作成:2016/6
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横須賀 YS-16
写真1
夫婦(めおと)橋より平作川の上流側を望む
かって、前方の人道橋付近に中州を跨いで夫婦橋と呼ばれる2つの橋(水門)があった
写真2
夫婦橋より平作川の下流方向を望む
河口から約1km上流のこの付近に多くの漁船が係留されている
写真3
右岸上流側には内川新田開発記念碑とその案内板がある
写真4
右岸下流側には夫婦橋の説明板と「横須賀風物100選 夫婦橋の風景」と記した角柱がある
写真5
平作川に架かる長瀬人道橋(手前)と開国橋(重なって見える)
開国橋より先は久里浜湾で、開国橋の「開国」は嘉永6年6月9日のペルー提督上陸にちなんでいる
写真6
開国橋より久里浜湾を望む 手前のコンクリートは平作川の護岸から海側に続く防波堤
海岸に沿った道路を「ペリー道路」と呼ばれ、ここ開国橋から350m程度前方に進むと、道路の右側に巨大な石碑のペリー上陸紀念碑がある
2016/6撮影
平作川は、三浦半島最高峰の大楠山(標高241m)の東方を源流とし、三浦半島中央部を南東方向に流れ、久里浜港(浦賀水道)に注ぐ全長約8kmの河川です。
平作川流域は、丘陵地が多い三浦半島にあって、平坦地の広がる数少ない地域の1つであり、平坦地形の形成は最終氷期以後の海水準の変動が大きく関わっています。
最終氷期には海が退き、河川はその流路を侵食してV字型の深い谷を形成しました。温暖化に伴い海水準が上昇し、6500年前の縄文海進最盛期には海がかっての平作川に沿って入り込み、内湾は現在の河口より約6km上流の衣笠付近まで達していました。その後、海進から海退に転じ、内湾は河川によって運搬された堆積物によって充填されつつ平坦な地形を造りながら縮小し、細い湾となっていきました。
更に、江戸時代前期に始まった内川新田の開発により、河口付近(現在の夫婦(めおと)橋付近から下流)を除いて埋め立てられました。その後、残った内湾は関東大震災で地盤が上昇して湿地化することになります。
関東地震(関東大震災)では、千葉県や神奈川県の広範囲において地盤が上昇しました。現在の平作川下流部にあった入り江は地盤上昇によって沼地化し、埋め立てを経て都市の中に溶け込みました。残っているものと言えば、直線的な流路・護岸・漁船の係留風景などだけです。夫婦橋は、関東大震災前の湾奥に相当する位置にあり、現在も多数の釣り船などが運航・係留されています。入り江が川になっても、漁師は住み慣れた場所を離れなかったことを示しています。
< 資料2より >
平作川の河口付近(現在の河口から夫婦橋付近までの約1km区間)は、川ではなく久里浜港に接続する入り江で、漁業が栄えていました。
大正12年の関東大震災によって、この付近一帯の地盤が隆起して入り江としての機能がなくなり、低いところが自然の水路となりました。そのため、漁船等の航行に支障が出たため、漁業組合施行による水路の施行が行われました。
昭和5から6年になって地盤隆起によって湿地帯となったこの付近一帯の埋め立て事業と、現在の平作川となる水路整備事業が県によって実施されました。(準用河川の指定昭和6年6月1日)現在の平作川の夫婦橋から開国橋の平作川はこの時の改修で造られた河川です。
< 右岸下流側の説明板より抜粋 >
橋の歴史は、およそ330年前(1667年)の内川新田開発工事までさかのぼります。この工事で造られた、海水の逆流を防ぐ水門が夫婦橋の始まりです。
昔は中央に中州があり、二つの橋が夫婦のように仲良く架かっていました。(現在の人道橋あたり)
また、1825年ごろの記録によると、一つの橋の長さは約30m、幅2.4mほどでした。
材料は丸太を使い、橋の上には土砂を敷き詰めていました。
昔の夫婦橋(水門)は平作川の洪水で幾度も流されていました。そこで、貧しい人夫の美しい娘が「神の怒りを鎮めるため」に犠牲となって、橋の下に埋められました。
その後、夫婦橋は大雨が降り続いても流されなくなったという悲しいお話です。
実話かどうかわかりませんが、昔から多くの人々が、平作川を治め、夫婦橋を守るために大変苦労してきた様子を伺うことができます。
右岸上流側には古い石碑があり、その隣には石碑について解説した「内川新田開発記念碑」と題する説明板があります。
< 内川新田開発記念碑説明板より >
横須賀市指定史跡
内川新田開発記念碑
昭和43年5月10日指定
この石碑は砂村新左衛門政次が、万治3年(1660)より寛文7年までの8か年をついやして苦心のすえに完成した内川新田開発工事の記念碑である。
碑文によれば内川入海新田工事は労苦の積み重ねで、ことに水門建設は難事業であったことが知られ、完成にさいし神仏の加護に感謝する思いがしるされている。
この新田の開発によって当初は360石余りの生産高が得られ、さらに数年後に225石増加があったという。
本市内における最大の新田工事であり、また久里浜の発展過程を知る貴重な史跡である。
砂村新左衛門は当時土木事業の数少ない指導者で、江戸の砂村新田、横浜の吉田新田など多くの新田開発にその手腕を発揮した。寛文7年12月15日に没し、墓は当地の正業寺にある。
平成8年一月
横須賀市教育委員会
(ただし、説明板は縦書き 漢数字をアラビア数字に変換)
< 資料3より >
いま、この橋のたもとには内川新田開発の完成を記念して建てた笠搭姿の立派な碑が建っている。碑表面には「南無阿弥陀佛霊巖寺大誉」その下側には「相州三浦内川入海新田並八幡原新畑見立此門桶成就処年々囗囗及破桶八ヶ年間致苦労尽工夫時依蒙仏神夢相而今此以石柱成就畢水神往護為子々孫々諸人現当二世安楽也」と陰刻銘がある。
このように架橋の難工事や困難な護岸工事などで神に祈るお供えものとして、人柱を用いた悲しい物語伝説は全国にも数多く伝えられている。
参考資料
資料1 澤祥・松島義章・澤眞澄()三浦半島平作川低地の完新世の古地理変遷,第四紀研究,vol.33,no.2,p81-94
資料2 神奈川県ホームページ 平作川概要:平作川について http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/553073.pdf
資料3 松浦豊(1985)三浦半島の史跡と伝説 (写真で綴る文化シリーズ),215p