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出雲国譲りの真相22

揖保のアマテラス(その二)

アラシトはいきなりタカヒコにむかって矛を突き出した。「キーン」という金属が辺 りに響くと、揖保川の岸辺、相野と呼ばれるその市場の周辺は一瞬のうちに戦場の匂 いに支配された。シコオと日矛の因縁は深い。それを知っている周辺の民たちは草の 影木の影は言うにおよばずそこかしこに蜘蛛の子を散らすように逃げかくれた。 タカヒコは持っていた鉄剣で矛を弾きかえしたのだ。一瞬の早業である。間髪入れず にタカヒコは反撃した。剣を上段に構えアラシトに切りかかった。それを合図にシコ オたちは日矛の集団に襲いかかった。多勢のシコオたちは数に任せて斬り込んだが相 手の武器は長柄の矛である。シコオたちの武器青銅の剣では、馬上の日矛たちには届 かない。あっという間に撃退されてしまった。


「まずい!」 とタカヒコは思った。このままでは総崩れである。伊和の大神から借りた兵をこんな ところでむざむざ失うわけにはいかない。そんなことを思いながら矛の攻撃を避ける ため剣を振りまわすしかない自分のおろかさに呆れたとき、偶然タカヒコの剣が馬を 斬った。馬は嘶き転倒する。 「よし、馬を狙え!」 と大声で背後に居た加茂の民に号令した。タカヒコは、馬から落ちたアラシトに構わ ず、転倒した馬にトドメを刺した。加茂の民は日矛たちの矛さばきを軽快に交わしつ つ馬の前足を短刀で切りつけた。長柄の矛も馬の真下から狙われれば無用の長物だ。 シコオたちが青銅の剣で突撃したため日矛の騎馬隊が隊列を乱していたのも幸いし、 加茂の民の身軽さで次ぎから次ぎへと馬の足ばかりを狙って斬りつけたのだ。


馬から 振り落とされるもの、なんとか下からの攻撃を撃退したもののこの場を離れるものが 出て日矛たちの方が総崩れになってしまった。大逆転である。 タカヒコは素手で格闘しつつも、馬から落ちたアラシトに剣を突き付け、捕らえてし まった。 「御主が天之日矛の首領にして吉備の新参大王ツヌガアラシトか?」 タカヒコは鉄剣の鋭い刃先を角のついた兜の下に覗いている喉元に突きつけ問いかけ た。アラシトは何も言わず肩で息をしている。


「ふん、返事も出来ぬか?」 総崩れになったアラシトの部下達の中で生き残ったもの捕らえられなかったものはそ れぞれこの場を退却し、少し離れた小高い丘の上に集結を始めた。残りの日矛は総勢 6名である。この場に残されたアラシト以外の三人は殺されてしまったようだ。 大勢は決したかように見えた。タカヒコらは、日矛たちがこのまま吉備へ退散すると 多寡をくくっていた。この衝突ではタカヒコらの圧勝である。戦死者こそタカヒコら の方が多いが総大将である吉備の大王ツヌガアラシトを生け捕りにしたのだ。タカヒ コは加茂の民に命じ雄たけびを上げさせた。この状態で猛々しい声をあげるのは戦の 勝利宣言いわば勝鬨である。その様子を丘の上からみていた日矛の残党たちは、く るっと馬首を返し丘の反対側にある木立の中へ姿の消した。川のせせらぎの音だけ が、丘の方から聞こえていた。


加茂の民に呼応しシコオたちも雄たけびをあげた。山の民独特の雄たけびは、播磨の 山々に野太く響き渡った。雄たけびが終わると、一気に高まった戦の緊張感は、山々 の長閑な空気に解けだし相野の市は次第に日常を取り戻した。人々は「あれが出雲の 大国主の息子か。なかなかの器じゃ」などとお互い語り始め、若い娘たちは憧憬のま なざしでタカヒコをみつめていた。そのうち相野の神官らしき老人がタカヒコに神酒 を捧げにきた。タカヒコもまんざらでもない様子ではあるが、生け捕りにしたアラシ トへの詮議が待っている。それを理由に、穏やかに神酒を断ろうとしたその時であ る。日矛が逃げ去った丘の方角から「キャーッ!」という甲高い女の叫び声が聞こえ た。


