かるたウォーク 忍ヶ丘駅・東高野街道から龍尾寺・室池を歩く

忍ヶ丘駅→旧高野街道・トンボ池公園→三徳稲荷

→新高野街道・奈良井遺跡(市総合センター)

農協前・道しるべ→旧高野街道
→派出所・三坪橋

→墓の堂古墳・十三仏→歴史民俗資料館→新高野街道

→和田賢秀の墓→弥勒寺・舎利吹観音・十三仏

→辻道十三仏→龍尾寺→御机神社→おこり地蔵

山神→水車跡→上水道取水口→権現の滝→室池

→住吉平田神社→稲荷神社→四條畷神社→四条畷駅




→赤 旧東高野街道
→緑 新東高野街道


トンボ池公園

旧高野街道トンボ池公園

三徳稲荷

奈良井遺跡・市総合センター

道しるべ

三坪橋
トンボ池公園 東高野街道
 カルタの句 『 往来の 弘法大師 高野道 』  カルタの立て札は歴史民俗資料館前 「東高野街道」石碑
東高野街道は、古代から生駒山系に沿った「山の根の道」として南北に通じる重要な道で、嵯峨天皇の厚い保護をうけた弘法大師空海が816年、高野山に金剛峯寺を建立、京都の東寺を823年に下賜されてより、この両地を結ぶ道として、高野道と呼ばれるに至ったものであろう。聖地巡礼への道として、往時の人々の心を捉えた名称。
 四條畷の南北する往時の古道は、忍ヶ丘駅前→トンボ池公園→北堀橋(岡部川上流)→三徳稲荷→旧中野郵便局跡→現高野街道→道しるべ・清滝街道と交差→市総合センター→清滝川を西にくだる→中野派出所前三坪橋を南に入る→中野共同墓地・墓ノ堂古墳→歴史民俗資料館(石碑)→和田賢秀の墓→現高野街道へ
 カルタの句 『 まだ遠い 東高野街道 弘法大師 』(カルタ「大東のふるさと」)
 京から高野に向かうには東西二つの道筋があった。鳥羽街道を南下して鳥羽から船で淀川を下って大阪・八軒家浜に着き、ここから陸路で堺をすぎ河内長野に出るのが西高野街道である。東高野街道は鳥羽から陸路で淀・八幡を過ぎ、洞ヶ峠を越えて河内に入り、交野市の郡津・星田をすぎ、寝屋川市の大谷・打上を経て四條畷市にかかり、ここからほぼ現在の旧170号線沿いに南下して大東市に入る。大東市内では北条六丁目(十念寺付近)で国道と分れて山麓よりを南下し、阪奈道路を交差すると、再び国道と合流し、中垣内の集落の西側を下って東大阪市に入る。それからは八尾・柏原・富田林を通って、河内長野で西高野街道と合し、紀見峠から橋本を経て高野山に達する。

三徳稲荷
 
一本の松より三枝に分かれた松があって「三本松の稲荷」と言われていた。この松が枯れた後に、稲荷再建の話が起こり、生き神さま=神の霊感を得たとされる人に尋ねると「三徳稲荷」とのお告げを受けたので、昭和40年4月、有志が集まって祠堂(しどう・ほこら)を「三徳稲荷」として祀ったものである。現在、ほこらはなく石碑だけある。稲荷は京都の伏見から勧進(かんじん)したもので全国に約3万、家業、商売繁盛の神として尊崇されているが、これは伏見稲荷が帰化人の秦氏の勢力下にあり、秦氏が商工業方面で活躍したことによるのであろう。しかし、本来のイナリ(稲成り)に由来すると言われるように農耕の神として出発したものであろう。なお狐と稲荷が結びつくのは狐が山ないしは田の神の使いと信じられたためであろう。

