作成:2015/8 更新:2016/1

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 横浜 Y-37_2

今に残る震災復興橋(その2) --- 山王橋、一本橋、道慶橋、太田橋、黄金橋、旭橋、長者橋、宮川橋、都橋(中村川分岐点より下流の大岡川) ---

  • 震災復興橋所在地:横浜市南区~中区
  • 対象河川名:大岡川
  • 河川範囲:中村川分岐点より下流
  • 残存震災復興橋:山王橋(さんのうばし)、一本橋(いっぽんばし)、道慶橋(どうけいばし)、太田橋(おおたはし)、黄金橋(こがねばし)、旭橋(あさひばし)、長者橋(ちょうじゃばし)、宮川橋(みやかわはし)、都橋(みやこはし)
  • 残存率*:9/13 69%

残存率*とは架け替えられず、撤去されずに残っている震災復興橋の割合である。補修などがなされても残存しているとしている。

低地の地質

横浜市の中区、西区、南区などの関内を取り巻く横浜市の中核部の地形は低地と台地に区分されます。

低地は河川に沿った沖積地と市街地や港湾周辺の海岸低地や埋立地が主体です。低地を形成する大岡川や帷子川の下流域は、最終氷期の海面が低下した時期に河川によって侵食された深い谷が形成されていましたが、最終氷期以後の海面上昇に伴い、深い谷は小さな入り江となり、そこに上流から供給される土砂が堆積して浅い入江を形成していました。この入江は江戸時代に干拓や埋め立てによって新田が開発され、明治以降は残されていた沼地の埋め立てともに市街地化していきました。現在の大岡川や帷子川の下流域はこのように入江や沼地であったところが主体であり、大岡川や帷子川によって運搬された堆積物が埋め土で覆われています。

震災復興橋の多くは、このような新しい軟弱な土砂よりなる河川に架けられた橋であり、基礎形式にも注意が払われて施工されました。なお、台地の切通しにも少ないながら震災復興橋が架けられています。

写真1 大岡川の桜の風景(黄金橋から下流方向を望む)

写真1

大岡川の桜の風景(黄金橋から下流方向を望む)

前方の橋は旭橋で、その後方のランドマークタワーを望む

2003/4撮影


写真2 大岡川の河口の風景(北仲橋よりみなとみらいのビル群を望む)

