作成:2016/2
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-37_10
残存率*とは架け替えられず、撤去されずに残っている震災復興橋の割合である。補修などがなされても残存しているとしている。
写真1
この付近に柏葉橋があった 信号機に柏葉橋の表示
最下流の震災復興橋である小湊橋から約2.0km上流で、千代崎川は車の前方を左から右に道路を横断する方向に流れていた
写真2
暗渠となった千代崎川
最下流の震災復興橋である小湊橋から約1.96km上流で、下流方向を望む
写真3
暗渠となった千代崎川
中区上野1丁目付近 2本の道路が川跡を挟んでいる
小湊橋から約1.48km上流で、下流側を望む
写真4
暗渠となった千代崎川
向かって右側の車線が旧千代崎川で、左側の車線より高くなっている
小湊橋から約750m上流で、下流方向を望む(北方町1丁目、本牧町1丁目付近)
写真1 2016/2撮影
写真2~4 2016/1撮影
千代崎川は最下流の震災復興橋である小湊橋から上流が暗渠になっています。千代崎川に架かる震災復興橋は24橋ありましたが、暗渠によってなくなり、架け換えて橋として残っているのは小湊橋だけです。東泉橋の親柱の移設保存と西ノ谷橋・上野橋の一部がモニュメントとして保存されている以外は、わずかに大和橋と市場橋の親柱が現地に残存しているだけです。
千代崎川および新山下運河の当時の震災復興橋は次の通りです。千代崎川については上流から順に挙げています。
新山下運河
( *印は木橋、**印は木桁橋、***印はI桁橋で、全て横浜市施工です。 )
山手や本牧の台地は北を中村川、西を掘割川(旧八幡川の川筋)の低地、東と南を埋立地や海岸低地で囲まれた地形的には独立した台地であり、千代崎川はこの台地を刻む小河川をまとめながら東に流れ、源流から約5kmの本牧ふ頭の先で横浜港外に注いでいます。
千代崎川流域は中区が殆どを占め、北西部の一部が南区に属しています。
震災前の千代崎川は、滝の川と同様に、水路の断面が小さく屈曲していたために大雨ごとに浸水被害が発生していました。
震災復興事業は、川幅を拡張し屈曲を緩やかにし、護岸は間知石張りでコンクリートの練積式擁壁として改修されました。
昭和37年(1962)に中部下水処理場(現中部水再生センター)が千代崎川の右岸河口付近に開設され、それに合わせて千代崎川は公共下水道となって覆蓋されました。現在は最下流の復興橋であるの小湊橋から上流が全て暗渠化されています。
千代崎川流域の台地は地形・地質的には下末吉台地とよばれ、約12万5千年前の世界的な海進期(温暖期)の下末吉海進による波食台や堆積面を起源としています。下末吉台地は上総層群と呼ばれる新第三紀鮮新世~第四紀更新世前期の堆積物を基盤としていますが、下末吉海進後の海退に伴って千代崎川が台地を侵食し、特に下流域では現在の地盤面よりも20m以上深い谷が形成されました。その後の海進(縄文海進)に伴い、深い谷には海水が浸入し、小さな入り江になりました。やがてこの入江は上流から供給される土砂によって埋立てられ、その後の海退によって現在の千代崎川に沿った平坦地が残されました。
現在の千代崎川は暗渠となり、自然の川は無くなりましたが、台地斜面は千代崎川の侵食によって急崖が形成されています。
千代崎川に架かる震災復興橋は無くなりましたが、以下にその状況のいくつかを上流側より順に示します。
写真5
大和橋(やまとばし)の親柱
上流方向を望む 大和橋のあった交差点を左に進むとJR根岸線の山手駅に至る
写真6
大和橋 左岸下流側の親柱
表面の剥落や欠損が著しい
竣功:昭和2年8月(資料1による)
位置:横浜市中区麦田町4丁目-大和町1丁目
写真5~写真6
千代崎川は暗渠となって道路としての整備も進んでいます。現地に残る親柱としてはこの大和橋と市場橋の2か所です。
左岸下側と右岸上流側とに2本の親柱が残されています。親柱は人工石(化粧コンクリート)で、劣化が激しく、化粧層の剥落や一部の欠損も見られ、みじめな状態です。
なお、大和橋より上流には8つの震災復興橋がありましたが、もともとは全て木橋であり、信号機に「柏葉橋」と表示されている以外に何も残されていません。
写真7
