作成:2002/3 更新:2015/4
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 東京 T-01_5
写真1 追悼の碑
写真2 副碑(正面の石盤)
写真3
追悼の碑は主碑と2つの副碑より成る
撮影:2005/3
追悼の碑の主碑と副碑(正面)
左側の副碑
・・・余震の続くなか辛うじて業火を逃れた人々は、飢渇にあえぎながら極度の疲労と不安に陥っていた。交通、通信が一切途絶し的確な情報も伝わらない混乱のなかで、さまざまな流言が飛び交い、社会不安はいやが上にも高まった。流言は警視庁の記録によれば「富士山爆発」「大津波襲来」など地震関連のものから、間もなく「社会主義者及び朝鮮人の放火多し」とか「不逞朝鮮人来襲」などその内容は一変した。「朝鮮人数十人門前仲町方面に来襲」「朝鮮人などが爆弾で放火、毒物散布」とか「清澄庭園に毒物投入、魚類多量死」さらに「朝鮮人数百人侵入、強盗、強姦、殺りく」など事実無根の流言に惑わされ、人びとはこれを真に受けて恐れおののいた。
こうした流言の発生源については、官憲当局が特定の予断に基づいて流したものとする一方、朝鮮人に対する差別意識と偏見による自然発生であるとするなど諸説があって、真相は明らかではないが、新たな恐怖が恐怖を呼んで、人びとは異常な興奮状態に導かれていった。軍隊や警察ばかりでなく、在郷軍人・青年団などを中心に各地区で結成された自警団の民衆までが凶器を携えて「朝鮮人狩り」に奔走する事態となった。この結果、多数の朝鮮人が殺害された。その数は正確には知りえないが、2700余名とも推定6400余人に上がるとの調査もある。当局は、事件に関する報道を10月20日まで禁止した。 ・・・
(江東区史 中巻 江東区役所 平成九年 より 漢数字の一部をアラビア数字に変更)