[ 冷たき刻印0102雑感 ]

2012年6月7日追記:
トライデント・ハウスから2012年3月20日に発行された「幻視者のためのホラー&ダーク・ファンタジー専門誌」である季刊「ナイトランド」創刊号に、SFやホラー小説の翻訳家である野村芳夫氏によって邦訳された"Cold Print"が「コールド・プリント」という題で収録されています。


冷たき刻印(要約之一)

「……クトゥルフの眷属さえも、あえてイゴーロナクについては語らない。いつの日かイゴーロナクが永劫の孤独より歩み出る時が来るだろう。今一度人の世を歩むために……」

――グラーキの黙示録 12巻――

 クリスマス前の雪の降るある日、サム・ストラッツはブリチェスター・セントラルへと出かけ、露天の古本屋をのぞいていた。雪が降りかかるままになっている古本の扱いに不平を漏らしていた彼は、そばの客が持っていた新聞の見出しに目をやった。

『廃墟の教会で残虐な殺人……遺体は昨夜、ロワー・ブリチェスターにある教会の、屋根のない壁の内側で発見された。無慈悲な情景から雪が取り除かれてしまうと、死体を覆っている恐るべき損傷が露わになってきた。楕円形にえぐられた傷口はまるで……』

 そこで客が出ていってしまったので、ストラッツは雪まみれの本について店員に文句を言うと、その店をあとにした。

 雪を避けるために別の書店「グッドブックス・オンザハイウェイ」に入ったストラッツは、顔馴染みの店員に鞄から取り出した本を見せて、これくらい興奮させてくれる本はないかと尋ねた。それは灰色の表紙に「鞭打ちの達人 ヘクター・Q著」と書かれた、アルティメイトプレス発行の倒錯もののポルノ小説だった。しかし店員はそのような本がある事自体を知らなかったので、あきらめたストラッツはその本を大事に抱えて店から出ようとした。しかしその時、何者かの手が彼の腕から鞄へと触れるのを感じたので、彼はそれを振り払いつつ後ろを振り返った。そこには、先程店内に入ってきていた浮浪者風の男が立っていた。

「待ってくれ! あんたはその手の本をもっと探しているんだろ? 俺はそれが手にはいるところを知っているんだ。」

このような言い寄り方はストラッツの読書に関する独善的な優越感を害した。彼は男の指から鞄をひったくると男に尋ねた。「じゃあ君もこういう本が好きなんだね?」

「ああ、いっぱい持ってる。」

ストラッツはバッグの口を拡げて見せた。「こんなのもかい?」

「『アダムとエヴァン』『わたしをあなたの好きにして』、全部ハリソン・アドベンチャーのシリーズだよね。いっぱいあるよ。」

ストラッツは不本意ながらも、男の申し出が本物らしい事を認めた。ストラッツは振り返って、カウンターの店員が彼らをじろじろと見ているのに気付いた。「いいだろう。」彼は言った。「君が言っているのは何処の事だい?」

 男はストラッツの腕を取ると、吹雪く雪の中を熱心に引っ張っていった。乗用車やバスの行き交う道路を横切ると、商店の間の横道に入り込んでいく。そのあたりはかつてストラッツが掘り出し物を求めて裏通りの隠れた本屋を探し、そして期待を裏切られた場所だった。時々家々の戸口の下で雪を払い落としながら、これは彼の嫌うくだらない行為なのではないかと考え始めたストラッツに追い打ちをかけるように、案内人はある戸口の前でいきなり喉の乾きを訴え始めた。ストラッツはしぶしぶ男について場末のバーに入り、耐えきれない喧噪と澱んだ空気の中、彼がビールで喉を潤すのを待った。しかし案内人の振る舞いは意図的にぐずぐずとしていた。

