石の森 第 119 号  詩(1〜12) 書評(13)ページ   /2004.1

北川朱実詩集
『人のかたち 鳥のかたち』を読んで

美濃 千鶴


 「かたちから入る」という言葉がある。もともとは芸事を身につけるときに使われる言葉だが、ものを見、思考するときにも「かたちから入る」ことはあるようだ。
「食パンを切ると/ちいさな穴がいくつもあらわれる/ついさっきまで何かがそこにあった/という証のように//そんなふうに/土の中から発見された空洞に/石膏をながし込んだら/一瞬にして/肩と/ふたつの乳房と/くるぶしが立ちあがり//右手に木の枝をつかんだ/一人の少女があらわれた//いまわのきわの言葉は散乱して/もう落とし主はいないけれど//人のくぼみのまま/ひたすら人でありつづけた少女は/今日/空っぽのガラス壜みたいに解放されて//もう叫んでもいいか/とばかりに/口を大きくあけている」(「ポンペイ」部分)。
 空洞は手で触れることのできない「かたち」である。一人の人間がこの世に存在した証を、私たちは石膏をながしこむという二次的な作業でしか修復できない。いや、そのことを否定的に受け止める必要はないのかもしれない。二次的ではあっても、土と石膏の力を借りて、私たちは少女の命を、具体的な「かたち」として捉えることができたのだ。命の「かたち」を抽象概念で捉えることは、ある意味、たやすい。しかし、個々の命をこの手に抱くように実感することは難しい。「かたちから入」れば、命は単なる概念でなくなるかもしれない。
 悲劇的な死を迎えた少女が、悲鳴をあげたまま、誰にも発見されず、長く土に埋まって空洞になった、ということは悲しい。しかし、空洞になるほど長く、土はこの少女を守り、その死を悼んでくれたのだという気もする。木の枝をつかんだ少女の空洞に、悲劇性と同時に神性も感じるのはそのためだろうか。
 この詩は「むかしの雨に濡れた足音が/懸命に時を追いかけてくる//眼から/タマネギの芽のようなものを伸ばして//私と同じ時間をやぶってくる」という詩句で終わる。「ポンペイ」だけでなく、『人のかたち 鳥のかたち』には、時とか時間とかいうことばで締めくくった作品がとても多い。そのなかでもこの結びは私の好きな表現で(リアルに想像すると怖いが)魅かれてしまった。
 書き手にはそれぞれ好みの表現があるから、無意識のうちに同じことばを使っていることもあるだろう。ただ、北川さんの場合は、ある程度意図的に、時ということばを重ねているのではないか、という気がした。
 ベトナムをはじめとして、かつて戦地であった土地、現在戦地である土地が頻出する詩集である。しかし、作者の視線は政治的なところには向かっていないように思える。歴史の試練に直面した地で暮らす人々が、ある時は優しく、あるときは無情な時の中で、崩壊と再生を繰り返す。そして作者自身もまた。「国語の時間」「JR松坂駅午前七時三十分」など、北川さん自身の日常を掘り起こしたと思われる詩が、戦地の詩と一緒に収録されて違和感がないのは、本書が日常の時と戦場の時が複雑に絡み合って共鳴している詩集だからである。
 保健所に二匹いた犬のうち、片目のつぶれていない一匹をもらって帰った作者が「地雷で片足を失った人は助けたけれど/両足の人は助けなかった/半身のない者が生き残ると/家族が滅ぶから」というアフガンの日本人医師の話を思い出す「顔を洗う」は、一編のなかでこの共鳴の視点が生きた傑作である。日本人医師は日に十回は顔を洗う。片目の犬を選ばず、両目の犬のために豪華な犬小屋を買った作者もまた、顔を洗うのである。この詩でもまた、「タマネギの芽のようなもの」は「私と同じ時間をやぶって」きたのではないか。


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