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出雲へ
奴国の海岸から、対岸の本州を目指し鳴女は舟上にいた。出雲の大王大国主に会うためである。火神子の最後を伝え、ヤマタイ連合のクーデターを報告し、火の神を信奉する筑紫島の人々を受け入れて貰うのが最大の目的である。初代の火神子(卑弥呼)が倭国の代表として魏へ使いを送り、国交を結んだその日から、出雲とは手切れとなり関門海峡の交易を巡り幾度となく戦を起こした間柄ではあったがトヨタマヒメが二代目の火神子となってからは火の神の導きにより講和路線に変更し小康状態を保っていた。
出雲は早くから青銅器から算出した暦を利用し、また暦を元に青銅器によって倭国の津々浦々の位置関係を把握していた。進んだ航海技術を操り本州各地に港を開き各地の勢力と交易により結びつく一方で婚姻を重ね各地に青銅器祭祀を広めていた。青銅器祭祀は縄文より続いていた祖神・地霊信仰の聖地を出雲に集約する結果となり、筑紫島の渡来人勢力とは一線を画す習俗・宗教連合となっていた。さらに青銅器を貨幣がわりに使用したことも本州各地の特産物を出雲に集めることとなり出雲の中海・宍道周辺は渡来人の入国に沸く伊都国に負けない賑わいであった。そのため出雲の大国主の勢力は本州にその存在を知らぬものなき勢力となっていた。
鳴女はただ一人でその出雲へ向かったが女一人では到底海峡は渡れなかった。そこで火の神を篤く敬う奴国内の人々を頼ったのである。彼らはヤマタイ連合に組みしながらもかつてヤツカミズノとともに出雲を開いたスサノオの血を引く宗像族を中心とする一族である。ヤマタイ連合混乱により再び出雲と縁を結ぼうと、トヨタマヒメの火神子就任の直前に一族のタギリヒメを大国主に嫁がせていた。かつて筑紫島の最大勢力であった奴国は火の神派と日の神派の派閥争いと伊都国勢力の伸長、ヤマタイ連合の結成、度重なる大陸からの難民の流入などでいまや落日の王国となっていた。大陸からの難民たちは奴国に新しい文明とともに、従来の秩序の崩壊をもたらしたのだ。
宗像の海人は、鳴女を出雲に送る事を快く承諾した。「ヤマタイ連合は火神子の死により崩壊したも同然である。もともとは同族だった出雲に帰属しよう」と宗像の一族たちは意志決定したのである。そうしなければ自分たちの祖神への信仰は守れないことは歴然だからである。強引なやり口でヤマタイ連合の祭祀を変更しようとしている伊都の連中も許せなかった。「伊都の奴らはこの倭国では新参者だ。スサノオ以来の倭国の祭祀は奴国(中津国)と出雲の葦原国のものだ。いくら贅沢できても火の祭りだけは絶やしてはいけない。」というのが宗像の民の立場である。火の神の祭祀を守りその秩序の中で暮らすという条件と引き換えに伊都の地を渡来してきた現在の伊都国王の先祖に明け渡したのだ。
その約束が破られようとしている。遠くに見える阿蘇は火神子の死を悲しむように天高く噴煙をあげていた。火山の噴煙は遠い所からも一望できる天然の灯台でもあった。鳴女たちが舟で渡る航路は後に日本海航路と呼ばれる海の道である。右手に陸地がひろがっているが断崖絶壁の連続で容易に上陸することは難しかった。丸一日かけてようやく舟は石見の三瓶山が目に入る所までやってきた。三瓶は出雲の西の端を示すの火の神岳である。東の火の神岳は大山である。この二つの火の神岳に挟まれた地域が葦原の国の中心、スサノオ大神とヤツカミズオミノ神のつくった出雲の地である。鳴女の乗った舟はいよいよ宍道の東、神戸の港に入っていった。中国大陸では、晋帝国に八王の乱が始まり、倭国にも戦乱の嵐が、日本海の荒波とともに吹き寄せようとしていた。出雲の海は今は静かに、鳴女一行を受け入れた。