奈良井遺跡祭祀遺構(市総合センター) 四條畷育英の地(明治19年甲可尋常小学校〜・昭和13年現四條畷小へ)
 カルタの句 『 馬の骨 神にささげる 祭祀跡 』 カルタの立て札
 昭和52年〜53年にわたって発見された大複合遺跡。古墳時代中期の井戸(須恵器、古式土師器〜かめ、高杯、炭化米)落ち込み状遺構(杯身<つきみ>、杯蓋<つきふた>、無蓋高杯)、製塩炉の遺構(1基石敷)が検出。古墳時代の馬を飼う牧場であり、「馬まつり」をした場所であった。方形周溝状遺構から七頭以上の馬の骨が見つかる。土製人形(ひとがた)・土製馬形・ミニチユア土器など出土、“いけにえ”の代用として神に捧げた。馬の祭祀場は、最初の牧場の中心であった鎌田遺跡から奈良井遺跡に移ってきた。奈良井遺跡から、その後5世紀後半に中野遺跡および南山下(みなみさげ)遺跡へと広がっていく。遺跡から5世紀後半〜6世紀初頭の土器とともに馬の歯、製塩土器が出土している。
 馬については、古事記、日本書紀に出てくる6世紀初めの河内馬飼首人荒籠(うまかいおびとあらこ)という牧場主が活躍したと記紀には書かれている。それより古く5世紀後半には、蔀屋北遺跡、鎌田遺跡、奈良井、中野、南山下周辺地域に馬が出現している。すなわち5世紀後半〜6世紀初頭には生駒西麓と古代河内湖の間一帯には数多く出現。
 縄文、弥生時代には馬はいなかった。古墳時代の中頃、馬は朝鮮半島から船に乗せられ運ばれてきた。馬とともに馬飼いも大勢やってきて飼育やその指導にあたった。韓式土器なども出土している。

馬飼いまつり(イラスト・資料館より)

   人形・馬形・土器のミニチュア

            弘法大師―→

道しるべ
 東高野街道(道幅は六尺・約2m) 清滝街道(大和街道清滝峠越えといわれ、河内と大和を結ぶ道)
 カルタの句 『 ぬれながら 旅人守る 道しるべ 』 『右ひだり <すぐ>と教える 道しるべ』
 三体の道しるべ  @高さ130センチ角柱に「右 清滝街道 すく 東高野街道」  
            A石碑型道標に「鶴澤亀窓(かめまつ) 右いせなら 南か(こ)うや 門弟中」
              (鶴、澤、亀は異体文字、窓は正しくは松の古文字、印字がない。正しくは、心が木になってい
              る。文楽三味線師匠の遺徳を顕彰しての建立か。)
             B1メートル大の地蔵道標「右ならいせ道 左京やハた道 寛政十午天十一月日、中野村願主」
              (1798年、中野惣中による建立。昭和初期に清滝街道から移転か。)
             @Aは年代はないが明治三十年代であろう。
清滝川   カルタの句 『 清滝川 大和を結んで 道に沿う 』 <「清滝街道」石碑農協前>
 清滝川の源は、逢阪の龍王川に発し、流れ流れて中野、二丁通を経て寝屋川に注ぐ。この川に沿って、大和と河内を結ぶのが清滝街道。古道のおもかげは、上清滝付近にわずかに残っていたが、トンネルが開通したため、なくなってしまった。テレビ大阪「ふるさと四條畷」に、この古道や開発前のものを収録している。<カルタの立て札は上清滝

 
中野屯所跡
(現四条畷警察署中野派出所) 明治七年(1874)に開設。当地域での警察署のはじまり。
三坪(みつぼ)橋(中野派出所前・江戸時代の石橋) 旧東高野街道

墓の堂古墳

十三仏と六地蔵

歴史民俗資料館

資料館前の石碑

和田賢秀の墓

和田賢秀の墓
南野中野共同墓地
墓ノ堂古墳 (古墳時代中期・5世紀ころ。前方後円墳、墓地は前方部に相当する。主軸100m大古墳) 
 標高21m、この地面全体が周囲より3mほど高く、西側を正面とする前方後円墳、現存する墓地は前方部に相当する。

