作成:2015/12
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-37_7
残存率*とは架け替えられず、撤去されずに残っている震災復興橋の割合である。補修などがなされても残存しているとしている。
写真1
尾張屋橋より、石崎川の分流箇所を望む 本流は帷子川
分流箇所に藻汐橋が架かっていたが撤去されている
写真2
扇田橋より下流方向を望む
写真3
石崎川の案内板 前方(下流方向)に小さく見える青い橋は浅山橋
2015/10,11撮影
石崎川には当時11の震災復興橋が架けられ、現在も7橋の震災復興橋が使用されています。
石崎川の上流側より、当時の震災復興橋を順に挙げると次のようになります。
( ・印付太字で示した橋梁は今なお使用されている震災復興橋。( )内は橋種。髙島橋が復興局施工で、他は横浜市施工。 )
石崎川は新田間川と同様に江戸時代から干拓・埋め立てによって開発された新田の水路として使用されていました。
帷子川の分流点から始まる石崎川は、一旦帷子川から離れて高島橋までは海岸方向(北西方向)に向かいますが、高島橋を過ぎると急角度で北方向に曲がり浅山橋を経て帷子川に合流します。分流箇所から合流箇所までの流路に沿った距離は約1.73kmです。
石崎川の左岸(北側)は遊歩道・歩道橋が整備され、万里橋から要橋に至る区間が石崎川プロムナードと呼ばれています。西平沼橋より西側は鉄道敷により車の横断が阻止されていること、西平沼橋より東側は幹線道路(横浜駅根岸線や東海道線及び県道13号線)に4方を囲まれていることから、幹線道路を横断する周辺以外は静かで、車の騒音や雑踏はないと言ってもいいほどです。桜の名所になっているのは大岡川プロムナードと同様です。
写真4
石崎川左岸より扇田橋を望む
写真5
扇田橋の親柱(左岸上流側)
写真6 扇田橋を上流側より望む
高架橋は平沼二之橋で、左方向にある鉄道線路敷とともに石崎川を跨ぐ
2015/10撮影
橋種:I形鋼桁橋⇒桁橋(主桁をI形鋼としたプレートガーダー)
(注)「⇒」の左側は竣功当時の橋種で資料*1による。右側は現在の表現に書き直し。以下、同様。
竣功:昭和3年11月(親柱の銘板による) 昭和3年2月31日(資料*1による)
位置:横浜市西区平沼2丁目-中央1丁目・2丁目
写真4~写真6
扇田橋は頭上の平沼二之橋の下に隠れるように架かっています。北西約60mの距離には、東海道本線・横須賀線・相模鉄道の電車が頻繁に通過していますがやや距離があり、騒音とは感じません。扇田倍の頭上を平沼二之橋が跨いでいますが、平沼二之橋の防音・防振構造がきいているのか、思いのほか静かでひっそりとしています。
平沼二之橋は鉄道によって分断されていた浅間町・岡野町と西区区役所のある中央を結ぶ橋として、昭和49年に架設されました。
写真7
横浜駅根岸線の通る西平沼橋 根岸方向は後方
西平沼橋を渡って斜め右に右折すると浅山橋(石崎川)と万里橋(帷子川)を渡って横浜駅東口に至る
写真8
西平沼橋の親柱 横浜市の震災復興橋では最大級の親柱である
写真9
上流方向から西平沼橋を望む
2015/10現在河川改修の工事中で、基礎の地盤改良が行われている 工事のため、川は2/3程度が締め切られいる
2015/10撮影
橋種:鋼板桁⇒桁橋(プレートガーダー橋)
竣功:昭和3年(親柱の銘板より)、昭和3年3月16日
位置:横浜市西区平沼2丁目-中央1丁目・戸部本町
写真7~写真9
西平沼橋は市道横浜駅根岸道路が石崎川を渡る橋であり、橋幅は22mの震災復興橋です。この路線を横浜駅東口から根岸方向に向かって辿ると、帷子川の万里橋(幅22m)→石崎川の浅山橋(幅22m)→石崎川の西沼野橋(幅22m)→大岡川の長者橋(21.8m)→中村川の車橋(幅18m)などの橋を経て、アーチ橋の打越橋(長さ38.5m幅7.3m)をくぐります。重要路線の1つとして考えられており、橋梁幅が広い他に親柱も立派なものが目立ちます。これらの橋梁の内、車橋以外は当時の震災復興橋です。
2015年10月に現地を訪れると西平沼橋の橋の下で河川改修工事を実施していました。案内板には「浸水被害を低減する河川改修を行います」とあり、鋼矢板工、地盤改良工、笠コンクリート工の実施状況が断面図に示されていました。実質的には、西平沼橋の基礎と護岸の補強工事であり、西平沼橋は今後とも長く震災復興橋のままで使い続けられるでしょう。