千代崎川跡の公園と西ノ谷橋と上野橋のモニュメント
柵で囲まれたゾーンが旧千代崎川で下流方向を望む
写真8
西ノ谷橋と上野橋のモニュメント
正面のボードは「千代崎川とその橋の歴史」と題する案内板
写真9
「千代崎川とその橋の歴史」と題する案内板
記述内容については右の文を参照。
2016/1撮影
竣功:昭和2年6月、昭和3年2月(資料1による)
モニュメント位置:横浜市中区上野町1丁目
写真7~写真9
西ノ谷橋と上野橋の一部がモニュメントとして保存されていますが、その案内板には次のように記されています。
千代崎川とその橋の歴史
千代崎川の源は根岸と山手の丘陵であり、そこから生まれた猿田川、簑沢川、江吾田川が山元町付近で合流し千代崎川となり、柏葉、麦田、、大和、上野、千代崎、北方、本牧、小湊を流れ東京湾に注いでいた。
古くから川は水田に使用され、また雨水の排水路となっていたが、川幅が狭く、屈曲が多く、川底が浅かったのでよく氾濫した。
幕末には大和町が外国軍訓練のための鉄砲場となり、これを横切っていた千代崎川の中央に長い旗ざおを立て、射撃開催の有無を知らせていた。また、河口の小湊には外国人のための今日でいうところの食肉施設がつくられた。
関東大震災後、復興・復舊事業で災害を防ぐ目的で、川の流路を変えて曲りを少なくし、浚渫、護岸工事を行い、同時に24の橋が架けられ、これらは震災復興橋と呼ばれている。
戦争がはじまるとこの橋の欄干の金属は軍に納め、木等で補修した。昭和20年(1945)5月29日の空襲で多くの橋が炎に包まれたが、橋そのものは残り、戦後欄干は鉄で補修された。
そして、人口の増加と伴に川は汚れ悪臭がするようになったが、まだこのころは夏にはトンボが舞い、毎日のようにトンボとりに夢中になった少年が川に転落した。
昭和37年(1962)に中部下水処理場が出来、それに合わせて千代崎川は公共下水道となり、川筋は最下流を除きすべてが覆蓋され、旧千代崎川となった。
この時、上野地区では4つの橋の親柱・欄干が残ったが平成20年(2008)年度から行われている下水道再整備事業でこれらも撤去されることになったので、上野橋と西ノ谷橋の一部を保存し千代崎川の歴史と伴に後世に伝える。
なお、この碑のそばに置かれている自然石は千代崎川の護岸に使用されていたものです。
上野町1・2丁目南部町内会 上野町1・2丁目東部自治会
写真10 宮前橋跡地
本牧通り本郷町1丁目交差点 写真正面の狭い道路が旧千代崎川の流路で下流方向に望む
2016/1撮影
竣功:昭和2年6月、昭和3年2月(資料1による)
跡地位置:横浜市中区本郷町1丁目
写真10
宮前橋は本牧通りが斜めに渡っていた橋であり、橋幅は37.55mで長さは5.97mという幅広の短い橋でした。一般の橋というイメージでは無く、川に沿って蓋をしたようなイメージが実際です。千代崎川は幅の狭い河川であり、通常の震災復興橋の長さは中流域で3~6m程度、上流域で2~3m程度です。
宮前橋の名は南側約100mの距離にある北方皇太神宮に由来します。
写真11 市場橋跡地
道路が旧千代崎川で、横断歩道の方向に市場橋があった
写真12
市場橋の親柱(右岸下流側) 橋名板に「市場橋」とある
右岸側に1対の親柱がある 親柱は人工石(化粧コンクリート)で、化粧層が一部剥落している
2016/2撮影
竣功:昭和3年2月(資料1による)
跡地位置:横浜市中区本郷2丁目
写真11~12
上台市場際にある橋であることから、市場橋と呼ばれました。
上台市場があった場所は、現在はマーケット、上台集会所、UR都市機構本郷町市街地住宅が併設されたビルとなっています。
横浜市は、全国各地へ波及した大正7年の米騒動の応急対策(市民生活の安定と福祉の増進)として、市内の10カ所に公設市場を設けました。その中の1つが上台市場です。
公設市場は関東大震災で倒壊あるいは焼失などの被害を受けましたが、関東震災後の食料不足や物価上昇による人心の動揺に対応するため、復旧が急がれました。とりあえずバラックや天幕で13カ所を開設し、後に増設して大正13年5月には26市場に増設されました(資料4による)。公設市場は戦中の閉鎖、戦後の再開と高度経済成長期を経て、公設であることの役目を終え、順次閉鎖整理されました。
写真13 この付近に東泉橋があった
下流方向を望む