十三仏 2基(左側無銘三角頭頂の古形式。 右側天文二十四年1555)
 カルタの句 『 追善供養 生前に祈る 十三仏 』  カルタの立て札は中野の正法寺
  人間が死んで、あの世へ往生するまでに33年かかるそうだ。そのために亡くなった人の供養をする。初七日(しょなぬか)、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日(なななぬか・49日)、百ヵ日、一周忌、三年忌、七年忌、十三年忌、三十三年忌の13回の追善法要である。十三仏は、死後の法要を、生前、自分でしておこうという逆修(ぎゃくしゅ・あらかじめ)の意味するものが多い。一石に十三の仏さんが彫られている十三仏は、四條畷に7基もある。自治体では日本一多い。

六地蔵
 カルタの句 『 六地蔵 二十八ヶ所の 墓地守る 』 カルタの立て札は田原の照涌墓地・一石六地蔵
 墓地の入口には、必ず六地蔵さんがおられる。「人間は、前世の業によって、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上界の六道を輪廻するという。この六道世界での苦しみを軽減すべく、死後の守り神として六地蔵を祀るのである。」といわれている。
歴史民俗資料館
 
考古、歴史資料の展示を中心とする考古、歴史資料展示室と民俗資料の展示を中心とする明治時代の土蔵を活かした民俗資料展示室とで構成されている。(昭和60年3月竣工)
東高野街道石碑
 カルタの句 『 往来の 弘法大師 高野道 』 カルタの立て札
和田賢秀の墓
 カルタの句 『 和田の墓 昔とへば すすき尾花のあらし吹く 』 カルタの立て札
 楠正行(まさつら)の家臣であった和田賢秀(源秀)が祀られている。高さ1mの墓石、正面に「和田源秀戦死墓」、裏面に「昔とへばすすき尾花のあらし吹く 天保二年(1831)九月浪速の永田友之」とある。古文書では、当地、字地を薬師と呼び、歯神さんとしてあがめられている。
 和田賢秀は、南朝方の将、楠正行と北朝方の高師直(こうのもろなお)との決戦(四條畷の戦い)の日(正平三年・1348年一月五日)、正行方にあって勇敢な戦死をとげたといわれている。歯神さんといって信仰されているのは、一説に、賢秀戦死のおり、怒りの姿もものすごく、敵のよろいにかみついて、死後も離れなかったといわれ、この強い歯にあやかろうとの気持ちが、このような信仰になったといわれている。
 
賢秀の供養塚は下田原のゴルフ場内にもある。
 カルタの句 『 賢秀の 小松寺にもねむる 光背五輪塔 』 (郷土史カルタ「田原の里」)
 下田原の墓石は、舟型光背の一石に五輪塔を陽刻(ようこく・うきぼり)したもので、表に「和田賢秀之墓」とかすかに読める。高さ1m幅35cm。賢秀の菩提を弔うために、小松寺にも建立したのであろう。

高札場(江戸期)跡 南野の火の見櫓・消防車格納庫付近   道しるべ(龍尾寺へ)
中津川分堰 (南野郵便局前) 寛延三年(1750)七月二十日に水争い勃発。水掛け論水争いは、大坂奉行所へ、仲介者調停へ、遂には江戸評定所吟味へと発展。寛延から宝暦にわたる満六ヵ年半の水論となった。

弥勒寺
               舎利吹観音→

地蔵堂内の十三仏と大師堂

十三仏

弘法大師像
弥勒寺 舎利吹観音しゃりぶきかんのん
 カルタの句 『 弥勒寺の 舎利吹観音 瘡いやす 』 カルタの立て札
 畑というところに弥勒寺(弥勒菩薩に由来すると考えられる。浄土宗)がある。この寺に30〜40cmぐらいの舎利吹(しゃりぶき)観音がおられる。縁起によれば、延宝年間(1673〜1680)、17歳の美女・音羽は、全身悪瘡(あくそう→できもの)におかされ、当人、家人の嘆き限りなし。観音堂にこもって、悲を救いたまえと祈った。満願の日、夢よりさめれば、花のごとき顔立ちに帰りたり。そして、尊像を拝するに御身より汗を流し、胸に舎利を現わして音羽が悪瘡に替らせ給うという話がある。
十三仏 文禄二年(1593)の銘  
 カルタの句 『 追善供養 生前に祈る 十三仏 』

