作成:2016/1

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 横浜 Y-37_9

今に残る震災復興橋(その9) --- 宮前橋、入江橋(入江川) ---

  • 震災復興橋所在地:横浜市神奈川区
  • 対象河川名:入江川(いりえがわ)
  • 残存震災復興橋:宮前橋、入江橋
  • 残存率*:2/3 66%

残存率*とは架け替えられず、撤去されずに残っている震災復興橋の割合である。補修などがなされても残存しているとしている。

写真1 第一京浜国道に架かる入江橋より下流側を望む

写真1

第一京浜国道に架かる入江橋より下流側を望む

前方の高架橋は首都高速神奈川1号横羽線


写真2 富士見橋(非震災復興橋)より西方を望む

写真2

富士見橋(非震災復興橋)より西方を望む

写真の左側は埋立地で高架橋は首都高速神奈川1号横羽線



写真3 龍宮橋と周辺の案内板

写真3

龍宮橋と周辺の案内板

龍宮橋については本文参照

2016/1撮影

入江川に架かる当時の震災復興橋

入江川には、宮前橋、入江橋、星野橋の3つの震災復興橋があり、宮前橋と入り江橋は現在も当時の状態で震災復興橋が使用されています。星野橋は架け替えられているようにも思えますが、星野橋人道橋が追加(平成16年5月)されただけの可能性もあり、詳細は不明です。

入江川の上流側より、当時の震災復興橋を順に挙げると次のようになります。

  • ・宮前橋**(鋼板桁橋) 昭和3年8月竣功の震災復興橋
  • ・入江橋*(板桁橋) 昭和2年5月竣功の震災復興橋
  • 星野橋**(鋼構桁橋) 時期不明で架け替え? 平成16年5月竣功は人道橋のことか?

( ・印付太字で示した橋梁は今なお使用されている震災復興橋。*印が復興局施行で、**印が横浜市施工。( )内は橋種。 )

入江川について

入江川の概要

入江川は横浜市鶴見区東寺尾付近を源流とし、西方に流れJR横浜線の菊名駅と大口駅の中間あたりで鶴見区から神奈川区に入り、横浜線に沿って南に流れ、第二京浜(国道1号)、東海道線や京浜東北線、第一京浜(国道15号)、首都高速横羽線の順にこれらをくぐり、横浜港に注ぎます。

入江川は自然の川としては延長は4km弱の小河川ですが、旧海岸線より南は埋立地が広がっており、旧海岸線に並行する埋立地境界の運河とこれに直交する複数の運河を含めて入江川に属しています。これらの運河には入江川○○派川などのような名で呼ばれています。震災復興橋である星野橋は入江川第二派川に架かる橋であり、運河群の南西端に位置し、本来の入江橋の川筋からは約1.8kmも離れています。

2つの入江橋

第二京浜(国道1号)と第一京浜(国道15号)という2本の幹線道路が入江川を跨いでいますが、不思議なことに、橋名がともに入江橋です。震災復興橋である宮前橋から見て、上流側の橋(第二京浜)も下流側の橋(第一京浜)も入江橋ですが、震災復興橋であるのは下流側の第一京浜が通過する入江橋です。




写真4 第市道に架かる宮前橋

写真4

市道に架かる宮前橋


写真5 宮前橋の親柱

写真5

宮前橋の親柱


写真6 下流側から宮前橋を望む

写真6

下流側から宮前橋を望む

2016/1撮影

宮前橋(みやさきはし)

橋種:鋼板桁⇒桁橋(ガーダー橋)

(注)「⇒」の左側は竣功当時の橋種で資料*1による。右側は現在の表現に書き直し。以下、同様。

竣功:昭和3年8月(親柱の銘板による) 昭和3年8月14日(資料*1による)

位置:横浜市神奈川区入江1丁目

写真4~写真6


橋名の選定と横浜一之宮神社

宮前橋の左岸の近くに横浜一之宮神社の鳥居があり、鳥居の前の歩道に立つと宮前橋が直ぐ左側に見えます。鳥居は子安浜漁業組合の奉納によるもので、宮前橋と同じ昭和3年に建設されています。

宮前橋は新設であり、資料*1によると、一之宮神社の社殿の前方にあたること、宮前という名は古くからよく用いられていることが橋名の選定理由です。

親柱及び橋名板

宮前橋 親柱意匠

親柱の意匠
資料1*より


親柱の橋名板も柱状照明も新しく見えます。復元されたと思われます。

写真7 

写真7 左岸(東側)より入江橋を望む

道路は第一京浜で前方が横浜駅方向


写真8 

写真8 土橋の親柱(右岸上流側)

赤い電車は京浜急行


写真9 

写真9

上流方向から入江橋を望む


写真10 

写真10

一段低い側道と国道との連絡階段

2016/1撮影


入江橋(いりえはし)

橋種:板桁橋⇒桁橋(鋼板とL型鋼を主桁としたプレートガーダー橋)