写真2

大岡川の河口付近に架かる北仲橋とみなとみらいの高層ビル

2015/9撮影


写真3 山王橋をお三の宮通りより望む お三の宮と呼ばれる日枝神社は写真左手にある

写真3

山王橋をお三の宮通りより望む お三の宮と呼ばれる日枝神社は写真左手にある

写真4 「昭和二年五月 復興局建造」の銘がある

写真4

「昭和二年五月 復興局建造」の銘がある

写真5 

写真5

大岡川に架かる山王橋を下流側から望む

写真6 一本橋を左岸側(北側)から望む 右方向が上流

写真6

一本橋を左岸側(北側)から望む 右方向が上流

写真7 一本橋の親柱と橋名板

写7 一本橋の親柱と橋名板

写真8 一本橋を上流側(西側)から望む

写真8

一本橋を上流側(西側)から望む

以上、2015/8撮影


大岡川に架かる震災復興橋

中村川の分岐点より下流の大岡川に架けられた震災復興橋は13橋あり、その内の8橋はほぼ当時のまま残り、1橋は改築されて残っています。

中村川の分岐点より下流の震災復興橋を上流側より順に挙げると次のようになります。

  • ・山王橋(肘木式板桁橋) 昭和2年5月竣功の震災復興橋
  • ・一本橋(I形鋼桁橋) 昭和3年10月竣功の震災復興橋
  • ・道慶橋(肘木式板桁橋) 昭和2年9月竣功の震災復興橋
  • 栄橋(I桁橋) 平成元年3月 架け替え
  • ・太田橋(肘木式鋼板桁橋) 昭和3年1月竣功の震災復興橋
  • 末吉橋(鉄筋コンクリートアーチ橋) 平成19年3月 架け替え
  • ・黄金橋(肘木式鋼板桁橋) 昭和3年4月竣功の震災復興橋
  • ・旭橋(肘木式鋼板桁橋)  昭和3年9月竣功の震災復興橋
  • ・長者橋(鉄筋コンクリートアーチ橋) 昭和3年2月竣功の震災復興橋
  • ・宮川橋(肘木式板桁橋) 昭和4年1月竣功の震災復興橋
  • ・都橋(肘木式鋼板桁橋) 昭和3年7月竣功の震災復興橋で昭和58年3月改築
  • (桜川橋 昭和52年12月竣功の新設橋梁で震災復興橋ではない)
  • 大江橋(鋼アーチ橋 修繕) 昭和48年10月 架け替え
  • 弁天橋(肘木式鋼板桁橋) 昭和51年3月 架け替え
  • ( ・印付太字で示した橋梁は今なお使用されている震災復興橋(改築1橋を含む)。( )内は復興橋の橋種。当時の震災復興橋は一本橋のみ横浜市施工で、他は復興局施工。竣功年月等は橋名板による )

山王橋(さんのうばし)

橋種:肘木式板桁橋⇒桁橋(ゲルバー式で、鋼板とL形鋼を主桁に使用した橋梁)

(注)「⇒」の左側は竣功当時の橋種で資料*1による。右側は現在の表現に書き直し。 以下、同様。

竣功:昭和2年5月(親柱の銘板より)昭和2年6月(資料*1より)

位置:横浜市南区南太田町-南吉田町・山王町

その他:下流側に人道橋追加

写真3~写真5


山王橋は大岡川に架かる国施工の橋梁です。資料*1には大正15年2月起工、昭和2年6月竣工とあり、親柱の銘には「昭和二年五月 復興局建造」となっています。現在もほぼ当時のまま使用されているようです。

幹線道路ではないため、橋梁幅は7.3mと狭く、現在は山王橋に並行して下流側に人道橋が架けられています。


親柱の近くに、「かんたんくんのなつかしスポット紹介」と題する次のような案内板が懸っていました。

山王橋

吉田新田ができる前は、この橋から関内方面一帯は遠浅の入り海でした。この橋から蒔田公園辺りの大岡川、中村川の分岐点が、吉田新田開拓の起点とも言える場所です。この一帯を掘削すると、2m位が外から運んできた土で、それ以下はかつて入り海だった名残の川から流れてくる堆積物や、貝殻などが今でも出てくるそうです。

お三の宮通り まちの散策カードプロジェクト お三宮通りまちづくり委員会 2011

山王橋から約120m上流には大岡川から分流する中村川が分岐しています。この分岐点より下流にはかって入り海がありましたが、入り海は干拓されて吉田新田が生まれました。現在の大岡川と中村川は吉田新田の干拓域を縁取るようにして流下し、横浜港に注いでいます。

<参考> 吉田新田について

吉田新田は吉田勘兵衛によって干拓・埋立られて1667年に完成した新田であり、大岡川、中村川、JR根岸線で囲まれ釣鐘状の領域に相当します。震災当時は吉田新田の中央にはこれを南北に別ける中川(吉田川・新吉田川)と呼ばれる運河が縦断し、末端部のJR根岸線に沿って派大岡川と呼ばれる運河およびその他新富士見川や日ノ出川と呼ばれる運河がありました。また、明治に吉田新田からの排水路に相当する掘割川が開削され、中村川から分流して根岸湾に導いています。

戦後、高度成長期を経て市街化が進展する中で、吉田新田地区では吉田川・新吉田川及び新富士見川、日ノ出川、派大岡川が埋立てられ、道路や公園あるいは高速道路や市営地下鉄の路線等に姿を変えました。吉田新田は現在の横浜市の中心部の一角を占めています。

一本橋(いっぽんばし)