十三仏信仰は、南北朝時代から江戸初期までの300年間、庶民の中に普及。死者追善の法要。十三仏の配列は、下段右から初七日の不動、釈迦、文珠。次に下二段左から普賢、地蔵、弥勒。下三段右から薬師、観音、勢至。四段左から弥陀、阿しゅく、大日の仏に続き、主尊に虚空菩薩が配されているのが普通。
カルタの立て札は中野の正法寺

庚申塚 道しるべ
 十干十二支の組み合わせによる庚申(かのえさる)の夜にまつられる民間信仰で、60日にひとまわりしてくる。この日は、夜に眠ると命が縮まり、眠らずに身をつつしめば災難からのぞかれるとされ、人々が、当番の家に集まって、飲食をともにし、話や遊芸を楽しむなどの行事を行われた。今は、この日にこんにゃくを食べると病気にならないとされている。

滝集落 辻道十三仏 大師像 地蔵尊
 カルタの句 『 追善供養 生前に祈る 十三仏 』
 天正二十年(1592)のもの。
 
カルタの句 『 にこやかに 笑みをうかべる 地蔵さん 』 <立て札・カルタの句碑は上清滝>

弥勒寺から権現川沿いの龍尾寺へ行くコースと四條畷神社へ行くコース

龍尾寺

御机神社

みつくえ橋下・分堰
龍尾寺 曹洞宗 本尊十一面観音 1m余の渦状を呈し、末尾に剣に似たるものを備える(寺宝)。桜・紅葉の名所
 カルタの句 『 龍尾寺で 雨乞いをする 里の人 』 カルタの立て札
 千年をさかのぼる市内の寺院として、讃良寺、正法寺、龍尾寺がある。龍尾寺には、こんな伝説がある。天平の世、旱魃(かんばつ)があって、里の人はたいへん苦しんだ。行基があわれんで山間に立ち法華経をとなえて雨乞いすれば、大雨が降り出し、里人が助かった。龍王は身をさいて里人を救った。龍の身は3分されて落ちた。龍の頭、龍の胴は大東市の龍間というところに、尾の落ちたところに龍尾寺を建立して、その霊を弔ったという話がある。
 京都・加茂町真言宗海住山寺の大般若波羅密多経の大半が龍尾寺の経典を寛治五・六・七年(1090年代)に筆写。そこには「滝尾寺」と記してある。平安末期には「滝尾寺」を称し、大般若経600巻を持つ寺院があった。「瀧」→「龍」になったのであろうか。観音山に真言宗として建立され、滝尾寺を称し、鎌倉時代に起雲山龍尾寺へ名称は転じ、江戸初期に現在地に移り、禅宗の曹洞宗へ改まる。
御机神社 みつくえじんじゃ
 延喜式内社。素盞鳴尊(すさのおのみこと)を祀る。古来は牛頭(ごず)天王社と呼ばれていた。古くは、現在地の東方字室池にあったが、文禄年間(1558〜1570)に字城の地に移し、更に元禄十三年(1700)この地に移転した。三好長慶が飯盛に居城したころには飯盛城鎮護の神として崇敬されていた。
 カルタの句 『 豊作祈願 わが町に三つあり 式内社 』 カルタの立て札
水神社 水系の神。
稲田社・神明社(地車の覆屋根) 奇稲田姫(くしいなだひめ)と呼ぶのが一般的である。八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した素盞鳴命に救われた姫。のち素盞鳴命の妻となり、円満な家庭をつくり大国主命の母となると語られる。恋愛成就、家庭円満の神。神明(しんめい)は天照大神の特称。
藤木社(玉津弁財天) 弁財天は河川を神格化したもので、本来は水神。現在は七福神の一として除災・福徳の神として信仰。
 権現川・分堰
 権現川は東大阪市善根寺の山奥に発し、大東市龍間を通り、室池用水と合して権現の滝で急直下、飯盛山裏のしたたり水を集め、流れ流れて龍尾寺下の第一分堰(ぶんせき)があって、六分を南野へ、四分を清滝・中野・蔀屋へと分流させ、南野村用水を御机神社のみつくえ橋下の宮下分堰、弥勒寺前分堰、畑前分堰、以下中津川・川崎・雁屋分堰で西部低地に分流される。農民にとって命の水、過去に水争いのあった分水であったろう。本流は寝屋川に注ぐ。(室池の西堤樋口から灌漑用水として権現川へ)

