作成:2016/3 更新:2016/6
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横須賀 YS-15
写真1
岬の観音埼灯台を望む
赤矢印は2代目観音埼灯台の残骸位置
写真2
ニ代目観音埼灯台の残骸
写真3
ニ代目観音埼灯台の残骸
鉄筋コンクリート製であるが、鉄筋はわずかで、帯筋に相当するような鉄筋はない 骨材はやや大きめの亜円礫が主体で、砂分は少ない
残骸の形状によると、上下逆方向になっており、レンズが取り付けられていた箇所は下側になる
写真4
現在の観音埼灯台は三代目
八角形の塔柱は二代目の形状を引き継いでおり、大きさは異なるが外観はよく似ている
写真5
灯台からの展望 浦賀水道および北方向(東京湾奥)を望む 写真左隅の塔は東京湾海上交通センター
写真6 第三管区海上保安本部 東京湾海上交通センター
船舶交通の安全確保及び航行安全情報の提供を行っている
<資料1 p110>によると、
破損:伊豆大島の大島灯台、劍崎灯台、観音埼灯台、洲ノ埼灯台、勝浦灯台、第三海保灯台、第二海保灯台、羽田灯台、品川灯台の9灯台。
倒壊:城ケ島灯台及び野島崎灯台の2灯台。
写真1~3参照
初代の観音埼灯台は大正11年4月26日の地震*1によって、レンガ造りの灯台に亀裂が生じて危険になったため、大正12年3月15日に鉄筋コンクリート製の二代目の灯台が改築竣功しました。しかしながら、同年9月1日に発生した関東大震災によって、灯台は北方へ5度傾斜し、官舎及び付属舎は半壊しました。
二代目灯台は傾きはしたものの、横倒しになるとか、一部が崩落するようなことはありませんでした。このような状況から、海岸に転がっている灯台の残骸は、傾いた灯台の解体・撤去の過程で現在の位置に放棄されたものと思われます。
二代目の灯台の高さは12mであるのに対し、三代目の現在の灯台の高さは19mであり、二代目の灯台は現在の灯台と比べてかなり小さく、現在のような展望デッキはありませんでした(資料2の写真による)。残骸は八角錐状の塔柱最上部に相当しますが、残骸の大きさから推定すると、梯子状の階段と1人が通過できる程度の空間の先にレンズ室(灯火)があったと思われます。狭い中でのレンズや機械の整備は大変であったと思われます。
*1 大正11年(1922)4月26日の地震:理科年表 日本付近のおもな被害地震年代表より
1922 4 26 M6.8
千葉県西岸:『浦賀水道地震』:東京湾沿岸に被害があり、東京・横浜で死各1。家屋・土蔵などに被害があった。
< 案内板 より >
観音埼灯台
明治維新を2年後にひかえた慶応2年(1866)5月、幕府はイギリス、フランス、アメリカ、オランダとの間に改税約定を結びました。その第11条に、灯明台を備えなければならないこたがうたってあります。また、各国が提出した灯明台箇所書には、相模国三浦郡三崎及び観音崎が示されてありました。
幕府が倒れ、明治元年(1868)となりましたが、9月17日に灯台の建設が始められました。横須賀製鉄所首長であったフランス人技師、フランソワ・レオンス・ヴェルニーが建設を担当することになりました。横須賀製鉄所で作られたレンガと石灰を使い四角形白塗装の建物とフランス製レンズを備えた灯台が、12月29日に完成しました。そして、翌明治2年1月1日に我が国最初の洋式灯台が光を発しました。
大正12年(1923)6月26日に光源として白熱電燈が用いられるまでは、菜種や落花生の油、パラフィン、石油などが燃料に用いられてきました。その初代灯台は、大正11年(1922)4月26日の地震により大亀裂を生じました。翌年3月5日に二代目の灯台が改築されましたが、5カ月を経た9月1日の関東大震災で崩壊してしまいました。現在の灯台は大正14年6月1日に完成した三代目のものです。
構内の左手に並ぶ句碑が、灯台守の厳しい生活と出船に対する情愛の深さを味あわせてくれます。
・霧いかに深くとも嵐強くとも
高浜虚子
・汽笛吹けば霧笛答ふる別れかな
初代海上保安庁長官 大久保武雄
(案内板は縦書き、漢数字の一部をアラビア数字に変更)
<パンフレット 観音埼灯台 燈光会>より
灯質:群閃発光 毎15秒に2閃光
光度:7万7千カンデラ
光達距離:19.0海里(約34km)
高さ:地上から頂部まで19m 平均水面から灯火まで56m
写真7
灯台の東側の海岸 写真1の赤矢印付近の海側
池子層 火山礫凝灰岩や凝灰質砂岩で礫質部が優勢 堆積物の違いが岩質の違いとなって凹凸のある縞状模様を成す
写真8
灯台脇の切り通し(人道)
池子層 主に凝灰岩と凝灰質砂岩の互層で縞状を呈する
写真2,3,7 2016/3撮影
その他 2015/3撮影
写真
関東地震による観音埼灯台の被害
資料2 p187の写真を転写
三浦半島南部には、最終間氷期極相期(12~13万年前の海進時期)以後に形成された引橋面、小原台面、三崎面という3段の海成台地があり、観音崎周辺は三崎面と呼ばれる台地が分布しています。観音埼灯台周辺も当時の海食によって形成された平坦面(当時の海面高度は現在よりかなり低かった)が起源であり、その後の海水準の変動や地盤上昇および侵食という作用が重なり、現在のようなやや起伏に富んだ地形が生まれました。関東大震災でも広範囲に地盤が上昇し、灯台敷地では0.8m<資料2による>上昇しました。
観音崎周辺は三浦層群の池子層と逗子層が分布し、灯台周辺では池子層が分布します。池子層は本州弧の陸側斜面の水深約1000~2000mの海底斜面に当時の火山活動に伴う火山噴出物が堆積した地層で、写真7や写真8に示すように火山礫凝灰岩や凝灰質砂岩などより成ります。この池子層は新第三紀鮮新世(258万年前~533万年前)の前期の堆積物で三浦層群の最上部に相当します。
池子層は写真8に示すように、切り通しにしても自立するように構造物の基礎としては安定した岩盤です。二代目の灯台は鉄筋コンクリート製であり、灯台の基礎と岩盤との間に一体化が図られていたら、傾くよりも亀裂が入ったり崩落する可能性の方が大きいと思われるのですが…。完成から5か月後の新しい鉄筋コンクリート製の灯台が地震で傾いた原因は、例えば初代灯台の基礎の一部を再利用したとか、いづれにしても灯台の基礎の設計あるいは処理が不十分であったような気がします。
なお、観音崎周辺は明治に砲台が建設され、長期にわたって東京湾防備の要塞地帯となっていましたが、1975(昭和50)年に県立観音崎公園として解放されました。
参考資料
資料1 土木学会(1926)大正十二年関東大地震震害調査報告 第一巻 河川・灌漑・砂防・運河・港湾之部,187p
資料2 横須賀市(2009)新横須賀市史 別編(文化遺産),1079p
地盤工学会関東支部神奈川県グループ(2010)大いなる神奈川の地盤-その生い立ちと街づくり-,技報堂出版,214p
藤岡換太郎・平田大二編著(2014)日本海の拡大と伊豆弧の衝突 神奈川の大地の生い立ち,有隣新書,191p
パンフレット 観音埼灯台 燈光会