橋種:I型鋼桁⇒桁橋(I型鋼を主桁に使用した橋梁)

竣功:昭和3年10月(親柱の銘板より)昭和3年10月12日(資料*1より)

位置:横浜市南区白金町-日枝町

その他:左岸上流側に公衆トイレあり

写真6~写真8


一本橋 親柱意匠

親柱の意匠
資料*1より

一本橋は山王橋から大岡川を約320m下った個所にあります。旧街路拡張・新設による復興道路第20号路線が大岡川を渡る橋であり、横浜市施工で歩道を含めた橋幅は20mです。この路線は延長945mと短く、市街地を南北に横断する区間が主体を占めます。南は中村川を越えて掘割川右岸の道路(現在は国道16号横須賀街道)へと接続しています。

一本橋という名前の由来は不明ですが、名前からすると丸太橋のような簡単な橋があったのではないかと思われます。

震災復興橋の親柱には左の図のように意匠の施された塔柱照明が付属している図(資料*1)が残されていますが、現在は塔柱照明がありません。また、欄干は1988年に制作されたもので、彫刻家澄川喜一により「人」という文字でデザインされております(資料*2)。


塔柱照明等は無く、高欄は当時と異なっていますが、橋梁自体は当時のまま使用されているようです。




写真9 大岡川右岸より道慶橋を望む 遠景の高架は京急本線

写真9

大岡川右岸より道慶橋を望む 遠景の高架は京急本線

写真10 道慶橋の側面に「昭和弐年九月 復興局建造」の銘がある

写真10

道慶橋の親柱およびその意匠

写真11 道慶橋を上流側より望む

写真11

道慶橋を上流側より望む 写真右側の親柱の側面には「昭和二年九月 復興局建造」の銘がある

写真12 道慶橋の左岸下流側にある道慶地蔵尊

写真12

道慶橋の左岸下流側にある道慶地蔵尊

2015/8撮影

道慶橋(どうけいばし)

橋種:肘木式板桁橋⇒桁橋(ゲルバー式で、鋼板とL形鋼を主桁に使用した橋梁)

竣功:昭和2年9月(親柱の銘板より)昭和3年3月(資料*1より)

位置:横浜市南区前里町-日枝町

その他:左岸下流側に道慶地蔵尊あり

写真9~写真12


道慶橋は一本橋から大岡川を約260m下った個所にあり、大岡川に架かる国施工の震災復興橋です。資料1*には大正15年8月起工、昭和3年3月とあり、右岸上流側の親柱の側面には「昭和二年九月 復興局建造」の銘があります。資料1*の竣工年月と現地の銘板の年月が異なるのは何か理由があるのかも知れませんが不明です。また、左岸下流(道慶地蔵尊)側の親柱の側面下部には「工事請負者 工学士 宮長平作」の銘があります。

親柱上部の装飾は1989年に制作されたもので、僧道慶に因んだと思われる錫杖(しゃくじょう)がデザインされています。この装飾は、一本橋の高欄と同様に彫刻家澄川喜一の作品です(資料2*)。

左岸下流側には道慶地蔵尊があります。その由来碑によると、道慶橋は最初に橋を造った僧道慶に由来します。


< 由来碑 昭和53年7月 奉賛会による >

道慶地蔵尊

由来

明暦元年(三百二十年前)相模国久良岐郡太田村字前里耕地(現前里町三ノ六五)にあった渡川口に雲水僧道慶師(出生地不詳)が立寄り附近住民の難儀を見聞し之を救わんと同所に祀ある地蔵尊に草庵をむすび日夜地蔵尊に祈願して托鉢を重ね幾多の困難辛苦の末遂に万治元年独力にて橋を造り両岸住民の難渋を救った。道慶師没後その遺徳を偲び両岸の住民有志相計り同橋を道慶橋と名づけ 師の信仰せる地蔵尊を道慶地蔵尊としてお守りし今日に至る。

