2000/7/25



出雲国譲りの真相24



大物主への道1

磯城纒向の宮の床の中で身を横たえた大物主はタカヒコの到着を今か今かと待ち侘びていた。病に侵された彼は後事をタカヒコに直接託すことのみを心の支えとしていた。隣の部屋では宰相ニギハヤヒが待機している。大物主の病状は、ニギハヤヒの独断で、大和盆地の豪族たちには隠されていた。ニギハヤヒとしては出雲への知らせも送らないつもりであったが、橿原の謀略に対する策を練っているうちに大物主本人がタカヒコの大和入り要請と同時に自らの病状を合わせて出雲大国主に報告してしまったのである。河内の港を押さえ情報の流出にも気をつけてはいたのだが、大物主の身の回りの世話をしているもの達は、もともとは山道の得意な加茂の民である。彼らの仲間は山城、琵琶湖を通り、日本海沿岸を一気に抜け、出雲へと急報は伝えられたのである。これはニギハヤヒにとっての誤算であった。大物主の死に乗じて大和王権の簒奪を狙っていた彼にとって、タカヒコの急な大和入りは寝耳に水の一大事であった。


「何としても、二人を会わせてはならぬ」というのが、ニギハヤヒの本音である。彼はタカヒコの大和入りを阻むため、腹心中の腹心大和大将軍のナガスネヒコを河内から播磨方面に移動させた。もし出雲勢が大軍をもってこようとナガスネヒコなら撃退できるはずである。しかも常陸の智謀の主アメノコヤネ、豪腕タケミカヅチをナガスネヒコに同行させている。新参者の常陸とニギハヤヒは利害の一致したいわば一蓮托生の間柄である。かれらなら大和のものたちより裏切る心配はなかった。


摂津と播磨の境になっている明石川は揖保川と比べれば川の水は浅い。歩いても渡れそうなほどである。タカヒコら二十騎は、川の中ほどまで馬を進めていた。そこへ対岸からいきなり矢が一本だけ放たれた。矢はタカヒコのすぐ側の浅い川底に突き刺さった。対岸からここまではの距離は通常の矢の射程距離を大幅に越えていた。しかも矢は落ちたのではなく川底に突き刺さったのである。何という強力。タカヒコは驚き対岸に目をやった。対岸には大将らしきいでたちの男と数名の兵が矢をタカヒコの方に向けて構えていた。一瞥したタカヒコは尚も馬首を返さず対岸へと進んだ。


「川を渡ろうとする者達よ、この川を渡ってはならぬ。ここから先は大物主様の土地である。無用の者は戻られよ!」 大音声で呼びかけたのはタケミカヅチであった。タカヒコは一瞬身構えたがたじろぐ様子もなく、ミカヅチの方へと馬を進ませた。 「聞こえぬのか?止まらぬと今度は御主めがけて矢を射るぞ!」 「タカヒコ様、ここは私が様子を見てきましょう」 シコオの一人が、タカヒコを制して先に馬を走らせた。


「やあやあ、我等は大物主様の招きにより、大和に向かう者、こちらにいらっしゃるのは出雲大国主様の御子、アジスキタカヒコネ様なるぞ!」シコオは大きな声でミカヅチらに呼びかけながら馬を進めた。シコオが向こう岸に辿りつく寸前、タケミカヅチらは一斉にシコオに向けて矢を放った。何本かの矢がシコオの跨る馬に命中し、シコオは川に投げ出された。馬から落ちたシコオが川から身を起こした瞬間、ミカヅチの強弓から飛び出した矢がシコオの体を打ちぬいた。


一瞬何が起こったかタカヒコには理解できなかった。 「まずい!全員岸に戻れ、何か変だ!」 加茂の里からずっと一緒だったタニグクが慌ててタカヒコの馬を引っ張り、播磨側の 川岸まで退却させた。 川岸に戻ったタカヒコたちは考え込んだ。 「大物主の家来がどうして我々を阻むのだ??」 タニグクが答えに窮していると、同じく加茂の民であるカガセオが口を開いた。 「おそらく、ニギハヤヒとかいう新参者の罠でしょう」 「どういう事だ?」 「詳しいことは解りませんが、カムロノミコト様がニギハヤヒには気をつけろと私に 言いつけられました」 シコオの一人が、独り言のように呟いた。


