作成:2015/11 更新:2016/3

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 横浜 Y-37_6

今に残る震災復興橋(その6) --- 新田間橋(新田間川) ---

  • 震災復興橋所在地:横浜市西区
  • 対象河川名:新田間川(あらたまがわ)~幸川(さいわいがわ)、帷子川分水路の旧派新田間川
  • 残存震災復興橋:新田間橋
  • 残存率*:1/10 10%

残存率*とは架け替えられず、撤去されずに残っている震災復興橋の割合である。補修などがなされても残存しているとしている。

写真1 新田間橋より新田間川の下流方向を望む

写真1

帷子川から分流した新田間川の状況

前方の橋は帷子川の分流箇所から2番目の藤江橋


写真2 新田間橋より新田間川の下流方向を望む

写真2

新田間橋より新田間川の下流方向を望む

前方の橋は昭和32年竣功の一之橋で、震災復興橋ではない


写真3 写真1の新田間川の突き当り部 新田間川は右側に直角に曲がり、幸川と名を変える

写真3

写真2の新田間川の突き当り部 新田間川は右側に直角に曲がり、幸川と名を変える

なお、写真3の右側の橋は内海(うつみ)橋

2015/10撮影

新田間川~幸川および旧派新田間川区間の帷子川分水路に架かる当時の震災復興橋

新田間川及び幸川には、震災復興橋が10橋(資料1)ありましたが、架け換えが進み、当時の震災復興橋が残っているのは新田間橋だけになりました。

新田間川の上流側より、当時の震災復興橋を順に挙げると次のようになります。

新田間川

  • 烏帽子田橋(木橋) 昭和39年3月 架け替え
  • 藤江橋(木橋) 昭和37年5月 架け替え
  • 霜下橋(木桁橋) 昭和35年 架け替え 平成26年3月 拡幅
  • 浅岡橋(I形鋼桁橋) 平成13年3月 架け替え
  • 岡野橋(I形鋼桁橋) 平成9年4月 架け替え
  • 新間田橋(板桁橋) 昭和2年7月竣功の震災復興橋
  • (一之橋)非震災復興橋 昭和32年3月竣功

幸川

  • 内海橋(I形鋼桁橋) 昭和29年3月 架け替え
  • 南幸橋(木桁橋) 平成19年5月 架け替え

帷子川分水路の旧派新田間川部分

  • 月見橋(鋼板桁橋) 平成8年7月 架け替え
  • 金港橋(板桁橋) 昭和63年3月31日 架け替え

( ・印付太字で示した橋梁は今なお使用されている震災復興橋。( )内は橋種。竣工年月等は橋名板による。当時の震災復興橋は金港橋と新田間橋が国施工で、他は横浜市施工。 )

⇒ 河川及び震災復興橋の位置を地図で確認する


新田間川について

新田間川は江戸時代から干拓・埋め立てによる新田開発の際の用水路として使用されていました。明治5年に鉄道が新橋-横浜間に開通したころは、新田間橋近くまで入江が入り込んでおり、鉄道は入り江を横断して築造した堰堤上に敷設されました。当時、現在の横浜駅西口周辺の繁華街は入江の中でした。

新田間橋から新田間川の下流側を望むと一直線の流路が横浜駅西口のビル群にはばまれているのを望むことができます(写真2参照)。新田間川は、ビル群にはばまれたようにしてここで終わり、直角に曲がって幸川(さいわいがわ)と名を変えて再び帷子川合流します(写真1と写真2を参照)。かって、新田間川はそのまま直進し、月見橋(現在の帷子川分水路)の上流側に接続して河口とつながっていました。

写真4 新田間川右岸より新田間橋を望む

写真4

新田間川右岸より新田間橋を望む

写真5 新田間橋の親柱(右岸下流側)

写真5

新田間橋の親柱(右岸下流側)