一般に、橋梁の寿命は30~100年程度と考えられていますが、かって、補修や改築よりも架け替えた方が経済的で速い、あるいは拡幅を理由に架け替えが選択された時期があったことが寿命を短くしているものと思われます。また、意匠を軽視した機能優先の時期があったことは装飾のない長方形のコンクリート製の親柱や親柱の省略に見ることができます。
橋梁周辺や川岸などの環境は人が生活するための重要な都市機能の一部であるという認識がもたれるようになり、大正末期~昭和初期の意匠の親柱が橋梁の価値を高めています。
西平沼橋の親柱は横浜市の震災復興橋の親柱としては最大規模で、高さが目立ちます。親柱はアール・デコ調に装飾された花崗岩の石柱に金属枠の3台の灯篭が配置されています。和洋融合を狙うような意匠です。
西平沼橋は新設です。
資料*1によると、当橋梁は西平沼町字平沼と西戸部町字扇田の間に架かるので、地名を採って西平沼橋と名づけられました。
写真10 左岸側より平戸橋を望む
写真11 平戸橋の親柱
写真12 平戸橋を下流側から望む
2015/10撮影
橋種:鋼板桁⇒桁橋(プレートガーダー橋)
竣功:昭和3年8月(親柱の銘板より)、昭和3年8月5日
位置:横浜市西区平沼1丁目・2丁目-戸部本町
写真10~写真12
平戸橋の親柱は小型ながらどっしりとしており、照明器具も重量感があります。ただし、照明燈はついていません。
平戸橋の有効幅員は8mで、車道片側1車線です。専用の歩道を設けることができない橋幅であり、狭い路側帯がグリーン色でペイントされています。
南北西の3方を幹線道路の横浜駅根岸道路と東海道に囲まれており、交通量が少ないためか、歩道橋が追加されるまでには至っていません。
写真13
左岸側より梅香崎橋を望む 橋の左右に人道橋が付け加えられている
写真14 梅香崎橋の親柱
写真15
梅香崎橋の側面を上流側から望む
2015/10撮影
橋種:鋼板桁⇒桁橋(プレートガーダー橋)
竣功:昭和4年9月(親柱の銘板より)、昭和4年9月30日
位置:横浜市西区平沼1丁目-戸部本町
写真13~写真15
梅香崎橋は幅(有効幅員)5.5mと狭く、車道と歩道の区別のない橋でしたが、都市化の進行に伴う交通量の増大と歩行者の安全に対する解決策として、昭和59年に上下流両側に歩道橋が追加されました。このような歩道橋の追加例は多くあります。
有効幅員5.5mというのは、最狭級の残存震災復興橋であり、架け替えられた震災復興橋の中には狭いことが理由になったものもあると想像されます。
新設の震災復興橋です。
資料*1によると、新設されることになった紅梅町・石崎町を横断する橋であることから、紅梅町の梅と石崎町の崎を採り、中に香を挿入して、梅香崎橋という情緒的な橋名が付けられました。紅梅町と石崎町はその後に町丁変更により、現在の中央1丁目・2丁目及び戸部本町の一部になっています。
写真16
左岸側より石崎橋を望む
写真17 石崎橋の親柱
写真18
石崎橋を下流側から望む
2015/10撮影
橋種:鋼板桁⇒桁橋(プレートガーダー橋)
竣功:昭和3年8月(親柱の銘板より)、昭和3年8月24日
位置:横浜市西区平沼1丁目-戸部本町・桜木町7丁目
写真13~写真15
幕府は、安政6年(1859)の神奈川(横浜)開港を目前にして、東海道方面から開港場に至る横浜道という街道を開きました。帷子川下流の横浜道は当時の沼地に直線道路を通し、新田間川には新田間橋、帷子川には平沼橋(現元平沼橋)、石崎川には石崎橋(現敷島橋)が架けられました。
石崎橋の橋名は、横浜道の石崎川に架かる橋であり、石崎川の名前を採って名付けられました。
現在の敷島橋の位置にあった石崎橋は大正4(1915)年に開業した二代目の横浜駅の建設に伴い、現在位置に移動しました。現在の石崎橋は震災復興橋として昭和3年に架橋されたものです。なお、二代目横浜駅は震災後に三代目横浜駅として現在地に移動しました。
石崎橋の親柱は、門柱としてもありそうな安定感のある意匠になっています。この上に柱状照明があれば立派な親柱になりますが、もともとあったかどうかも不明です。
石崎橋の有効幅員は6.5mと狭く、専用の歩道はありません。下流側に路側帯がペイントとポールにより車道と区別され、歩道として使用されています。
写真19
石崎川プロムナードの人道橋より、高島橋を下流側から望む
写真20 高島橋の親柱
写真21
