作成:2003/1 更新:2017/10
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-05
写真1 横浜公園遠景
写真2 横浜公園石碑(由来碑)
写真3 横浜公園 水の広場
水の広場は、明治20年(1887年)10月に創設された横浜水道の100周年を記念して、造りました。
地下には循環式の貯水タンク(容量60m3)があり、災害時に必要な飲料水を確保しています。昭和62年10月
(水の広場モニュメントの説明板より抜粋)
写真4 横浜公園の噴水塔
この噴水塔は関東大震災の復興事業として1928(昭和3)年に完成したもので、公園から港へ向かう日本大通りの中心軸と重なるように配置されています。(現地説明板による)
写真1~3 撮影:2002/12
写真4 撮影:2017/10
写真1は横浜公園を海岸(県庁)方向より眺めた写真です。公園内には横浜スタジアム(球場)があり、中央遠景にナイター用の照明塔が見えています。写真1の公園入り口から入ると、約30m先の左側に横浜公園の由来碑(写真2)があります。この由来碑は関東大震災の復興を機に設置されました。また、正面には横浜スタジアムを背景にして噴水塔が見えますが、この噴水塔も横浜公園の復興を記念したものです(写真4を参照)。
当時の横浜公園の状況を資料「西坂勝人著 神奈川県下の大震火災と警察」よりみてみます。
・・・又辛うじて一條の活路を得たものも、西に逃くれば既に橋梁は落ち、東に逃くれば火災にさえぎられ、追はれに追はれ、逃げに逃げて生地を求め、横浜公園内に落込み来つた者実に数万に達し、知事、内務、産業両部長などの県庁幹部もその中に在った。然るに横浜公園もやがて四方から火炎の包囲を受け、殊に園内に在った横浜社交倶楽部(木造)に延焼した為、猛烈なる焦熱が迫って耐え難く、婦人や幼兒は悲鳴を上げて啼き叫んだが、その中に旋風が捲き起こり、焼板或は焼「トタン」の類を雨のように降らし、一方水道鉄管の破裂によって腰までも及ぶ出水を見るに至り、仰ぐも俯すも身を容れるゝの地なく、生きながらにして八大地獄の裡に陷るの苦しみを嘗めたが、併し此公園内での死者は少数に止まり、大部分は萬死に一生を得たのは寔に天佑と云わなければならぬ。もし公園内に此泥水がなく、また多少でも火の粉を防ぐ木陰がなかったならば、此処にも亦、本所被服廠跡よりも一層大なる惨禍を醸生すべかりしであって、考えても実に慄然たらざるを得ない訳である。・・・
上記の資料によれば、3万8千人の人の犠牲を出した本所被服廠跡の出来事と同じような惨事がこの横浜公園で発生する可能性があったこと、そして辛うじてあるいは幸運にも免れることができたことが指摘されています。
横浜公園には約6万人の人が避難していましたが、そのほとんどが助かりました。この原因を本所被服廠跡地の場合と比べてみると、
碑文の写し
ルビ追加
行数および1行の文字数は実際の通り