墨田区の横網町公園(旧陸軍被服廠跡地その7)内
--- 復興記念館 ---
- 所在地:東京都墨田区横網二丁目 横網町公園
- 対象:復興記念館
- 竣工:昭和6年4月
- 交通:JR総武線「両国」より徒歩約14(行程900m)
- 地下鉄都営大江戸線「両国」徒歩約4分(行程250m)
- 都営地下鉄「蔵前」より徒歩約15分(行程1000m)
写真1
復興記念館
撮影:2005/3
写真2 復興記念館 正面
撮影:2006/9
写真3
復興記念館 屋外展示物
釘の熔塊(説明プレートより)
深川区(現在の江東区)平久町花島倉庫に保管されていた鉄釘2万樽が、猛火による高熱のため溶解して、ひとつのかたまりとなったものの一部である。
撮影:2013/9
復興記念館の由来*1
震災記念品は当初震災記念堂(現東京都慰霊堂)に展示する予定でしたが、昭和4年秋に開催された帝都復興展覧会の資料も加わり、資料が膨大であることから予定を変更して「復興記念館」を建設することになりました。
震災記念堂の竣工した昭和5年9月に復興記念館の工事に着手し翌年4月に完成し、同年8月から一般公開されました。
震災から復興記念館の完成まで(復興計画・事業の推移)
- 大正12(1923)年9月1日 関東地震の発生(関東大震災)
- 大正12(1923)年9月2日 第二次山本権兵衛内閣が成立。都市計画推進派の後藤新平が内務大臣として就任。
- 大正12(1923)年9月3日 後藤新平が閣議に「帝都復興の議」を提出。
- 大正12(1923)年9月7日 内務省で復興計画の立案を開始。
- 大正12(1923)年9月27日 帝都復興院を設置。後藤新平が帝都復興院総裁を兼務。
- 大正12(1923)年12月 原案を縮小し、修正案で復興計画が確定。
- 大正13(1924)年2月 帝都復興院が廃止され、内務省の外局である復興局に縮小。
- 大正13(1924)年3月 内閣より区画整理が認可され、施工地区が告示される。
- 幹線道路の事業主体は国であるが、区画整理の事業主体は東京市(一部が国)となる。復興事業全体は復興局が一元的に管理。震災時およびこの時の東京市長は永田秀次郎。
- 大正13~昭和5(1924~1930年) 帝都復興事業の実施
- 昭和4(1929)年10月 日比谷公園で帝都復興展覧会を開催。
- 昭和5(1930)年3月 帝都復興完成記念(天皇の視察) 帝都復興完成祝賀会
- 昭和5(1930)年9月 震災記念堂(現東京都慰霊堂)竣工
- 昭和6(1931)年4月 復興記念館竣工
参考資料
*1 復興記念館の由来 復興記念館内説明資料
越澤明 復興計画 幕末・明治の大火から阪神・淡路大震災まで 中公新書 2005