おこり地蔵

水車跡

山神
おこり地蔵
 おこり地蔵は、功徳の多からんことを祈って同一箇所に多数建立されたものである。
 地藏さんの普通の形は、左手に宝珠(ほうしゅ)、右手に錫杖(しゃくじょう)をもち、頭は丸坊主、袈裟(けさ)と衣の僧侶の姿。地蔵は死後の世界にかかわる菩薩。生前の世界には、あらゆる庶民の悩みを聞いてくださる仏さん。昔は、医学もあまり発達していなかった。子どもが健やかに成長していくのにはたいへんだった。七五三祝いに見られるように七歳、五歳、三歳まで育てることは容易なことではなかった。子どもの健康を地藏さんにねがいをかけた。地蔵信仰は鎌倉期以降、庶民に密着したのが江戸期が最高潮。

権現川 水車跡
 カルタの句 『 ここかしこ 水車のなごり 権現川 』 カルタの立て札
 明治初期の「大阪府年誌」によれば、交野のソーメン、茨田(まった)の蓮根(れんこん)讃良(さら)の粉箔(こはく)といわれるほど、当地域では、水車を動力として薬種、香料、マンガン等を生産し、米麦を精白した。これは昭和20年代まで続き、現在の中塚金属、成和工業は、その発展と云えよう。

山神
 山をつかさどる神。

上水道取水口跡の碑
 四條畷の上水道発祥の地。清滝浄水場の原水取水口跡。室池の限りない恵みを受けていたが、平成10年3月末をもって閉鎖。大阪府営水道水を使用するようになる。

上水道取水口跡

            室池

←権現の滝
 権現川に沿って登って、権現の滝へ。滝から左へ室池。右へ登っていくとi飯盛山頂から桜池へ。
権現の滝
 カルタの句 『 礼拝修行 霊験あらたか 権現の滝 』 カルタの立て札
 権現川の名称起源となる滝で、高さ20メートル。その源は龍間付近に発し、生駒水系のしたり水を集めて市内南東部の渓流となり、寝屋川へと注ぐ河川の上流にある。権現とは権(か)りに現われる神を意味するのであって、昔から多くの修験者が祈願をこめた滝であったと云えよう。
室池
 カルタの句 『 室池の 氷たくわえ 都ゆき 』 カルタの立て札
 『延喜式』(920年)に「讃良郡氷室一処(さららのこおりひむろひとところ)」とあり、室池は、江戸期まで氷室池(ひむろいけ)と呼ばれていた。氷室とは、氷を貯えるところをいう。この地名は、近くで、枚方、交野にもある。山深く夏でもひんやりとしており、冬の間に池の氷を切り出し、”室(むろ)”に貯蔵する。それを夏になって取り出し、宮廷に献上した。標高約270mにある室池は、砂溜(すなだめ)池、中池、古池、新池からなっている。面積は、17ヘクタールある。四條畷の上水源の大部分を賄っていたが、平成10年4月からは淀川の水に切り換えたので、室池の水は使わなくなった。現在、国定公園で、関西文化学術研究都市の指定をうけ、「緑の文化園」として市民の憩いの場になっている。
 カルタの句 『 うつくしや 古里ほこる さぎそうの花 』 カルタの立て札
 さぎそうは、高さ30〜40センチ、先に1〜4の花をつけ、色は純白で優美、純潔な感じをあたえる。花の容姿が白鷺に似ているのでさぎそうの花と名づけられる。現在は観賞用にも栽培されるが、本来は山野の湿地帯に自生する夏の花で室池の周辺で多く自生している。
 蟹ヶ坂、室池 紅葉の名所