写真6 新田間橋を下流側より望む

写真6 新田間橋を下流より望む


写真7 新田間橋の案内を下流側より望む

写真7 新田間橋の案内柱
横浜道 西区歴史街道


写真8 新田間川緑地 この付近に木ノ花橋があった

写真8 新田間川緑地

背後の新田間川から分流して派新田間川が前方に延びており、これ(写真手前の道路付近)に木ノ花橋が架かっていた


写真9 南幸橋の高欄のデザイン

写真9 南幸橋の高欄のデザイン

写真8:2016/2撮影

その他:2015/9~11撮影


新田間橋

橋種:板桁橋⇒桁橋(鋼板とL型鋼を使用したプレートガーダー)

橋の中央部はプレートガーダーであるが、両脇に小さいアーチ橋が組み合わされている

(注)「⇒」の左側は竣功当時の橋種で資料1による。右側は現在の表現に書き直し。

竣功:昭和2年7月(親柱の銘板による) 昭和2年7月(資料1による)

位置:横浜市西区浅間町-南幸2丁目・岡野1丁目

写真4~写真7


新田間橋と吉野橋

新田間橋の橋種は、中村川に架かる吉野橋と同じであり、中央の桁橋と両側に小さなアーチ橋を組み合わせた形状が独特のデザインとなっています。また、両橋とも国施工です。

新田間橋と吉野橋を比較すると、新田間橋は解放された空間に架けられており花崗岩の意匠と相まって全体が明るく見え(写真6参照)ます。一方、吉野橋は高速道路に被われて圧迫感があるものの、照明器具が復元されている親柱と石貼りの高欄は豪華さで勝り、橋長でも勝ります。

新田間橋の親柱は幹線道路に架かっている親柱としては小型で比較的単純な形状で照明塔はありません。


新田間橋の歴史

幕府は、安政6年(1859)の神奈川(横浜)開港を目前にして、東海道方面から開港場に至る横浜道という街道を開きました。この附近の横浜道は当時の沼地に直線道路を通し、新田間川には新田間橋、帷子川には平沼橋(現元平沼橋)、石崎川には石崎橋(現敷島橋)が架けられました。


新田間橋右岸下流側の親柱の傍には案内用の角柱があり、それには新田間橋の説明が次のように記されています。

新田間橋

東海道と開港場横浜戸を最短距離で結ぶ横浜道の最初の橋で、新田間川に架かっています。開港後の錦絵などには反り橋として描かれていて、その偉容を示しています(長さ十間、幅三間)。横浜道は開港場へのメインロードで、多くの人がこの橋を渡って往来しました。大正12(1923)年の関東大震災によって落橋しましたが、震災復興事業の一環として再建され、昭和2年2月に竣工しました。

派新田間川について

新田間橋の左岸下流側には新田間川に直交するような方向に新田間緑地(写真8参照)が延びています。新田間緑地はかっての派新田間川跡地であり、分水地点に(写真8の道路)は震災復興橋である木ノ花橋が架かっていました。派新田間川は下流に向かって直進後、右に大きく曲りつつ、現在の帷子川分水路を経て河口へとつながっていました。

<参考:派△△△川と×××川派川>

一般に、河川は枝分かれした多くの支流が本流に流れ込んでいます。本流のことを本川(ほんせん)、支流のことを支川(しせん)と呼び、これら全体を水系と呼んでいます。本川に流入する支川とは逆に、本川から派生・分流する川のことを本川に再流入する場合を含めて派川と呼びます。

横浜駅東口の北端にある月見橋の親柱の銘板には「派新田間川」の文字がありますが、派新田間川は河川名として用いられ、新田間川の派川であることを示しています。この用法は派大岡川も同様です。

一方、資料1によると、派新田間川に対して「新田間川派川」と記載されています。「新田間川派川」は「利根川支流」と同様な用法で、新田間川の派川であることを示すだけで本来河川名ではありません。しかしながら、派川が1つだけなら河川・範囲が特定されるので、河川名の代わりとして用いることができます。派川が複数ある場合は、入江川のように入江川第一派川・第二派川などで区別され、特定の河川・範囲を示す河川名になっています。

