これには様々な動機があったと考えられますが、その一つに徳川家の正当性を証明しようとしたことがあると思います。
家康は馬上で天下を取りましたが、統治の手段のひとつとして朱子学を選び徳川家の安定 (パックストクガワ)を図ろうとしました。孫である光圀はその意志を継いだものと私は考えています。
徳川家は三河の松平郷出身の豪族にすぎませんのでとても源氏であるとは思われません。しかし、自分の先祖を源氏の名門と無理矢理結びつけ(新田郷から流れ着いてきた坊主?)て、その子孫であるということで源氏を名乗っていました。
新田義貞は足利尊氏と争い敗れ去りましたが新田氏は足利氏と同格のほとんど源氏本流と言っていい名門です。(しかし室町時代の有力大名の山名氏は新田氏ですが)
征夷大将軍が足利氏である室町幕府の後にできた江戸幕府は足利氏と同格の血筋を示す必要があったのではないかと思います。そのために新田義貞を高く評価するという結論こそが第一にあったのではないでしょうか。新田義貞を評価することは必然的に南朝を正当化する事になり、また南朝方であった楠正成を評価することにつながります。
自らの血筋を誇るためには天皇家の神聖さを訴え、そしてその血筋つながるものであるということの証明をする事になります。それは精神的には天皇家以上に勢力を誇った藤原家と同じようなものだったと思います。
しかしこれは絶えざる王朝としての朝廷の価値、評価を高めることになりましたが、徳川家にとっては幕末の尊皇攘夷などの予想外の反応を引き出したことは歴史の皮肉かもしれません。
参考資料
新田義貞伝の賛 巻の一百七十一 賛に曰く、忠義の、世教を維持すること、大なり。新田義貞は、源家の冑を以て、北条氏に役するも、一旦、幡然として図を改め、王室を安んぜんと欲す。義旗の嚮ふ所、葉のごとく落ち、氷のごとく離く。何ぞ其れ易きや。足利尊氏と難を構ふるに及び、攻城・野戦、互ひに勝負有れども、竟に敗衄を免れず。何ぞ其れ難きや。蓋し、政刑、日に紊れ、人心、乱を思ひ、尊氏之に乗じて、其の詐力を逞しくせるに由るなり。嚮使、後醍醐帝、能く楠正成の夾攻の策を用ふれば、則ち義貞、其の材略を展ぶるを得て、尊氏の勢、日に蹙りしならん。
禁門、守られず、乗輿再び叡岳に幸す。尊氏、款を納れて、還駕を請ふ。帝も亦、心に其の姦計に堕つるを知るも、勢、回すこと能はず。興替の機、方に此に決す。而して義貞を面諭して、其の忠義を奨め、託するに皇太子を以てするは、頼るに此の挙有るのみ。義貞の匡復の心、少しくも解弛せず、天地に誓ひて以て心と為し、鬼神に質して疑ひ無し。不幸にして、勢去り、時、利あらず、智勇倶に困り、之に継ぐに死を以てす。其の子姪、皆能く戈を枕にし胆を嘗(ナ)め、勤王の師を興すも、卒に摧残・流亡に帰す。豈、天に非ずや。其の高風・完節に至りては、当時に屈すと雖も、能く後世に伸ぶ。天果して忠賢を佑けざらんや。其の、足利氏と雄を争ふを観れば、両家の曲直、赫々として人の耳目に在り。愚夫愚婦と雖も、亦能く、新田氏の忠貞たるを知る。寧ろ此を為すとも、彼を為さず。亦、人をして邪正を弁じ取舎を決して、義に嚮ふことを知らしむるに足る。其の関係する所、豈、鮮少ならんや。