 桜池  青少年野外センター
 飯盛城の水源地。行基が雨乞いをした池といわれている。

弥勒寺から住吉平田神社・四條畷神社へ行く。

住吉平田神社

稲荷神社

四條畷神社

楠天神社

注連縄門柱

表参道・別格官幣社
住吉平田神社 
 
元文年間(1730年代)に三牧氏が神官になるにおよんで住吉平田神社と改まる。住吉神社と平田神社とが合祀したもの。平田なる人の御霊を祀る平田神社は南野字平田にあり、それが住吉大明神に合祀したものではあるまいか。住吉大明神は国家鎮護・航海安全・歌学・武人の神。平田大神は重右衛門覚書から推すと、福徳・武人の神といえよう。
八坂神社
 素盞鳴命を祀る。悪疫除災の神。
誉田別尊(ほんだわけ・八幡宮) 応神天皇を祀る。天照皇太社 国家祖神・農耕神

四條畷神社裏参道
稲荷神社

 三基の朱塗鳥居の奥に一間社流造(ながれづくり)の本殿。額に「稲倉神霊大神(うかのみたまのおほかみ)」(日本書紀・五穀の神)別名・大気都比売神(おほけつひめのかみ)・御饌津神(みけつのかみ)ともいう。  
 住吉平田神社末社。稲生の転で農耕神である。朱塗りの鳥居(赤・朱は暁を告げる輝く太陽の色、森羅万象への恵みを与える太陽の色である。また、暗闇を照らし、人々に暖を与え、食べ物を煮炊きしる火の色、聖火の色彩。石の鳥居は灰色に変わったが、木の鳥居は多くは赤色に塗られる。)古事記で御饌津神(みけつのかみ)というところから転じてケツネ、キツネが神使となって祀られた。キツネの古名のケツの音から、三狐神(みけつかみ)という字があてられ、キツネが神の使いとされた。

四條畷神社
 江戸時代、楠塚と呼称された30坪ほどの墓域は、明治八年(1875)に大拡張されて一町余へ。神社創建は、墓所から1000mの飯盛山下、眺望よき緑の中に明治二十三年(1890)四月に鎮座した。忠孝両全の人として仰がれた楠正行を主神とし、烈士24人を合祀する。国家鎮護の府となり、明治・大正・昭和前期の全国民讃仰の聖域として大きな影響を与える。
御妣(みおや)神社 祭神は正行の母。大正十四年(1925)に鎮座。
楠天神社
 文教の神菅原道真を祀っている。
参詣石段の石灯籠常夜燈 右側の竿部に「如圭」左側は「如璋」 (じょけい・じょしょう 出典は詩経。圭も璋も玉の意味。礼式のときに飾りにする玉として奉納されたもの。)
境内入口の注連縄門柱 「有孚顕若」(ゆうふぎょうじゃく・誠信こもりたる荘厳なる聖域・出典は易経)
狛犬 普通後足で座り、前足を立てる格好である。この狛犬は後足を蹴り上げている。

四條畷神社表参道
 参道の松の木は、大正四年(1929)十月二十三日に府立四條畷中学校(現高校)生徒全員が龍間より松苗を担ってもってきて植樹。生徒の散髪した髪の毛が肥料として埋められた。(約200本)
                           四條畷神社・飯盛城跡から野崎へ

清滝街道を歩く