本川と派川の関係は相対的で、実際には帷子川の派川が新田間川であり、新田間川の派川が派新田間川です。

なお、派新田間川(西区)も派大岡川(中区)も埋立られ、緑道や道路等に変わりました。入江川第一派川(神奈川区)などは埋立地の運河として残っています。

コメント:親柱の金属製柱状照明と高欄

親柱の金属製柱状照明は無いものが多く、高欄も当時のものでないものが多いようです。

幸川に架かる南幸橋は平成19年5月に架け替えられ、震災復興橋は残っていません。現在の南幸橋の高欄はカモメとヨットを配置したデザイン(写真8 参照)で港横浜をイメージさせるような現代的な感じを受けます。このデザインは新田間川に架かる一之橋の高欄と同じデザインであり、当時の震災復興橋のデザインを引き継いでいないように思われます。

金属製の柱状照明や高欄が現在まで残る条件は次のような理由で厳しく、多くが失われたとしても不思議ではありません。

  • 腐食による劣化
  • 戦時中の金属回収(昭和16年の国家総動員法にもとづく金属類回収令)
  • 空襲による破損
  • 戦後混乱時の盗難
  • 補修時のデザインの軽視(機能重視)による撤去や移設

中でも、戦時中の金属回収は広範囲に亘り、お寺の釣鐘から家庭の鍋釜・子供のおもちゃに至るまで金属回収の対象になりました。そのような環境で橋梁の金属製の柱状照明や高欄が金属回収の対象から免れる可能性は小さかったと想像されます。このように考えると、震災復興橋に橋名板が残されているのが不思議とも思えます。橋梁を管理する上でも橋名板は必要であり、失われたとしても後に復元されたかもしれません。




以下、上流側より順に、改めて親柱などの写真を表示します。

新田間川

写真10 烏帽子田橋

写真10 烏帽子田橋 震災復興橋は木

橋で、現在の橋は昭和39年3月竣功

帷子川からの分流箇所に架かる

新田間川

写真11 藤江橋

写真11 藤江橋  震災復興橋は木橋

現在の橋は昭和37年5月竣功 下流

で、側に人道橋がある

新田間川

写真12 霜下橋

写真12 霜下橋 震災復興橋は木桁で

昭和35年に架け替え 平成26年3月に

拡幅上下流両側に人道橋がある

新田間川

写真13 浅岡橋

写真13 浅岡橋 震災復興橋よりも橋

幅を広くして平成13年3月に架け替え

前方の高いネットは岡野中学校

新田間川

写真14 岡野橋

写真14 岡野橋 昭和49年1月 架け替

え 南に進むと平沼一之橋で帷子川と

鉄道敷を跨ぎ、横浜駅根岸道路に合す

新田間川

写真15 新田間橋

写真15 新田間橋

昭和2年7月竣功の震災復興橋

新横浜道路が通過する

幸川

写真16 内海橋

写真16 内海橋(うつみはし)

昭和29年3月 掛け替え

左の新田間川に接し、幸川に架かる

幸川

写真17 南幸橋

写真17 南幸橋 震災復興橋は木桁で、

現在の橋は平成19年5月 掛け替え 横

浜駅西口南側で雑踏の中に橋が架かる

帷子川分水路(旧派新田間川)

写真18 鶴屋橋

写真18 鶴屋橋 3代目架け替え中


左前方が横浜駅きた西口 現在は

迂回する仮の橋が架かっている

帷子川分水路(旧派新田間川)

写真19 月見橋

写真19 月見橋 平成8年7月架け替え

柱状照明は復元か 派新田間川の銘

板がある 前方左は横浜駅のホーム端

帷子川分水路(旧派新田間川)

写真20 金港橋

写真20 金港橋 昭和63年3月架け替え

親柱は新しいデザイン 遠景の水色の

橋は一つ上流の月見橋

2015/9~12撮影




参考資料

資料1 横浜復興誌 第二編 昭和7年3月 横浜市役所

帷子川水系河川整備計画 平成26年12月 神奈川県 http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/746521.pdf

横浜市西区区役所のホームページの「西区の橋」http://www.city.yokohama.lg.jp/nishi/miryoku/hashi/

時事新報付録 復興局公認 東京及横濱復興地圖 大正13年4月発行 時事新報社

横浜市1/3,000地形図「三ツ沢」 昭和22年