にぎて。ぬき。
*3 鄭重(ていちょう)⇒丁重
*4 国幣社(こくへいしゃ) 旧制の社格で官幣社につぐもの。もと国司から幣帛を奉った神社であったが、明治以後、国庫から幣帛を奉ることとなった。大社・中社・小社の三等があり、主として国土経営に功績のあった神を祭った。戦後廃止。国社。
(意味は広辞苑より)
< 資料1 関東大地震当日の社務日誌 寒川町史5 資料編より >
午後零時三十分頃大地震起リ神社本殿・拝殿・幣殿等皆傾斜、但シ本殿ノミハ土台ヨリ六尺位後方ニスベル、他ノ天水瓶・御輿殿・手水舎・一ノ鳥居等倒ル、其の他社務所破損、随神門、ニノ鳥居傾斜ス
< 資料2 寒川神社誌 平成25年 p87~88より >
10年(大正)に相模鉄道(現在のJR相模線)が茅ヶ崎から寒川間に開通し、次第に延長されて沿線も発展していった。ところが12年9月1日、関東一帯が大震災に見舞われ、寒川村も全壊家屋570を出し、当社においても正殿・幣殿以下、社殿が甚だしく損壊した。そこで宮司・河村政吉名をもって内務大臣・後藤新平宛てに「震災復旧工事施工に付経費下附願」を提出し、「罹災ノ侭ニテ遷延日ヲ送ルコトハ、且ハ神明二対シ奉リテ、恐懼ノ至リニ禁ヘズ、且ハ国家ノ宗祀タル神社ノ尊厳ヲ失墜スルコト甚大ナルモノ有之候」と懇願した。被害状況が別紙に明らかである。
罹災被害状況
- 一、本殿 全体位置ヨリ一尺位移動。柱ノ剖ケタルモノアリ。
- 一、内玉垣 木造、一部倒レタル所アリ。
- 一、幣殿 全部傾斜、大修理ヲ要ス。
- 一、拝殿 傾斜、大修理ヲ要ス。
- 一、神楽殿 全部倒壊、再築を要ス。
- 一、神門 傾斜。殊二屋根ハ久シキ以前ヨリ朽損シテ、雨露ノ犯スアリ。殆ンド再築ヲ要ス。
- (中略)
- 一、一ノ鳥居 石造、再築ヲ要ス。材料用ニ堪ヘザルモノ多シ。
- (後略)
参道を入ってすぐ右側に横たわっている鳥居があり、立て札には次のように記されています。
一ノ鳥居 記
この鳥居は当神社の一ノ鳥居で寛政八年(西暦一七九六年)木内善次郎の寄進により参道に建立されたもの。安政二年江戸大地震、大正十二年関東大震災、二度にわたり倒壊した。高さ一丈一尺(約三・三m)柱間一丈(約三m)明神鳥居。当時をしのびここに設置する。
寒川神社社務所