「くそっ!ニギハヤヒめ。」 「シコオ達で何か知っておるものはいないか?」 とタカヒコはシコオたちの方を見た。一人がタカヒコの前に進み出て答えた。 「実は、伊和大神様も同じことをおっしゃってたのです。『ニギハヤヒに気をつけろ』と・・・」 「どういう事なんだ?ニギハヤヒは大物主を助ける有能な人物と聞いておったが?」 「伊和大神様がおっしゃる事には『ニギハヤヒは、どうやら大国主様の支配から抜けようとしているかもしれない』とのことでした」 「なんと!どうしてだ??」 「大国主様からみれば播磨の伊和大神も大和の大物主も讃岐の金毘羅大神もみな同じ 立場のはずですよね?」 とシコオはタカヒコの目をじっと見て尋ねた。


「そうだ、本当の親子ではないにせよ、皆同じ血縁をもった家族だ。大国主様は播磨 も大和もみんな子供のように思ってらっしゃるはずだし、私もそう聞かされて育っ た。」 「それがタカヒコ様、ニギハヤヒは伊和大神さまに貢物を要求してきたのです」 「貢物だと?それは僭越な!大和には東国の貢物の管理は任せておるが、その他の 国々は直接出雲に貢ぐことになっているはずだ」 「それが・・・・」 「それで伊和大神様は貢いだのか?大物主様に」 「いえ、直接大物主様に確認したところ手違いであるとの仰せでした。しかし・・・」 「しかし、何だ!早く申せ!」 「その直後、ニギハヤヒに10数年前の日矛撃退戦の戦費を要求されました。あの戦争のおり、日矛らに田畑を焼かれた播磨の国では兵糧を賄うことができず、大和から大量に援助してもらっていたのです。それを返せという事で・・・。伊和大神様は『あの戦は出雲大国主様の号令で行われたもの。その年、大和は出雲への貢物を免除されているはずだ』と突っぱねたのですが、すると今度は、淡路の海人を抱き込んで海産物を高値で我等に商おうとする始末、それも大物主様との直接交渉で撤回させたようですが、このところ大物主様と直接の連絡がとれなくなってきておるようです。そんなこんなに限らず、大和の優位を出雲直属の他国に知らしめようとしておるようです」


「ふむぅ。大国主様に東国の支配の代行を大和がする事の許しを願ってきたのもニギハヤヒが宰相になってからの事。国作りに熱心だと思うておったが・・・」 「先ほどの剛弓もおそらくニギハヤヒが仕向けた東国の者でしょう。大和のものたちならば大国主様の御子と名乗るものに弓を射かけたりは致しますまい」 「大物主様の御心はどうなのだろう?本当にニギハヤヒでなく私に後を継がせたいのであろうか?」 「それはそうでございましょう。ニギハヤヒが立てばもう一方の雄橿原のイワレヒコ一族が黙っておりませぬ。かといって橿原のものは筑紫邪馬台の血を継ぐもの。そうなれば加茂の民や大和の他の豪族も黙ってはおりますまい。大和の誰が後をついでも一悶着あるのは避けられない。だからこそ大物主様だけでなく我等の伊和大神様はタカヒコ様の後大和下向を願ったのでしょう」


