関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 寒川町 AK-04

高座郡寒川町一之宮 --- 八幡大神(おおかみ)神社の大震災紀念碑 ---

  • 所在地:高座郡寒川町一之宮1丁目21-10 八幡大神神社境内
  • 碑銘:大震災記念
  • 形状:板状
  • 建立年月日:大正13年9月1日
  • 交通:JR相模線「寒川」駅から徒歩約12分(行程約800m)
写真1 一之宮八幡大神神社の一の鳥居から参道・社殿を望む

写真1

八幡大神神社の一の鳥居から参道・本殿を望む

写真2 二の鳥居周辺と八幡大神神社社殿 

写真2 二の鳥居周辺と八幡大神神社社殿

写真3 鳥居をくぐると左側に同一台座上に2つの石碑がある 右側が大震災紀念碑、左側は大正4年の玉垣建造碑

写真3

鳥居をくぐると左側に同一台座上に2つの石碑がある
右側が大震災紀念碑で、左側は大正4年の玉垣建造碑

写真4 大震災紀念碑

写真4 大震災紀念碑

撮影:2015/4

八幡大神神社の御祭神と由緒

< 案内板より抜粋 >

  • 御祭神
  • 誉田別尊(ほむだわけのみこと)  奥津比古命(おきつひこのみこと)
  • 大日?貴神(おおひるめむちのかみ)奥津比女命(おきつひめのみこと)
  • 倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 大雀命(おおささぎのみこと)
  • 大山咋命(おおやまくいのみこと) 菅原天神(すがわらてんじん)
  • 由緒
  • 元禄10年(1697)8月の創立と伝えるが、平安時代の和名妙に「佐牟河波伊知乃三夜牟良(さむかわいちのみやむら)」と記されていることから、古くより奉祀されていたと推定される。爾来武門・上下の尊崇をうけ、明治元年の神仏分離令により妙光寺持より村持となり、社格制度制定により同六年、村社に列せられ、更に村内の数社を合せ祀り一之宮の氏神様としての姿を整える。
  • 大正12年、関東大震災により建物一切倒壊するが、同15年、本殿他を再建す。
  • 昭和二十年の終戦により宗教法人となる。
  • 同59年、境内整備事業により社殿の改修、神楽殿・社務所の新築を奉行する。
  • 平成21年1月21日、明治の御代に合祀されてより正に百年目に当たる吉き日に八幡大神に縁深き氏子等参列のもと、合祀百周年記念奉告祭が斎行された。
  • 8月1日例祭。宵宮に氏子三町より奉納される屋台巡行は、明治より連綿と受け継がれ殷賑を極める。
  • (案内板は縦書き、御祭神は誉田別尊を除き7柱を省略、漢数字をアラビア数字に変更)



大震災記念碑




碑文には、

  • 寒川村一之宮は総戸数176で、そのうち全壊が164、半壊が12で、その損害高は約24万6千円であった、
  • 殃死者18名の氏名と年齢、
  • 発起人などの氏名、

などが記されています。

< 死亡率について >

記念碑には総戸数・全壊戸数・半壊戸数・死亡者数など、被災状況を示す数値が記載されています。当時の寒川村一之宮では18名という多くの犠牲者が発生していますが、これがどの程度の死亡率になるか試算してみると、

死亡率(%)=一の宮の死亡者数/一之宮の人口×100 ですが、

一之宮の人口を一之宮の総戸数×高座郡の世帯平均人数*として死亡率を推定すると

推定死亡率(%)=18/(176×5.7)×100=1.8

となり、100人の内、2人弱が死亡した計算になります。

死亡者数18名、推定死亡率1.8%、全壊率93%より、死者のほとんどは圧死者と考えられ、多くの圧死者が出たことは全壊率が大きかったことに原因があると思われます。それでも、火災が発生しなかったことは幸運でした。

なお、寒川村の死者数は出典により異なり、倉見神社、一之宮の八幡大神神社、北部福祉会館の3つの記念碑に記述されている死亡者だけでも合計31人になります。

 ⇒ 大震記念碑の碑文を見る

< 資料より >

広田富治 郷土の石碑 平成3年 連載32 によると、大震災紀念碑は金比羅宮の脇に建っていたが、昭和46年に現在地に移されたとある。

*高座郡の世帯平均人数

諸井孝文,武村雅之 関東地震(1923年9月1日)による被害要因別死者数の推定 日本地震工学会論文集 第4巻 第4号 2004の付表のデータを使用