作成:2015/10
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-37_4
残存率*とは架け替えられず、撤去されずに残っている震災復興橋の割合である。補修などがなされても残存しているとしている。
写真1
池下橋より掘割川を下流に向かって望む
写真2
根岸橋より掘割川の下流方向を望む 見える範囲は直線状を呈す
写真3
震災復興として全面的に石積護岸に改められた
写真は久良岐橋の下流左岸
写真4
「土木學會選奨土木遺産 2010 掘割川」
写真5
荷揚場(掘割川右岸天神橋上流側)
2015/9撮影
資料写真1
掘割川の開削(南区の歴史より)
掘割川は中村川の池下橋または久良岐橋から根岸湾まで開削した人口の川であり、震災復興橋が5橋(資料*1)ありましたが、天神橋は平成27年10月現在架け替え工事が実施されており、天神橋が架け替えられると震災復興橋は八幡橋だけになります。
掘割川の上流側より、当時の震災復興橋を順に挙げると次のようになります。
掘割川に架かる八幡橋の左岸の下流側には、掘割川を土木遺産として選奨することを示す石碑(写真4)があり、その脇には、掘割川魅力づくり実行委員会による説明板があります。その説明板には次のように記されています。
「掘割川の昔と今」
掘割川は、明治初期に、横浜港と根岸湾を結ぶ人口運河として、1870(明治3)年、神奈川県知事の布達を受けて、吉田新田の開発者・吉田勘兵衛の末裔が苦労の末、開削し、舟運や治水対策などにも大きな役割を果たしただけでなく、往年は掃部山、豊顕寺などとともに横浜の桜の名所として市民に親しまれていました。
1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災によって壊滅的な被害を受けましたが、「帝都復興事業」によって、石積護岸で復旧され、各所に物揚場、昇降階段、意匠を凝らした親柱をもつ八幡橋、根岸橋、天神橋、などの橋梁も造られ現在見る姿に生まれ~り、市内に有数の美しい水辺風景をみることができます。
「土木学会選奨土木遺産・石碑」の由来
掘割川は、長大な石積護岸など震災復興後の姿をほぼそのままの形で今に伝えていることから、歴史的土木施設としての高い価値が認められ、2010(平成22年)年度に土木学会より「土木学会選奨土木遺産」として認定されました。
足元にある石碑は、これを記念し設置されたものです。
掘割川(二級河川大岡川水系)の概要
延長約2.7km、川幅27~60m
八幡橋上流区域:延長約2.100m、川幅約27m
八幡橋下流区域:延長約600m、川幅約30~60mm
橋梁(上流より):中村橋、天神橋、根岸橋、坂下橋、磯子橋、八幡橋(左岸側2基の親柱は現存)
土木遺構:基礎杭打間知石練積重力式コンクリート護岸/荷揚場/昇降階段/花崗岩繋船柱・繋船環など
2014(平成26)年3月
掘割川魅力づくり実行委員会
明治3年4月に神奈川県県知事伊関盛艮(もりとめ)は、この掘割埋め立て工事を自費負担で行うものがあれば許可する。希望するものは申し出るように布達しました。
長者町に住居のある吉田勘兵衛家は、この時は九代目勘兵衛でした。二百年前に初代勘兵衛が埋立てた吉田新田116町歩私有している大地主です。その地は、今や市街地となり始めて、重要性を増していこうとしています。このような先祖の偉業を思い、今こそその資力を以って、埋立掘割をしなければ先祖にすまないと思った九代目は、この事業の志願をしました。この工事の許可条件は、掘った土で一つ目沼を埋めることと、滝頭の浜に波止場を造るということでした。
掘割川の掘削は多目的事業で、
等の目的がありました。
工事は明治7年の末には完成しましたが、難工事であり、吉田家は多くの財産を失いました。
写真6
掘割川の左岸側より天神橋を望む
写真7 天神橋の親柱
写真8
天神橋を上流より望む 橋に並行した構造物は工事のための仮設台
写真9
架替工事の工事の説明板 橋幅が広くなる
2015/9撮影
橋種:I型鋼桁橋⇒桁橋(I型鋼を主桁に使用した橋梁)
(注)「⇒」の左側は竣功当時の橋種で資料*1による。右側は現在の表現に書き直し。以下、同様。
竣功:大正15年3月(親柱の銘板による) 昭和2年4月(資料*1による)