晋門院蔵古記より

また、次のような資料もあります。

この橋について、「横浜市史稿」地理篇の注記が、その由来についてつぎにように記している。

「地蔵堂の創立は、明暦元年六月中、僧道慶、同所旧渡し場に有之、地蔵尊を信じ、同所信仰者三十余名へ寄附し、新たに堂宇を築造せし者なり。這(これ)は古老より特に言ふ所なれ共同郡吉田新田は明暦元年より五年を経過し万治二年開鑿したるものに有之、其際太田村より吉田新田に通ずる小さなる橋、僧道慶新たに架し、今其遺名を残せり」(資料*4より)

上記の由来碑には万治元年(1658)に橋が造られたとありますが、資料3*によれば、その前々年の7月に埋立工事が開始されたものの前年の5月には海水の流入を遮断する潮除堤(しおよけつつみ)が大雨で破壊されて工事の中断を余儀なくされています。埋立工事が再開されるのはそれから2年後の万治2年(1659)2月で、一応の完成をみたのは寛文7年(1667)です。

道慶橋が架けられたとされる万治元年は、工事が中断していた時期にあたっており、干拓はまだこれからです。橋が架けられたということは、入り海の中には耕作可能なかなり広い土地があり、陸地側とは狭い水路(大岡川)で隔てられていたことを意味しているのでしょうか。不便な渡し舟に代えて、橋が架けられたようです。




写真13 太田橋の親柱(右岸下流側)

写真13

太田橋の親柱(右岸下流側)

背後の高架橋に京浜急行の赤い車両が見える

写真14 太田橋の親柱の側面(左岸上流側)

写真14

太田橋の親柱の側面(左岸上流側) 前方が大岡川の下流側

親柱側面には「昭和三年一月 復興局建造」の銘がある

写真15 

写真15

下流側より太田橋を望む

2015/8撮影

太田橋(おおたはし)

橋種:肘木式鋼板桁橋⇒桁橋(ゲルバー式プレートガーダー)

竣功:昭和3年1月(親柱の銘板より)昭和3年1月(資料*1より)

位置:横浜市南区白金町-中区末吉町

写真13~写真15


新設された復興道路幹線第6号が大岡川をまたぐ橋が太田橋であり、北西に進むと東海道(国道1号線)を越え、国道16号線へと延びています。歩道を含めた橋幅は22m(資料*1)で、大岡川に架かる橋としては弁天橋の27m、大江橋の23.6mに次ぎ3番目になります。

親柱の塔柱照明は江戸期を思わせるような常夜灯(金属製)ですが、周辺一般の塔柱照明とは趣を異にしています。

右岸の上流側の橋の脇には、「この旗のもとに 衆議院議員 藤山愛一郎」と記された石板と「オリンピック開催記念 昭和39年7月吉日建之 末吉町三四町内会 設計施工久保山 花塚石材店」と記された石板が設置され、旗ポールが建てられています。

橋名の選定

太田橋は国施工の新設橋であり、横浜市が橋名を復興局に申し出ることによって決定されています。太田橋は当時の地名で「南太田町字黄金町」と「南吉田町字末吉町」の間に架けられた橋ですが、南太田は通常太田という名で知られていることおよび他に太田橋という名の橋がないことから太田橋と命名されました。(資料1*)。

一般に、国施工の震災復興橋は復興局が橋名案を横浜市に照会し、横浜市が異存ないことや別名を回答する方法で決定されています。




写真16 左岸上流側より黄金橋の親柱を望む(左方向が下流)

写真16

左岸上流側より黄金橋の親柱を望む(左方向が下流)


写真17 右岸上流側の黄金橋の状況

写真17 右岸上流側の黄金橋の状況

写真18 上流側より黄金橋を望む

写真18 上流側より黄金橋を望む

2015/9撮影

黄金橋(こがねばし)

橋種:肘木式鋼板桁橋⇒桁橋(ゲルバー式プレートガーダー)

竣功:昭和3年4月(親柱の銘板より)昭和3年4月(資料*1より)