タカヒコ達が話しをしているうちに、タケミカヅチはおよそ20張りほどの弓隊を先頭に100名ほどの歩兵を引き連れて川を押し渡ろうとしだした。こちらには弓矢の持ち合わせはない。彼等は鹿皮の鎧を身につけているようだ。身のこなしも軽そうである。浅瀬を探しつつこちらに、じわじわと近づいて来る。先ほどタカヒコらが射掛けられたところまで進んでくると弓隊が射撃の構えをとった。 「まずい、あの丘まで退け!」 タカヒコ達は川から少し離れた小高い丘を目指して馬を走らせた。列を乱しながらもその場から全員が逃げ出し丘の上に集まった。射程から逃れたと思ったタカヒコが川の方を振り向くと、弓隊の最前列に大男のタケミカヅチが強弓を構えていた。目があったその瞬間、矢はミカヅチの弓から勢い良く飛び出し一直線にタカヒコの額を目掛けて飛んできた。キーンという金属音があたりにこだました。タカヒコの剛剣が一閃し矢を叩き落したのだ。直後に「にやり」とタケミカヅチが笑ったような顔をしたのをタカヒコは見逃さなかった。


タカヒコは正直タケミカヅチを恐れた。矢の距離はともかく、丘に向かって打ち上げたのにも関わらず矢の勢いが衰えてなかったからだ。常人離れした膂力である。


タケミカヅチはタカヒコ達の反撃を警戒し、弓隊と歩兵数10名を川中に残したまま摂津側の岸に揚々と引き上げていった。岸に上がり満足そうにタケミカヅチはタカヒコの方を見て笑った。その時である。「ごうっ」という大音響があたりに響き、明石川は一気に水かさをあげた。まるで鉄砲水である。ミカヅチが置いていった兵たちはあっと言う間に水に飲まれた。


「何事だ!」 タカヒコらは矢の射程から逃げようとしたのが幸いして、誰も水に浚われなかった。一方摂津側の川岸は驚くほどの水に浸かっている。岸から離れて後方にいたタケミカヅチは膝くらいまで上がってきた水の中に呆然と立ちすくんでいた。一瞬の鉄砲水に100名ほどの兵が彼の周りには極僅かの兵しか残っていない。川中にいた弓兵だけでなく川岸に展開していた歩兵も全て流されてしまったようだ。両陣営が戸惑っているうちに川の水はだんだんと少なくなってきた。が、それでも先ほどのような浅瀬の川とは風景が一変していた。かなりの水量をもつ川へと僅かの時間のうちに変貌してしまったのだ。


「ミカヅチよ、何が起こったのだ」 呆然としているミカヅチの背後から、声がした。後方の住吉の港で待機していたナガスネヒコである。タカヒコを見つけた知らせの烽火が上がったのを見て馬を飛ばして掛け付けてきたのだ。ナガスネヒコは大和軍本隊の精鋭を率いてきてはいるが、飽くまで哨戒部隊だという名目のため人数は騎馬50騎と歩兵・弓兵合わせて200名ほどである。タカヒコの率いる員数を食い止めるくらいはこれだけの人数で十分事足りるという判断もあった。


「ナガスネヒコ様、いきなり川が暴れました。私の率いていた東国兵はほとんど川にながされてしまいました」 「なに、川が暴れただと?それほどの雨など降ってはおらぬ。上流からもそんな報告はうけておらぬが?」 タケミカヅチはナガスネヒコに自分達先遣隊が明石川に到着してからの様子を逐一報告した。ナガスネヒコは報告を聞きながらじっくりと考え込んでいたが、「はっ」と何かに気付いたような顔つきで語り出した。 「明石川の水量がそんなに少ないわけはない。さては・・・・・・。ここはまずい。ただちに垂水の砦まで退却だ。それに住吉の港で待機しているアメノコヤネに至急連絡をいれろ」 「えっどういうことでしょうか?」


その時である。上流から銅鼓を打ち鳴らす音とともに川船を先頭に筏の大軍が現れた。川船の舳先に立ってこちらを睨みつけている壮年の男は大和にとって小うるさい存在である播磨の伊和大神その人であった。筏には但馬討伐に向かったはずのアシハラノシコオたちが乗っているようだ。みるからにおびただしい数の兵がつぎつぎと筏をとびおりはじめた。千や2千は軽く居そうな感じである。