竣功:昭和2年5月(親柱の銘板による)、昭和2年6月(資料*1による)

位置:横浜市神奈川区子安通1丁目-2丁目

写真7~写真10


有効幅員

入江橋の有効幅員は27mです。上り2車線、下り3車線(右折専用車線を含む)が入江橋通過していますが、両側の歩道もまずまずの幅があります。幹線道路ではこの程度の幅員が欲しいものです。

なお、震災復興橋最大の有効幅員は帷子川導水路(旧派新田間川)に架かる金港橋の36mで、片側4車線あります。金港橋は入江橋を渡る道路の延長上にある橋であり、入江橋から第一京浜で横浜方向に向かうと、横浜駅の手前で第二京浜(国道1号)に合流して、横浜駅の東側で金港橋を渡ります。

親柱

親柱は長方形を組み合わせただけの単純明快な意匠で、照明器具はありません。上流側には親柱に続く石造りの高欄があり、側道に下りる石段(写真10参照)に誘導しています。親柱や高欄は花崗岩で造られていますが、花崗岩本来の色は失せて汚く汚れています。

橋名板

左右上下流の4本の親柱には、通常、河川名、漢字の橋梁名、ひらかなの橋梁名、竣功年月を記した橋名板がありますが、入江橋にはいずれもなく、無惨にも剥がれた跡が深く残っています。

幸にも入江橋が震災復興橋であることを示す「昭和二年五月 復興局建造」と記された銘板だけが親柱の側面にあります。

親柱及びその周辺が汚れて荒れた感じを受けるのは、交通量の多い道路に面しており清掃が追いつかないいることも理由でしょうが、橋名板がなくなったまま放置されていることもこれに拍車をかけています。




写真11 星野橋

写真11 星野橋



写真12 龍宮橋の親柱

写真12 龍宮橋の親柱

新しい橋銘板に大正十二年七月竣功とある


写真13 龍宮橋

写真13 龍宮橋とその周辺

案内板の個所から海側を望む 右側に星野橋の一部が見えている 正面は廃線となった鉄橋で、龍宮橋はその手前右側にある

<参考> 星野橋

星野橋は震災で被害を受け、震災復興橋として架け換えられましたが、現在の星野橋は橋名板が剥がれ、竣功年月などは不明です。橋梁の状況から判断すると次の事項が読み取れます。

状況

  • 親柱は人造石で、震災復興橋に共通するような形状・材質(ブロック状・花崗岩)ではないこと
  • 親柱の形状や材質が隣の村雨橋のとよく似ており、村雨橋が昭和31年竣功であること
  • 星野橋の人道橋には平成16年5月竣功の橋名板があるが、人道と車道の橋台は別の時代に取り付けられたようで統一されていないこと

以上の状況より、震災復興橋として架けられた星野橋は村雨橋と同時代に架け替えられ、平成16年5月に人道橋が付け加えられたのではないかと想像されます。(今のところ、資料による裏付けはありません。)

<参考> 龍宮橋

星野橋から海側に向かって約200mの距離にあるのが龍宮橋で、大正12年7月に竣工し、その年の9月に関東大震災に遭遇しました。星野橋は損傷して震災復興橋として架け替えられたのに対し、龍宮橋は損傷することなく現在も使用されています。

龍宮橋は4連の桁を橋台と川の中の3本の橋脚で支える桁橋です。

星野橋の脇には神奈川区役所が選定した「わが町 かながわ50選」の案内板があります。この案内板には「龍宮橋とその周辺」が「わが町 かながわ50選」に選定されていることが記されています。

龍宮橋と周辺

明治以降、埋立が進んだ土地をぬうように通る運河には、龍宮橋をはじめ、星野橋(現在地)・村雨橋など、静かな水辺に水鳥が暮らしています。

この先、海側にある龍宮橋からは、ポートサイド周辺の景色を望むことができます。

村雨橋

関東大震災では村雨橋周辺の護岸には被害がありましたが、橋自体は被害を受けませんでした。現在の村雨橋は昭和31年3月竣功の橋です。

村雨橋は1972(昭和47)年の村雨橋事件その橋であり、村雨橋を渡って海岸方向に進むと、米軍の港湾輸送施設があります。




以下、上流側より順に、改めて震災復興橋の親柱などの写真を表示します。

写真14 宮前橋(みやさきはし)

写真14 宮前橋(みやさきはし)

昭和3年8月竣功の震災復興橋

写真15 入江橋 昭和2年5月竣功の震災復興橋

写真15 入江橋 昭和2年5月竣功の

震災復興橋 橋名板は剥がれて無いが、

親柱側面に復興局建造の銘がある

写真16 星野橋 人道橋は平成16年5月竣功

写真16 星野橋 人道橋は平成16年5

月竣功 橋名板は剥がれて無い 復興

震災復興橋でない可能性大




参考資料

資料*1 横浜復興誌 昭和7年3月 横浜市役所

時事新報付録 復興局公認 東京及横濱復興地圖 大正13年4月発行 時事新報社