「うん?」 タカヒコは訝しげに丘の方を振り返った。 「はっ!」 タカヒコは何かを思い出したように、馬に跨りなおし、丘に向かって駆け出した。加 茂の民も顔を見合わせ何かに気づいたように馬に跨りだした。アラシトの身柄をシコ オにまかせて加茂の民の精鋭も六騎ほどがタカヒコの後に続いた。残された神官とシ コオたちはぽかんと口を開けたままその場に立ちすくんでいた。 丘の反対側では、とんでもない事が起こっていた。そこは船着場があり、伊和の里で 別れたアカルヒメとホアカリが日矛の残党たちに襲われていたのだ。筏の上にはアカ ルヒメと、2名の漕ぎ手のみ。 ホアカリと護衛についてきたシコオ1名は川に下り て筏の前後を守りながら日矛たちと争っている。


ホアカリは腰のあたりまで川に浸 かっていた。ホアカリとて剣の名人ではあるが川の流れに足を取られてはたまらな い。しかも敵は馬上にいるのだ。 丘の上からその様子を見て取ったタカヒコは猛然と馬を飛ばし木立の前を抜け、揖保 川の流れの中へと突っ込んでいった。タカヒコは突然の戦闘とその勝利の余韻のため ホアカリとアカルヒメのことをすっかり失念してしまっていたのだ。 「くそっ!」 タカヒコは焦りと怒りを押えながら、馬を急がせた。川まではおよそ100メート ル、そこから数メートル先の川の真っ只中で戦闘は行われている。馬の轡を左手で握 り、右手では出雲造りの鉄剣の柄を握り締め、馬上ですぐにでも斬りかかれる態勢を とり、揖保川に浮かぶ筏をめざした。


タカヒコの目には、奮戦するホアカリの姿が見 えた。長柄の矛の攻撃を支えかねているようだった。下半身を川の流れに晒している ホアカリの斬撃では、日矛の矛捌きには及ばない。 「ホアカリ!馬を斬れ」 タカヒコの声が聞こえたかどうか。ホアカリは長柄の矛を避けようと体を動かした瞬 間、川の流れに飲み込まれた。 「ま・まずい。」 タカヒコの馬はやっと川の中ほどまでやってきた。筏までもうすぐだ。しかし1歩遅 く、筏の上のアカルヒメは日矛一人に囚われてしまった。護衛のシコオの姿も見えな い。漕ぎ手の二人もあっという間に切り伏せられてしまった。アカルヒメを捕らえた 日矛はヒメを馬の背に乗せ、反対側の川岸へとあがっていった。こうなってくると一 気に形勢逆転である。残り5名の日矛は一斉にタカヒコに打ちかかってきた。タカヒ コは一番近くにいた日矛の矛をかわし、すれ違いざまに相手の首を一突きして打ち倒 したが所詮は多勢に無勢、奮闘も空しくアカルヒメを乗せた馬が去っていくのを眺め るしかできなかった。


ホアカリは流され自らの身さえも危なくなったときタカヒコを 追ってきた加茂の民が川の中へと押し入った。それを見て日矛たちはタカヒコを深追 いするのを止め、アカルヒメを乗せた馬が去っていた方向へと退却していった。 追いかけてきた加茂のタニグクがタカヒコのそばまで馬を進めてくるまでには、日矛 の一団は既に森の中へと消えていた。 「タカヒコ様!」 タニグクはタカヒコの馬の轡をとり彼の顔を除き込みながら声を掛けた。呆然とアカ ルヒメの消えた方を見ていたタカヒコだったが、タニグクの声と彼の顔が視界に入っ たことでようやく戦闘の興奮も冷めて我にかえった。


「タニグク、やられたよ迂闊だった。アカルヒメを奪われてしまった。」 「ホアカリ様と護衛のものは?」 「護衛らは私の目の前で斬られてしまったよ。ホアカリは川に流された」 と力なく答えた。タニグクはタカヒコを川岸に誘導し終わると、連れてきた数名のも のたちに命じて川の周辺にホアカリらがいないか探させた。結局みつかったのは瀕死 の重傷をおった御付きの女人と護衛のものの無惨にこときれた姿だけだった。 「タカヒコ様、ここは一旦市場まで退きましょう。日矛の大将を捕らえられたので す。やつらもこのままにしておきますまい。アカルヒメ様の御命も簡単には奪わない でしょう」 「そうだな、アカルヒメとアラシトとの人質交換を言ってくるかもしれん」 二人は今後のことを話し合いながら、とりあえず相野の市へ戻っていった。


