作成:2014/1
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-12
写真1 大丸谷震災地蔵尊
写真2 大丸谷震災地蔵尊 全景
写真3 震災地蔵尊を下側から望む
写真4
大丸谷坂から震災地蔵尊を望む
写真2の左側にみえる説明板には次のように書かれています。
<資料 横浜市震災誌 横浜市役所 より>
殊に石川仲町一丁目と二丁目との間の字大丸谷には少しばかりの空き地があったので逃げ遅れた数百人はそれへ雪崩れ込んだが、猛火忽ち襲ってきた。崖を上がらんとしても折悪しくその所には倒れた高塀が道を塞いでいた。一同は死を覚悟するより外に道はなかったが、突然群衆の中から石川町の市野佐吉と、翁町の大里正雄という二人の若者が躍り出して、必死の力を揮って塀の二箇所を打ち壊し始めた。数人のものも力を合わせて打ち壊したので、漸く血路は開かれ、絶望した数百名のものは辛うじて這い上がり、尚苦心を続けて、やっとのことで、安全地帯に遁げ延びた。併し遅れて来た者や荷物を惜しんでいた者、凡そ五十人は、遂にその場で敢えなき最期を遂げた。(現代仮名づかい、新字体に改めた)
写真5
震災地蔵尊付近から眺めた市街地
北東方向(山下町方向)を望む
遠方にマリンタワーやベイブリッジがみえる
写真6
山手イタリア山庭園 外交官の家
撮影:2013/5
<周辺の地形>
東京の下町(低地)と山手(台地)と同様に、横浜も低地と台地という2つの地形に区分され、大丸谷震災地蔵尊は低地と台地の境の急斜面(段丘崖)に位置しています。大丸谷坂(おおまるだにざか)は低地と台地の間を結ぶ坂道(写真4参照)であり、関東大震災に際には低地が火に包まれ、坂道や崖状の急斜面を上って避難しました。資料は、煽られ吹き上がる炎と放射熱、道を塞ぐ倒壊物が障害となって避難が容易でなかったことを示しています。
写真4の大丸谷坂を上っていくとイタリア山庭園があます。その庭園内に写真6の外交官の家やブラフ18番館があり、横浜の観光スポットになっています。
イタリア山と呼ばれるのは1880年(明治13年)から1886年までイタリア領事館が置かれたことに由来します。外交官の家(国の重要文化財)は明治43年に建築された洋館で、横浜市が寄付を受けて1997年(平成9年)に現在の位置に移築復元されました。また、ブラフ18番館も移築復元された洋館であり、関東大震災後に建てられた外国人住宅であったものだそうです。(ウィキペディア フリー百科事典「山手イタリア山庭園」を参照しました)