位置:横浜市中区日ノ出町・黄金町-末吉町

その他:右岸上流側に公衆トイレあり

写真16~写真18


親柱に柱塔照明はありませんが、2本の照明が加えられているようです。

長谷川伸と黄金橋

黄金橋の下流、2つ目の長者橋の脇には大正から昭和期の小説家・劇作家である長谷川伸の石碑があり、その説明板には長谷川伸は黄金橋のたもとで生まれたと記されています。資料*4によると、震災時に架けられていた黄金橋は長谷川伸の伯父の貢献するところが大きいという。

長者橋の上流にあるこの橋に、長谷川伸は後々まで愛着を持っていて、橋上に佇った姿の写真なども見たことがある。またかれの「自伝随筆」にはつぎのような一節がある。

「豪快なところのあったらしい秀造は、広くもない川一筋に妨げられて、こちらからもあちらからも五六丁大廻りして交通する不便がみていられず、独力で橋をかけたが、今もその名だけ継続されている黄金橋です。」

秀造というのは、かれの父新造の義兄にあたり、川は大岡川であることはいうまでもない。しかし「独力で橋をかけた」という件(くだり)は厳密にいえばそのとおりではない。」

黄金橋建設資金として、弁天通の茂木惣兵衛と太田村の志村源次郎が各々百両に対し、長谷川秀造は格段に多い百両と松板三百枚四十両を拠出したということが「独力で……」という表現になったのではないだろうかとこの資料*4の著者は述べています。




写真21 

写真19

旭橋(左)と旭橋人道橋(右 上流側)


写真22 

写真20

左岸上流側の旭橋の親柱

写真23 

写真21

下流側より旭橋を望む

2015/9撮影

旭橋(あさひばし)

橋種:肘木式鋼板桁橋⇒桁橋(ゲルバー式プレートガーダー)

竣功:昭和3年9月(親柱の銘板より)昭和3年9月(資料*1より)

位置:横浜市中区日ノ出町-末吉町

上流側に人道橋が追加されている

写真19~写真21


旭橋は狭い街路に架かる震災復興橋であり、橋幅は5.48mです。歩行者の安全を図るため、昭和46年3月に旭橋の上流側に旭橋人道橋が併設されました。人道橋には背の高い照明器具が取り付けられていますが、旭橋の親柱にはもともとなかったのか照明器具はありません。

関東大震災では、旭橋の2つ上流側の末吉橋から下流に向かって都橋まで、連続して6橋が焼失あるいは全壊し、護岸は崩壊あるいは亀裂が走りました。大岡川から分流した中村川や両河川に囲まれた領域(吉田新田)の運河(現在は無い吉田川や派大岡川)なども同様な状況を呈し、火災から逃げ場を失って、多くの犠牲者が発生しました。

出火元が多数に及ぶ大火災を前にして、川や運河は延焼を食い止める防火帯にはならず、人の避難を妨げる障害となりました。震災直後に人車か通行できる橋梁は、僅かに弁天橋、大江橋、吉田橋、車橋などだけでした。

震災の反省から、旭橋のように狭い街路が渡る橋でも、耐震性を考慮した不燃質の構造の震災復興橋に変わりました。




写真22 長者橋の親柱(右岸下流側)

写真22

長者橋の親柱(右岸下流側)


写真23 長者橋の親柱と塔柱照明

写真23

長者橋の親柱と塔柱照明

写真24 上流側から長者橋を望む 石橋を思わせるような雰囲気がある

写真24

上流側から長者橋を望む 石橋を思わせるような雰囲気がある

2015/9撮影

長者橋(ちょうじゃばし)

橋種:鉄筋混凝土 拱橋⇒アーチ橋(鉄筋コンクリート)

竣功:昭和3年1月20日(親柱の銘板より)昭和3年4月(資料*1より)

