関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 東京 T-22
写真1 地震いちょう説明板
写真2 地震いちょう遠景
皇居の濠 正面奥のビルは毎日新聞社
写真3 地震いちょう
イチョウの木の傍らには次のような説明板(写真1)があります。
震災いちょう
この木は、震災いちょうと呼ばれています。樹齢一五〇年を超えると思われるこのいちょうは、かって文部省の跡地である一ツ橋一丁目一番一帯(現在のパレスサイドビル・住友商事竹橋ビル一橋総合ビル一帯)にありました。大正十二年(一九二三)九月の関東大震災によって一面焼け野原となった都心にあって奇跡的に生き残り、このイチョウは当時の人々に復興への希望を与えました。その後、復興事業に伴う区画整理によって切り倒されることになった際、当時の中央気象台長岡田武松氏がこれを惜しみなんとか後世に残したいと思い帝都復興局長官清野長太郎氏に申し入れたところ、長官もその意義を理解しこの地に移植されたという由緒をもっています。
岡田武松(一八七四~一九五六)
千葉県に生まれ、東京大学物理学科卒業後、中央気象台に入り予報課長をへて明治三十七(一九〇四)年、海洋気象台の創設とともに台長となりついで中央気象台長となる。海難防止のため無線送受信設備の完成、海洋気象設備を充実させたことや、測候技術官養成所の設立など研究・行政両面で活躍した。大正十三年(一九二四)にイギリスの王立気象学会からサイモン金杯をおくられ、昭和二五年(一九五〇)には文化勲章を受ける。清野長太郎(一八六九~一九二六)
香川県に生まれ、東京大学法学科卒業後、旧内務省警備局に入り、富山県理事官・神奈川県理事官をへて内務省事務官となる。明治三六年(一九〇三)に人口学万国会議の委員として、ベルギーへ派遣される。明治三九年(一九〇六)に秋田県知事、同年南満州鉄道株式会社の理事に抜擢され大正二年(一九一三)までこの職にあった。大正五年以降、兵庫県知事・神奈川県知事を歴任して帝都復興局長官となる。平成十三年三月 立替 千代田区教育委員会
写真4 浅草寺の被災いちょう
写真5 江島杉山神社の被災いちょう
寺田寅彦は関東大震災の調査で火災旋風を担当しました。寺田寅彦は、毎日焼け跡をしらべて歩き、そして、九月の末の不思議な芽吹きを目撃します。それを随筆「柿の種」の中で次のように記述しています。
震災の火事の焼け跡の煙がまだ消えやらぬ頃、真黒になった木の幹に鉛丹色の黴のようなものが生え始めて、それが驚くべき速度で繁殖した。
樹という樹に生え広がっていった。
そうして、その丹色が、焔にあぶられた電車の架空線の電柱の赤錆の色や、焼跡一面に散らばった煉瓦や、焼けた瓦の赤い色と映え合っていた。
道端に捨てられた握飯にまでも、一面にこの赤黴が繁殖していた。
そうして、これが、あらゆる生命を焼き盡されたと思われる焦土の上に、早くも盛り返してくる新しい生命の胚芽の先駆者であった。
三四日たつと、焼けた芝生はもう青くなり、しゅろ竹や蘇鉄が芽を吹き、銀杏も細い若葉を吹き出した。
藤や桜は返り花をつけて、九月の末に春が帰ってきた。
焦土の中に萌え出づる緑は嬉しかった。
崩れ落ちた工場の廃墟に咲き出た、名も知らぬ雑草の花を見た時には思わず涙が出た。
(寺田寅彦集 角川書店 昭和27年 仮名使いなどを一部変更)
関東大震災で黒こげになった経歴のあるイチョウは大手濠緑地だけでなく方々に残っています。写真4の台東区浅草寺のイチョウ、写真5の墨田区江島杉山神社のイチョウなどがその例です。(参考:唐沢孝一 よみがえった黒こげのイチョウ 大日本図書 2001 6)
樹木の効力について
樹木は種類によって防火の程度が違う。
松、杉のごときは反対に火勢を助長する有害のものであって山火事でも杉林の火は中々に鎮まらない。
樹木で有効なのは従来の経験で樫(カシ)、椎(シイ)、珊瑚樹等が最良で公孫樹(イチョウ)、梧桐(アオキリ)等がこれに次ぐ。
そして「プラタナス」も今度の火事で良いことが判ったが、これらの落葉樹は葉がない時は効能がない。
公孫樹も寺院等にこの目的で植えられているがその葉が青い時は良いが黄変すると余り効能がないと伝えられている。
(中村清二 大地震ニヨル東京火災調査報告 震災予防調査会 より カタカナをひらかなに変更、かなづかいなどを一部変更)