作成:2009/11

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 横浜 Y-11

中区 神奈川県立歴史博物館
--- 旧横浜正金(しょうきん)銀行本店 ---

  • 所在地:横浜市中区南仲通5-60
  • 現神奈川県立歴史博物館 旧横浜正金銀行本店
  • 竣工年月日:明治37年8月8日
  • 交通:みなとみらい線(東急東横線より直通) 馬車道駅から徒歩1分
  • JR根岸線または横浜市営地下鉄 「関内」から徒歩約8分
 旧横浜正金銀行本店(神奈川県立歴史博物館)表入口

写真1

旧横浜正金銀行本店(神奈川県立歴史博物館)表入口


旧横浜正金銀行本店 弁天通側

写真2

同弁天通側 弁天通を北西方向に望む
道路を隔てた向かい側には、当時川崎銀行支店であったが焼失を免れた(現日本興亜 馬車道ビル)

旧横浜正金銀行本店(神奈川県立歴史博物館)の概要を下の表に示します。

旧横浜正金銀行本店(神奈川県立歴史博物館)
構造 補強煉瓦・石造り3階・地下1階建
設計 妻木頼黄(つまきよりなか)
起工
竣工
1899(明治32)年3月25日
1904(明治37)年8月8日
建坪 2152m2(652坪)
国指定 昭和44年 重要文化財
平成7年  近代史跡(当建築物と周辺地)
改修工事 1925年 関東大震災後の復旧工事
1967年 神奈川県立博物館として使用
1995年 神奈川県立歴史博物館として使用
旧横浜正金銀行本店本館 神奈川県立歴史博物館パンフレット、案内板より



屋上ドーム

図3 同 屋上ドーム

関東大震災で焼失した屋上のドームは1967(昭和42)年に再建されました


国指定重要文化財であることを示す石柱

写真4

国指定重要文化財であることを示す正面玄関脇の石柱


国指定重要文化財であることを示す正面玄関脇の石柱

写真5 同 上

撮影:2009/10


火災に退路を断たれ、広場などで多数の焼死者が発生した例は多いものの、横浜正金銀行の場合は建物内(地下室)に避難することによって多くの人命が救われた例です。

火災の火はガラス窓やガラス天井を溶かして建物の内部に侵入し、内部の木造部や調度品などを焼きましたが地下室は無事でした。しかし、 「いまにも窒息するほど苦しんだ」という記述の資料もあり、弁天通側の区画も焼けていれば地下室の避難者の命はどうなっていたでしょうか。

当時の状況を資料より抜粋します。

  • ・ 地震発生後の13時には、建物の窓(外部の鉄扉)や出入口を閉じ、広場等周囲の避難者200人を含む行員100人、傭人約40人、計340人が、弁天通川崎銀行支店に面する方の地下室に避難した。15時ごろには1階が焼失するが、地下室炊事場にあった汲み置き水や、焼失を免れた川崎銀行側の窓を開けることにより新鮮な空気を取り込んでしのぎ、16時30分には全員が安全な状況となった。しかし、周辺では逃げ遅れてきた140人が焼死していた。
     1923 関東大震災 報告書 第2編 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門委員会 2006より
  • ・ 火災が起こるや否や南仲・北仲・元濱・相生・眞砂・常盤町及元町方面は、其の道路が非常に狭隘(きょうあい)な為めに壓死を免れた者も、更に火災に包まれて無残の焼死を遂げた者數知れず、馬車道通り横濱正金銀行附近などは、死屍累々として堆積し、異臭焦土の上に漲りて、殆ど通行も出來ない程であつた。
     内務省社会局 大正震災志 上巻 1926 より
  • ・ なお、気の毒であったのは午後一時表門を閉めた後へ、火に追われ追われ正門及び南仲通側の石塀の内に入った人々は百余名で、全部黒焼死体となって、重なり合っている様、如何にも無残であった。
     横浜市役所 横浜市震災誌 第二冊 1927 より
  • ・ 行員及他の避難者に至る迄約三百四十名は、四時間半地下室の困苦に耐へ遂に一人の死傷を出さず萬死中に一生を拾ひ得たるが、若しも同行の窓扉が川崎銀行の夫れの如く二重鐡扉を以て造りありしならんには完全に屋内への入火を防止し、内部の燒燬を免れ得しならんかと思料せらる・・・
    ・・・正門前又は周圍石塀内に押重なりて打倒れ遂に猛火の爲に燒死したる者實に百四十名の多きに達し、・・・
     神奈川県警察部 大正大震火災誌 1924 より
旧横浜正金銀行本店本館 石柱

石柱(写真5)の写し