位置:横浜市中区日ノ出町-長者町

右岸上流側に公衆トイレ 左岸上流側に長谷川伸のモニュメントあり

写真22~写真24


復興道路幹線7号が大岡川を渡る橋が長者橋です。この路線は現在の主要地方道横浜駅根岸線(市道)で、横浜駅根岸線と呼ばれており、長者橋から北西に進み国道1号線を越えた付近で横浜駅に向かう道路と接続しています。

東海道と横浜港を結ぶ経路と長者橋の由来

東海道から横浜港に向かう明治初期の往還路に長者橋が架かっていました。長者橋を渡り、車橋で左に折れ、中村川に沿って下る経路がそれです。当初の長者橋は名もない土橋でしたが、馬車の通過台数が増すにつれて使用に耐えなくなり、明治7年に木橋として架け替えられました。この時の木橋は震災で焼失しました。

吉田新田の八丁畷(現在の長者町通り)が埋め立てられ、そこに貸家を建てて街並みらしいものができて、そこが長者町と名づけられていたことから、橋の名も長者橋と名づけられました(資料*4)。

震災復興橋としての長者橋

長者橋は国施工による震災復興橋で、石造りのアーチ橋を思わせる落ち着きと存在感を示しています。震災復興橋としては、簡単な桁橋が多い中でアーチ橋として際立った存在であり、当時も重要な幹線道路であったことを示しています。また、親柱の下には「工事請負 池田組」と記した銘板があり、池田組の力の入れようが感じられます。なお、歩道を含めた橋幅は21.8mであり、大岡川に架かる橋としては弁天橋の27m、大江橋の23.6m、太田橋の22mに次ぐ、4番目です。

左岸上流側には橋の脇のスペースに「長谷川伸 誕生の地」とする石碑とその説明板があります。長谷川伸とは大正から昭和期の小説家・劇作家であり、戯曲「一本刀土俵入り」などが有名です。

更にその上流側の川沿いには横浜日ノ出桟橋があります。この施設は、河川管理、災害時の防災拠点および地域振興に資する水上レクリエーション拠点として利用する目的で設置された浸水施設です。(大岡川「横浜日ノ出桟橋」利用案内板より)




写真25 右岸側から宮川橋を望む

写真25 右岸側から宮川橋を望む


写真26 左岸側より上流側の親柱・高欄を望む

写真26

左岸側より上流側の親柱・高欄を望む


写真27 

写真27 下流側より宮川橋を望む

2015/9撮影

宮川橋(みやかわはし)

橋種:肘木式板桁橋⇒桁橋(ゲルバー式で、鋼板とL形鋼を主桁に使用した橋梁)

竣功:昭和4年1月(親柱の銘板より)昭和4年1月

位置:横浜市中区宮川町-福富町

写真25~写真27


宮川橋 親柱意匠

親柱の意匠
資料*1より

宮川橋の親柱

親柱には左の図のように、意匠の施された塔柱照明が付属している図(資料*1)が残されていますが、現在はこの図にあるような塔柱照明ではなく、背の高い照明具が取り付けられています。




写真28 

写真28 右岸側上流側から都橋を望む


写真29 

写真29

左岸上流側側より都橋を望む 右側に交番があり、白塗りの警察の自転車が見える


写真30 

写真30 写真29の親柱で「昭和五十八年三月改築」の銘板がある

2015/9撮影

都橋(みやこはし)

橋種:肘木式鋼板桁橋⇒桁橋(ゲルバー式プレートガーダー)

竣功:昭和3年7月(親柱の銘板より)昭和3年7月(資料*1より)

改築:昭和58年3月改築(親柱の銘板より)

位置:横浜市中区野毛町-吉田町・福富町

その他:左岸上流側に都橋交番あり

写真28~写真30


橋名の変更と木橋から鉄橋へ

都橋の北側は野毛町であることから、かっては野毛橋と呼ばれていました。明治5年の架け替えの時、野毛橋を改めて都橋としました。その理由は資料*4によると次のように記されています。

