作成:2014/1

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 横浜 Y-14

中区元町 --- 元町薬師堂の大震災殃死者慰霊碑 ---

  • 所在地:横浜市中区元町1丁目
  • 元町薬師堂
  • 碑銘:大震災殃死者慰霊碑
  • 建立年月日:昭和10年9月1日
  • 交通:みなとみらい線「元町・中華街」から約3分(行程150m)
  • JR根岸線「石川町」から約15分弱(行程800m)
元町薬師堂 全景

写真1

元町薬師堂 全景

元町薬師堂

写真2

元町薬師堂

大震災殃死者慰霊碑

写真3

大震災殃死者慰霊碑(左)

戦災者供養塔と並んで建つ

震災地蔵尊付近から眺めた市街地

写真4

元町1丁目 元町通り 北西端起点付近の状況

左の建物は元町プラザ

元町薬師堂は写真1に示すように3階の位置にあり、2階の庭に大震災殃死者慰霊碑などの石碑があります。


<資料 横浜市震災誌 横浜市役所 第二冊 1924(大正15年)より>

元町一丁目より五丁目は、山手町北崖の下に在る長い街である。街の北なる堀川を渡れば山下町で、前後に外人街を控えた関係上、外人をお客とする日需品の商店が軒を並べて、震災前は戸数一千二百十八、人口約六千を有していた。大震の起こるや、町の背後なる一帯の断崖は到る所崩壊して、崖下に在る数多くの家屋を埋めた。又川沿いの道路には、所々大亀裂を生じ川岸は崩壊した。崖崩れの著しき箇所を挙げると、一丁目の増徳院*1後ろの高さ三間の石垣は全部崩壊し、浅間坂の所謂百一段*2は、坂上の雨森家と共に有名なものであったが、地所約三十坪諸共転落して、その真下の二丁目百九十七番地より三丁目百三十二番地までの数十軒の家屋が埋没され、全滅に近き程度の死者を出した。 …中略…

火は各所に発した。折柄強風に煽られて、忽ちの間に四辺は火となり、一棟も残さず焼失した。逃げるに早かったものは、横浜公園に入った者もあるが、多くは間近なる新山下町の埋立地に入り、又中には坂を上って山手公園や外人墓地等に逃げ込んだ。

(現代仮名づかい、新字体に改めた)


増徳院*1 写真4の左側(現在の元町プラザを含む)の広大な敷地に在った寺院で、関東大震災で壊滅的な打撃を受け、横浜市南区平楽(へいらく)に移りました。元町には薬師堂だけが残り、戦災後に階下を車庫とする鉄筋コンクリート造として再建されました。この堂が大震災殃死者慰霊碑のある元町薬師堂です。

浅間坂の所謂百一段*2 101段あった石段で「元町百段」と呼ばれていました。

 ⇒ 碑文を見る


元町薬師堂は右側の建物の裏側にあります。

左側の建物を含む付近一帯にはには震災当時、増徳院がありました。


<資料 中区史 地区編第六章 元町石川地区より>

その頃の町を象徴するものは相変らず増徳院であった。いまの元町一丁目一三番地 一帯にあって、関東震災では本堂、庫裡、薬師堂、弁天堂などそれに二本の大きなイチョウなどが壊滅的な打撃を受けた。元町の人びとにとってはなつかしい寺院であった。

震災後、増徳院は南区平楽に移り、元町には薬師堂のみが残 り、戦災後再建された。鉄筋コンクリート造り、階下は車庫。