アカルヒメと彼女をさらった日矛たちは、揖保川の下流のシイネツヒコと待ち合わせ た場所まで戻っていた。シイネツヒコとの約束の時間までもう間もない。首領である アラシトの奪回は今現在の彼我の戦力を見比べても不利なことでは目に見えていた。 人質交換するにしても、彼らにはアカルヒメがどういう人物であるか、人質としての 価値は十分なのかが計りかねていた。敵の大将タカヒコのうろたえ振りから大事な人 間らしいことは解ってはいたが、はたして吉備の大王であるアラシトの命とつりあい が取れるのかどうか彼らには判断がつきかねた。 「こうなってはいたしかたない。あの小生意気なシイネツヒコとかいう海人のガキに 相談するしかなかろう」 「いや、ますます増長させるたけだ。それよりも吉備へ戻って軍を引き連れてきた方 がよかろう」 たった六人になった精鋭天之日矛は頭を失って混乱していた。


「とりあえず、その両方だ。今からでは吉備からの援軍を待っていては何もかも間に 合わん。かといって大王様の不在を海人の小僧に隠しとおせるものでもなかろう。吉 備に援軍を求める一方で、シイネツヒコにも打ち明けねばなるまい。」 日矛たちの意見は決した。しかしアカルヒメのことだけはシイネツヒコに明かさない ことにした。いざというときの主導権を握る人質になるかもしれないからだ。その前 にアカルヒメの素性を確かめねばならない。彼らはアカルヒメの縄を解き、尋問を始 めた。 「なっなんと!出雲大国主の娘だと!」 日矛たちは驚いた。これなら十分人質としての価値はある。しかも敵の大将の妹でも あるのだ。 「して、その大国主の娘が何のために播磨くんだりまでお出ましか?」 「それはアシハラシコオ様と婚姻を結ぶためにございます。」 アカルヒメはかれらが日矛つまりアラシトの関係者であることはその容姿から容易に 想像できたが、まさか兄タカヒコがアラシトを捕らえているとは想像もつかなかっ た。


アカルヒメへの彼らの応対ぱさっきまでと違っていた。大国主の身内であるなら一国 の主とでも十分つりあいがとれる。そう判断したかれらは席を用意し水と食べ物を与 えた。 そこへ、アラシトが昨日吉備の児島の様子を見に行かせた日矛の一人が舞い戻ってき た。彼の顔面は蒼白で吉備の地で異変が起こっていることがことが容易に想像でき た。 「大変だ!」 「どうした?落ち着いて話せ、吉備児島はどうなっていたのだ。まさかシイネツヒコ が何か・・・」 「何かどころではない!児島の周囲全部を小船を囲んでいやがる。 ねずみの一匹さ えはいる隙がない。児島がどうなっているのかさっぱりわからない。」 「くっなんと!では吉備からの援軍など望むべくもないな。 アラシトという首領を奪われ、吉備の本拠地も囲まれている。この場にいる日矛たち にとってはまさに四面楚歌であった。彼らにとってアカルヒメはますます重要な切り 札になってしまった。


揖保川の河口に、再びシイネツヒコが現れた。約束よりもまだ早い時間である。シイ ネツヒコを乗せた小船は日矛とアカルヒメらがいるアラシトとの約束の場所を通り過 ぎ、さらに川を遡っていった。ちょうど相野の市と約束の場所にの中間、北から流れ てきた揖保川が西南に流れの方向を変える浅瀬にさしかかったとき船頭が指を指して 声をあげた。 「ひっ人が倒れている!」 シイネツヒコがその先に目をやると、シコオらしい格好の男と日矛、それと出雲貴族 の服装をした男が浅瀬に打ち上げられていた。 助け上げようと川におりてみると、シコオは斬られて死んでいることがわかった。 「おい、そっちの出雲男はどうだ?」 と、船の上からシイネツヒコが声をかけた。船頭は死体をほっぽって出雲男の体を抱 き起こした。 「へい、しこたま水はのんでいるようですがどうやら傷が浅くて生きてはいるようで す。」 「よし、助けろ。しかし、出雲の者がどうしてこんなところに、しかも斬られている とは?」 「もしかして、日矛のやつらにやられたんじゃ?」 「うん、流されてきたということは上流で何かあったな。よしこのまま相野の市まで 遡れ」 倒れていた出雲男つまりホアカリを乗せてシイネツヒコはタカヒコのいる相野の市ま で船を走らせた。