近くに相接し相対した三橋に、それぞれ柳、桜、錦の命名が成り、それをもって古今和歌集の「柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦」といった、名歌仕立てのお膳だてがととのったということなのであった。

明治の初期はこの上流に架かる長者橋を渡り、中村川に沿って横浜港に入る経路でしたが、野毛山が開削されて道路が付けられると、都橋を通り、吉田橋を渡って中心街に入る経路が主要道になったようです。明治15年には木橋から鉄橋に架け替えられましたが、この橋は資料*4によると、「明治工業史」の中で「比類なき出来ばえ」と称賛を受けたものであったそうですが、残念ながら震災で落橋しました。震災復興橋として新しく架け替えられ、その後、改築して現在も使用されています。

共進橋 親柱意匠

共進橋親柱
の意匠
資料*1より

都橋の親柱など

南区のホームページ内(http://www.city.yokohama.lg.jp/minami/70minamiru/71spot-route/711hills/711005.html)によると、都橋の親柱は工事に伴い共進橋の親柱を移築したものとのことです。

共進橋は昭和57年9月に架け替えられ、都橋は翌年の3月に改築されています。資料*1による親柱の意匠と実際の意匠を見比べてみると照明器具の形状が異なっています。

これらのことより、昭和57年から昭和58年にかけて、共進橋の親柱が都橋に移設され、親柱の照明器具が復元されたと思われます。照明器具の復元は当時の雰囲気を壊さなければ良しとし、初期の形状にあまりこだわっていないようにもみえます。一方、親柱の照明器具と統一された中間灯柱や高欄など、都市のあるべき橋らしく一新されています。




震災復興橋および架け替えられた橋の親柱など

中村川の分岐点から下流の大岡川に架かる震災復興橋は4橋が架け替えられ、9橋が残っています。これらを上流側より順に一覧写真として表示します。

なお、弁天橋は橋梁が一新され、親柱は帆をモチーフとした堂々たるものに換りましたが、大江橋は当時の親柱はなくなり、単に橋名を示す程度の簡単なものに変わっています。

写真31 山王橋橋

写真31 山王橋

昭和2年5月竣功の震災復興橋

写真31 一本橋

写真31 一本橋

昭和3年10月竣功の震災復興橋

写真31 道慶橋

写真31 道慶橋

昭和2年9月竣功の震災復興橋

写真31 栄橋

写真31 栄橋

平成元年3月 架け替え

写真31 太田橋

写真31 太田橋

昭和3年1月竣功の震災復興橋

写真32 末吉橋

写真32 末吉橋

平成19年3月 架け替え

写真32 黄金橋

写真32 黄金橋

昭和3年4月竣功の震災復興橋

写真32 旭橋

写真32 旭橋

昭和3年9月竣功の震災復興橋

写真32 長者橋

写真32 長者橋

昭和3年2月竣功の震災復興橋

写真32 宮川橋

写真32 宮川橋

昭和4年1月竣功の震災復興橋

写真32 都橋

写真32 都橋 昭和3年7月竣功の震災

復興橋で昭和58年3月改築

写真33 大江橋

写真33 大江橋

昭和48年10月 架け替え

写真34 辨天橋

写真34 辨天橋

昭和51年3月 架け替え

2015/8,9撮影




参考資料

資料*1 横浜復興誌 昭和7年3月 横浜市役所

資料*2 ぷらざ新聞 2010年(平成22年)12月1日 吉野町市民プラザ(http://www.yaf.or.jp/yoshino/pdf/plazanews_12.pdf)

資料*3 横浜の礎(いしずえ)・吉田新田いまむかし 横浜資料博物館 2006

資料*4 小寺篤 よこはまの橋・人・風土 秋山書房 S58

その他の資料

関野昌丈 かながわの橋 企画は神奈川県県民部文化室 昭和56

復興橋梁一覧表 横浜市 建設局道路課橋梁係 作成年月日不明

時事新報付録 復興局公認 東京及横濱復興地圖 大正13年4月発行 時事新報社