高島橋を下流側より望む 右側に石崎川プロムナードの人道橋がみえる
2015/10撮影
橋種:鋼板桁⇒桁橋(プレートガーダー橋)
竣功:昭和4年1月(親柱の銘板より)、昭和4年1月
位置:横浜市西区平沼1丁目-桜木町7丁目・高島町2丁目
写真13~写真15
明治5年に新橋-横浜間に開通した当時は横浜駅(現桜木町駅)と神奈川駅の間には入江(袖ヶ浦)がありましたが、入り江を突っ切って海上に堰堤が設けられ、この堰堤上に鉄道が敷設されました。この入江区間の埋め立て築堤工事は高島嘉右衛門(たかしまかえもん)が神奈川県から請負って完成させました。
高島橋の橋名は高島嘉右衛門に因んでおり、資料*1によると、高島橋の橋名は他に高島という名の橋がないことから高島と名付けられました。高島という地名は高島1・2丁目として現在も残っています。高島にはJR横浜駅、そごう横浜店、横浜中央郵便局などがあります。
親柱の意匠
資料1*より
長柱状の大型の親柱で、照明器具が上端部付近に組み込まれています。親柱の最上部のでっぱりがアクセントになっており、比較的簡単な意匠が上品さを表しています。
写真22
左岸側より浅山橋を望む 前方が横浜駅方向
写真23 浅山橋の親柱(左岸下流側)
写真24
上流側より浅山橋を望む
2015/10撮影
橋種:鋼板桁⇒桁橋(主桁をI形鋼としたプレートガーダー)
竣功:昭和3年2月(親柱の銘板より)、昭和3年3月25日
補修:平成25年度から平成26年度
位置:横浜市西区平沼1丁目-高島町2丁目
写真13~写真15
平成26年度に浅山橋の補修工事が実施され、灯具(親柱)を復元して、平成26 年6月20 日より点灯が開始されました。
「横濱に昭和のともし火を ~浅山橋の灯具(親柱)を復元して点灯します!~」と題した横浜市(道路局橋梁課・西区西土木事務所)記者発表資料には、次のように記されています。
浅山橋は、1923(大正12)年の関東大震災後の震災復興事業で造られた「震災復興橋梁」※として1928(昭和3)年に竣工した、横浜駅東口から約300m に位置する石崎川に架かる橋梁です。
竣工当時の浅山橋は、文献によれば、親柱の頭部に灯具を有していましたが、長らく親柱のみの状態となっており、他の震災復興橋梁の多くも灯具は現存していません。
今回、浅山橋の補修工事に併せ、親柱の灯具を復元しました。灯具には、ソーラーパネルを設置して明かりを灯し、夜間に当時の面影をかもしだします。
※ 震災復興橋梁とは、1923(大正12)年の関東大震災後の震災復興事業として造られた橋梁で、市内では、現在41 橋が現存しています。優れた美観を有するものが多く、特に橋梁の四隅に建つ親柱は、橋梁毎に固有の意匠があり、昭和初期の趣を残しています。
親柱の意匠
資料1*より
浅山橋は照明器具が復元されましたが、震災復興橋の多くは照明器具が失われています。照明器具の失われた親柱は、当初の意図されたデザインからすれば、不完全でバランスを欠くものですが、それでも大きな違和感があるとは言えません。照明器具の付属していない、デザイン・材質ともに劣る高度成長期に架設された橋梁の親柱を多数見ているためでしょうか。
以下、上流側より順に、改めて親柱などの写真を表示します。
写真25 藻汐橋跡
撤去済み
写真26 浜松橋 昭和45年3月歩行者
専用として架け替え
写真27 要橋
昭和36年9月 架け替え
写真28 扇田橋
昭和3年竣功の震災復興橋
写真29 西平沼橋
昭和3年竣功の震災復興橋
写真30 平戸橋
昭和3年8月竣功の震災復興橋
写真31 梅香崎橋
昭和4年9月竣功の震災復興橋
写真32 石崎橋
昭和3年8月竣功の震災復興橋
写真33 敷島橋
竣工年月不明 親柱無
写真34 高島橋
昭和4年1月竣功の震災復興橋
写真35 浅山橋 昭和3年2月竣功の震
災復興橋 平成27年補修・灯器具復元
2015/10~11撮影
参考資料
資料*1 横浜復興誌 昭和7年3月 横浜市役所
帷子川水系河川整備計画 平成26年12月 神奈川県 http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/746521.pdf
横浜市西区区役所のホームページの「西区の橋」http://www.city.yokohama.lg.jp/nishi/miryoku/hashi/
時事新報付録 復興局公認 東京及横濱復興地圖 大正13年4月発行 時事新報社