写真14
移設され保存されている東泉橋の親柱
市立大鳥小学校内 創立50周年記念の大鳥の庭
竣功:昭和3年4月10日(資料1による)
跡地位置:横浜市中区北方町2丁目-小港町1丁目付近
写真13~写真14
震災復興橋の最下流の小湊橋より1つ上流の橋で、長さ6.74m、幅5.5mの小さな橋でしたが、花崗岩で造られた立派な親柱がありました。東泉橋は、中区元町から山手の台地の尾根沿いの道路を辿って本牧に至る道路が千代崎川を渡る橋であり、重要な道路とされていたと思われます。
現在の中区北方町(きたがたちょう)は明治34年の市域第一次拡張によって横浜市に編入された旧本牧村大字北方であり、大字北方には小字として小湊・泉・竹ノ花・天沼・上野・西之谷がありました(資料4による)。小字の泉を用いた震災復興橋にはこの東泉橋と1つ上流の西泉橋がありました。
写真15 小湊橋全景
道路は市道山下本牧磯子線 小湊橋歩道橋より山下公園方向を望む
写真16 小湊橋の親柱
親柱を境に左側(海側)が開渠で右側が暗渠
写真17
小湊橋の橋名板(下流右岸側)
写真18
小湊橋を下流側から望む
震災復興橋は桁橋であったが、現在はボックスカルバートとして架け替えられている
2016/1撮影
竣功:大正15年12月(橋名板による)、大正15年12月10日(資料1による)昭和41年拡幅、平成20年度架け替え
跡地位置:横浜市中区小港町
写真15~写真18
震災復興橋であった小湊橋は、昭和41年の拡幅後、平成20年度にはボックスカルバートによる架け替えが行われ(資料2による)、千代崎川の震災復興橋は無くなりました。
小湊橋は暗渠としてよく用いられるボックスカルバートであり、小湊橋はなくなったとも言えますが、2柱の立派な親柱が橋であることを主張しています。
橋名板には「大正十五年十二月竣工」とありますが、小湊橋のことではなく、親柱に限定されていることになります。この親柱は、資料5や資料6の画像によると、小湊橋の上流側にありましたが、現在は下流側に移動しています。
また、石面は磨かれて新設のようにきれいになっています。照明器具はありませんが、親柱の頂部は照明器具らしいものが据えつけられるような細工があり、照明器具が復元されるのでしょうか。
写真19
新山下運河に架かる鴎橋
鋼管杭が橋脚として用いられている
写真20
鴎橋の親柱
新しいデザインであり、大正から昭和初期のものではない 震災復興橋は木桁であり、当時の親柱はなかった可能性が高い
鴎橋は新山下運河に架かる橋梁で、中区新山下町3丁目にあります。
震災復興橋として架けられた鴎橋は<資料1>によると木桁とありますが、現在の桁は鋼板桁になっています。桁の重量を分散させる目的で鋼管杭が橋脚に使用されていますが、橋脚は流水や舟の通行の妨げになることから、震災復興橋でもその例はごく限られています。
最初に鴎橋(昭和3年竣功)が架けられたころは、埋立地には何もないような状況であり、震災復興橋は仮の橋として木桁の橋が架けられたのかも知れません。昭和8年に新山下貯木場が完成し、その後、倉庫や工場が進出し、木桁の更新時あるいは木桁では重量物の運搬に支障が出るような時期になって、鋼板桁橋に架け替えられたのでしょうか。
参考資料
資料1 横浜復興誌 第二編 昭和7年3月 横浜市役所
資料2 横浜市道路局 小湊橋掛替事業 http://www.city.yokohama.lg.jp/doro/kyouryou/kakekae/kominatobashi/
資料3 タウンニュース 中区・西区版 2011年7月14日号 株式会社タウンニュース社
資料4 横浜中区史 中区制50周年記念事業実行委員会 昭和60年
資料5 千代崎川の歴史 川に架かる橋・流域の知られざる歴史を探る https://tiyozakirekisi.wordpress.com/tag/%E5%8D%83%E4%BB%A3%E5%B4%8E%E5%B7%9D/
資料6 暗渠俳諧の日々 横浜・山手の台地を削った千代崎川をたどる① http://ankyoneko.exblog.jp/14204944/
資料7 (株)白石 天野昭他 季節基礎の耐震補強に関する検討(その10) -SSP後方の実施報告(鴎橋)- 土木学会第57回年次学術講演会(平成14年9月)