伊和大神と初対面のタケミカヅチには何がどうなっているのかさっぱり理解できなかった。 「まだ解らぬか、このままでは我等は全滅するやもしれぬ。早々に垂水の砦まで退却するのだ。あそこならコヤネの援軍がくるまでは持ち応えられよう、さあ、全軍退却だ!!」 「はっはい!」 大和軍は、圧倒的優位の状態からホンの一時ほどで一気に劣勢となってしまった。馬首をかえした大和騎馬軍だったが、退却すべき道も封じられてしまった。背後の摂津方面からもシコオ軍の弓隊が射撃をしながら押し寄せてきたのだ。播磨軍は上流で既に二手に分かれていたのだ。川からは伊和大神率いる本隊、摂津方面の陸上からはシコオの弓隊。押すも退くもできなくなった大和軍は円陣を組みナガスネヒコとミカヅチを中心に集まった。


「万事休すとはまさにこのこと。」 ナガスネヒコは悟ったような顔つきで、抵抗をやめさせた。一方シコオたちもじわじわと包囲を狭めてはくるが、大和軍が円陣組んでからは一本の矢さえ撃ってこない。 川船を岸につけた伊和大神は、部下にタカヒコたちを迎えに行かせた。まるでナガスネヒコらを無視するかのような態度である。まずタカヒコと初対面の柏手の儀式と挨拶を済ませた伊和大神はナガスネヒコとタケミカヅチを自分たちの方へと呼び出した。


「また、ニギハヤヒの策略だな?ナガスネよ?」 伊和大神は憎々しげにナガスネヒコに問うた。 「いえこれは、大物主様のご意志でございます。」 「ふん、トボケるな。ワシラ播磨勢を但馬に行かせその隙に大和を奪おうという魂胆であろう?」 「いえ、そのようなことは・・・・。」 「では何故、タカヒコ様の大和入りを邪魔する??うん?答えてみろナガスネ!」 伊和大神は強い口調でナガスネヒコを詰問した。ナガスネヒコは恐れ畏まり平伏した。


「我等は、大物主様の命令として、ニギハヤヒ様より命令をうけております」 「ニギハヤヒには、忠義だてするのか?」 「いえニギハヤヒ様ではなく、大物主様、ひいては大国主様に忠を尽くしているつもりです」 「ニギハヤヒのいう事を聞くという事は、大物主様、大国主様に弓を引くということになるのがまだ解らぬか!現にこの東国の若僧は大国主様の御子であり大物主様のご養子になり次ぎの大物主となられるタカヒコ様に弓ひいたというではないか!この失態は如何にするつもりだ!!!」 「如何にも、申し開きはでき申さぬ。このナガスネめとミカヅチの首を伊和大神様に奉りましょう。」 と、ナガスネヒコは更に平伏して答えた。それを聞いた伊和大神はまずタケミカヅチから処刑するように命じた。その時ずっと横で伊和大神の詰問を黙って聞いていたタカヒコが初めて口を挟んだ。


「伊和大神様、そこまですることはないでしょう。このミカヅチと申す者の武勇には恐れ入りました。川をまたいで矢を射通すなど倭国広しといえどもざらには居ますまい。その力が惜しゅうございます。これから筑紫との闘いも本格化するでしょうし是非ミカヅチやナガスネヒコ殿の力は是非とも必要だと思います。」 「いや、こやつらのような節操のないものを生かしておいても、将来の禍根になりますぞ。タカヒコ様。」 「ならば、この二人を私の直属の家臣に頂けないでしょうか?私が責任をもちます」 「うーん、そこまでミカヅチの武勇にご執心ですか。撃たれたあなたがそういうならばこの失態は不問と致しましょう。しかし大物主様から与えられた両者の権益は剥奪する事を、私から直接大物主様に申し上げます。以降はあなた様の直臣として教育なされよ。東国者はその心ねの変えようが難しいです。肝に命じなされよ。タカヒコ様。」


タカヒコのこの二人への命乞いは、後に大きな仇となって返ってくるのだが、タカヒコはこの時二人の豪傑を得た喜びに浸って先のことまで読めなくなっていたのである。