石の森 第 126 号  書評(11 12エッセイ ページ   /2005.3

坂井信夫詩集『黄泉へのモノローグ』

美濃 千鶴


 「あれから百年かけて/眠りから醒めると/翌日もおれは昼のあいだ/夕日がからまつ林に /晴れわたった空を/眼をさますと真夜中/めざめると深夜で/夏の陽ざしがまっすぐに/ 眼ざめると、またしても/眼ざめると雪だ/眠りから醒めると/眼をさますと秋風が/からま つ林から、ゆっくりと/明けがた、雨が/つよい風が、からまつ林に/あの夏のいちにち/ この山頂にたどりつき/眼ざめると、おれは/朝めざめると、おれは/寒さで眼がさめた」
 右に挙げたのは、詩集『黄泉へのモノローグ』の〈目次〉である。この〈目次〉は二十編の 詩の冒頭部を順に並べたものだが、詩として充分成立している。しかし、これは単に詩人の遊 び心によるものなのだろうか。もっと重要な役割が、そこにはありそうな気がする。
 『黄泉へのモノローグ』は、詩によって語り出される舞台劇である。山頂のからまつ林に現 れた、円形劇場のような原っぱ。「あれから百年かけて、ようやく人間になった」おれ≠ヘ、 そこで「誰もが観ることのない無言劇を、たったひとりで演じようと企てていた」女≠観 続ける決心をする。
 たったひとつの客席は樹齢百年の切り株で、劇団の名は〈もどろぎ座〉。女≠ヘ様々な装 束で現れ、無言劇を演じる。おれ≠ヘ切り株に腰掛けて女の舞台を見、往年の名画の一シー ンを思い出しながら、タバコを吸う。
 この詩集のパターンは、実はこれしかない。映画のタイトルや女≠フ装束が変わるだけで、 ほぼ同じパターンの詩が二十作、延々と繰り返される。
 読者はまず、この執拗な繰り返しに圧倒される。どうやらこの繰り返しは、繰り返すことに 意味があるらしい。目次もそうだが、綿密に造りこまれた詩集なのである。修辞にも描写にも 端正な詩文の美しさはあるが、なにより詩集全体で異界を形作る構成力こそが、この詩集の魅 力である。逆説的にいえば、造りこまれていること自体、この詩集世界が異界であることの証 左なのだ。古代の野外劇めいた舞台は、彼の世(黄泉)とこの世の境界であり、不思議な〈目 次〉は、異界の舞台へと読者を誘う役割を果たす。
 やがて詩集は、終焉に向けて動き始める。
「この山頂にたどりつき、切り株に坐りつづけて十六日が過ぎた。ひと箱のタバコだけを懐に しのばせてきたが、残るはわずか三本。おもえばこの日々は、なにも食べていない。」この後、 巡礼姿の女≠ェ無言で石を蹴りながら舞台を周り、「暗い日曜日」が流れ、おれ≠ヘ映画 「突然炎のごとく」の一シーンを思い出す。「おまえの爪先に血がにじみ、幼児の遊びはくり 返され、ふいにおれのはらわたは締めつけられるように飢えを告げた。」(17)。タバコは、 いわば百物語のロウソクだろう。タバコが減るに従って、読者の緊迫感は増していく。
 19では『欲望という名の電車』、そして最後の20では『夕鶴』の台詞が、効果的に使わ れている。「おまえはいつしか鶴のすがたに変わると――《あたしはもう人間の姿をしている ことができないの。》そう喚ぶようにいった。そうか、おまえは百年かかって鳥に戻れたのか と、おれの胸ははり裂けそうになった。……思えばおれは、百年かけて人間になれたそれだけ を、おまえに告げるためにやってきたのだ。(中略)おれは吸いがらを投げすてると、変身し たおまえに背をむけた。それから、山をおりようと思った。」
 山は異界の象徴である。最後は山を去るおれ≠フ運命は、飢えを感じた時点で、既に決まっ ていたのではないか。最初からずっと、気になっていたことがある。男女二人が登場するのに、 なぜ「ダイアローグ」ではなく「モノローグ」なのか。最後の一行を読んだときに、ふとその 理由がわかったような気がした。


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