位置:横浜市磯子区丸山町-上町
写真6~写真9
親柱の意匠
資料1*より
天神橋の親柱は資料*1によると、左に示すような意匠となっていますが、現在は塔柱照明がありません。
天神橋は、平成27年9月現在架け替え中ですが、完成時には左の図のような意匠の親柱が復元されるのでしょうか。上流側の中村橋も下流側の根岸橋も架け替えによって親柱が復元されていますが、根岸橋の下流側の坂下橋は簡単な石板状の親柱になっています。
天神橋とは一般には天満宮への参道に架かる橋を意味しますが、天神橋の周辺には天満宮はありません。天神橋がそのように呼ばれる所以は、岡村派出所のある交差点の「岡村天神旧参道」と題する案内板で知ることができます。案内板には次のように記されており、参道も地図に示されています。
区内の愛称道路の一つに「天神道路」がありますが、これは岡村天満宮の大正時代からの参道です。市街電車が開通するまで横浜中心部の人びとは船に乗り今の「天神橋」あたりの船着場で降りて、滝頭小学校正門、岡村三丁目公園を経て天満宮まで歩いて参拝しました。「天神橋」は天神参道の入り口だったのでなづけたものです。
関東大震災までは岡村と滝頭の境の所に「一の鳥居」がありました。毎月二十五日の祭礼にはこの道は朝早くから参詣者でにぎわい、特に八月の大祭には色とりどりに着飾った女性たちが参道にあふれました。沿道にはおでん屋やお土産屋がたくさん並び、名物の「大野屋の天神せんべい」「吉崎の奈良漬け」などが飛ぶように売れました。
後略
- 磯子区滝頭地区連合町内会
- 横浜磯子ライオンズクラブ
- 磯子区郷土研究ネットワーク
写真10
掘割川に架かる八幡橋 下流方向を望む
写真11
八幡橋の親柱(左岸上流側) 親柱は左岸側にしかない
写真12
下流側より八幡橋を望む 右側手前は花崗岩の昇降階段
2015/9撮影
橋種:I型鋼桁⇒桁橋(I型鋼を主桁に使用した橋梁)
竣功:昭和3年3月(親柱の銘板による)
位置:横浜市磯子区仲浜町・磯子-原町
その他:左岸上流側に公衆トイレあり
写真10~写真12
親柱の意匠
資料1*より
八幡橋は本牧通りが掘割川を跨ぐ橋ですが、東から本牧通りを西進して八幡橋で渡リ終えると八幡橋の西詰で国道16号線と合流します。八幡橋の親柱は左岸の本牧通り側だけであり、右岸側の国道16号線側にはありません。交通の支障となる親柱は撤去されたのでしょうか。
資料 磯子の史話によると、
新編風土記に記されている江戸時代の八幡川は、「滝頭村及岡・根岸の村々より出る水一条となり、村の中程を経て海に入る。幅三間半(約6m)、板橋を架す。」という川でした。
とあり、この板橋が八幡橋と呼ばれていました。
また、江戸時代のはじめに検地があった時、この辺一帯が根岸村から滝頭村に編入されたので、最初にあった八幡神社(はちまんじんじゃ)は根岸に移って、その後に滝頭八幡神社とよばれる現在の八幡神社(やはたじんじゃ)が創建されたようです。
なお、かっての八幡川の川幅は6m程度であったのに対し、明治3年に造り始められた掘割川は川幅30mであったため、社地は減少し、社殿は明治5年に現位置に移転改築されました。
関東大震災により、八幡神社の社殿や鳥居・石垣などが傾斜したり倒壊したりしましたが、修理は大正14年に完成しました。これを記念して「敬神碑」が建立されました。
掘割川では現在天神橋が架け替え中であり、これが完成すれば、震災復興橋5橋のうち、残存震災復興橋は八幡橋だけとなります。
以下、上流側より順に、残存震災復興橋及び架け替えられた橋の親柱などを一覧写真として表示します。
写真13 中村橋 平成19年4月 架
け換え 親柱は引き継ぎか
写真14 天神橋 大正15年3月竣功の
震災復興橋(架け替え中)
写真15 根岸橋 平成19年8月 架け
替え 親柱は復元されている
写真16 坂下橋
平成14年3月 架け替え
写真17 八幡橋
昭和3年3月竣功の震災復興橋
2015/8,9撮影
参考資料
資料*1 横浜復興誌 昭和7年3月 横浜市役所
復興橋梁一覧表 横浜市 建設局道路課橋梁係 作成年月日不明
南区の歴史 南区の歴史発刊実行委員会 昭和51年
磯子の史話 磯子区制50周年記念事業委員会「磯子の史話」出版部会 昭和53年
時事新報付録 復興局公認 東京及横濱復興地圖 大正13年4月発行 時事新報社