作成:2016/6
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横須賀 YS-14
写真1 長安寺の山門
供養塔は山門の左端の裏側にある
写真2 長安寺の境内と正面の本堂
写真3
供養塔は山門をくぐった左側にある
供養塔の右側にあるのは「火伏せ不動」
写真4 大震災殃死者供養塔
< 資料1より >
1533年(天文2年)、鎌倉光明寺の19世然誉により開山。本尊は阿弥陀三尊像。
…(中略)…
「火伏不動は明治23年、久比里坂を開削した峯島茂兵衛の依頼により制作され、久比里坂におかれたが、地震の被害により、現在の場所に移され、石の覆堂が造られた。
「火伏せ不動」があった久比里坂(くびりさか)は久里浜と浦賀を結ぶ街道(現在の横須賀市久比里の県道210号)にある坂道で、関東大震災でも被害がありました。
資料2によると、久比里坂切通しの両側の断崖が約330mに亘って崩壊し、通行中の荷馬車と御者、外2名が埋没しました。
背面の上段には、「嗚呼大正十二年九月一日」に続いて、8名の犠牲者名と年齢が刻まれています。下段には「建立者」として7名の氏名および建立年月日と住職名が刻まれています。
この記述から、昭和14年に、犠牲者の家族が合同で17回忌の法要を行って供養塔を建立したことが分かります。
犠牲者と建立者の氏名は対になっているようであり、犠牲者の氏名順に建立者の氏名が刻まれていることから、建立者は犠牲者の家族の代表者のようです。
犠牲者に29歳の母とその子3歳の女の子が含まれています。建立者に名を連ねた人は夫であり父であった人でしょうか。震災から16年が経過しても、気持ちは「ああ大正15年9月1日」に凝縮されているようです。
一般に、供養塔などは震災後の数年間に地元の有志や町内会のような組織が寄付金を募って建てられる場合が多いのですが、ここでは16年後に犠牲者の7家族によって建てられています。供養塔建立を切に願い、その目的を最優先にして一生懸命に働いてきた姿が見えるような気がします。
現在の横須賀市久里浜は、震災当時は三浦郡久里浜村でした。
資料3の付表によれば、久美浜村では家屋倒壊によって25名が亡くなり、死亡率は0.65%でした。久里浜村の死亡率は三浦郡全体の死亡率0.67%と大きな差はありません。
資料1 久里浜観光協会公式サイト 街歩きガイド(寺社めぐり編)長安寺 http://kurihama.info/jisya/cyouanji/
資料2 西坂勝人(1926)神奈川県下の大震火災と警察,496p
資料3 諸井孝文・武村雅之 関東地震(1923年9月1日)による被害要因別死者数の推定,日本地震工学会論文集,第4巻,第4号,p21-45
上西勇(2011)関東大震災 災禍を語り継ぐ石碑(いしぶみ),147p