「そろそろ出る時間じゃないのか?」ストラッツは言った。

男は視線を上げた。その眼には恐怖の色が拡がっていた。「頼む、俺には勇気が無い。」男はぶつぶつと呟く。「あんたを連れて行くのは雪が止んでからにするよ。」

 怒ったストラッツは案内人をひとしきり怒鳴りつけ、店から追い立てた。

 前方を行く案内人を無言の圧力で急き立てながら、ストラッツは何処までも続く赤煉瓦の壁とクリスマスの飾り付けのされた窓が並んだ路地を突き進んだ。雪片が風景を覆い隠し彼の頬を氷の刃のように切りつける中、ストラッツは一瞬、下宿の屋根裏部屋で女主人の娘が父親に殴られるのを聞いたり、階下のカップルのものであろうベッドのスプリングの抑えられたきしむ音を拾おうと努めたりした夜について話したくて仕方が無くなった。しかし次の瞬間路地が終わり、大きな交差点が現れた。そこは彼の見覚えのある場所だった。

 彼らは再開発中のその交差点を横切り、向かい側の路地へと入っていった。廃屋も多くなった迷路のような家並みの間を何度も左右に曲がった後、ついに案内人は立ち止まった。そして恐怖に震えながら向かい側の歩道を指し示し、目的の店に到着した事をストラッツに告げた。

 大通りとの位置関係を考えながらストラッツは道路を渡って店の前に立ち、看板の文字を読んだ。「アメリカンブックス:売ります/買います」。彼は店のくすんだ窓から格子越しに中の展示棚を眺めた。しかし、そこに並んだ小説の類にはここにやってきただけの価値を見出せなかった。ストラッツは窓の腐食した赤煉瓦等に目をやりつつ店内に入ろうとしたが、案内人がその場から動こうとしないので、その黴臭いオーバーコートを小突いて急かさなくてはならなかった。

 店内は、窓の展示棚に陽光が遮られていて陰鬱な雰囲気だった。入り口のガラス戸の桟には埃が溜まり、そばのテーブルの上には半額の値が付けられた傷んだペーパーバックが段ボール箱に詰められて置かれている。ガラス戸を閉めた時、ストラッツはどこか近くでとても短い悲鳴が聞こえたように思った。不審に思いつつもつつも彼は案内人に尋ねた。

「おい、僕の欲しい物が見当たらないぞ。誰もここで働いていないのか?」

目を大きく見開いて、男はストラッツの肩越しに後ろを見つめた。ストラッツは振り返り、すりガラスのはまった一枚の扉に気付いた。ガラスの一角はボール紙で修復され、ガラス越しに漏れてくるぼんやりとした黄色い明かりに対してそこだけが黒い。おそらく書店主の書斎だろう――ストラッツの言動を聞かれてしまったのだろうか?

 だが、身構えるストラッツを押しのけて案内人はカウンターの後ろへと廻り、本のつまった戸棚の中を狂乱したかのように探して回った。そしてついには棚の一角から灰色の小包みを引き抜き、「これがそうなんだ、これがそうなんだ。」と呟きながらストラッツに突き出した。そして、中身を確認する彼の反応を、眼下の皮膚を痙攣させてうかがった。

「ワックフォード・スクィーズの密かな生活」――「おお、これはいいじゃないか。」

今にも我を忘れそうなほどストラッツは気に入った。そして財布へと手を伸ばす。しかし脂ぎった指が彼の手首をつかんだ。「代金は次の機会に払ってくれ。」男は答えた。代金を払わずに本を持っていけるのか? ストラッツは躊躇した。ちょうどその時、すりガラスの向こうに影が拡がった。頭の無い人物が何か重い物を引きずっている。すりガラス越しである事と、その人物の首を曲げた姿勢によって、頭が欠けてしまったのだとストラッツは考えた。それからふと、この店の主人はアルティメイトプレスにつてがあるに違いないと思った。本を盗む事によってこのつてを損なってはいけない。ストラッツは手首をつかむひどく興奮した指を振り払うと、2ポンドを数えながら取り出した。しかし男は恐怖にこわばりながら、手の平をこちらに向けてそれを押し返す。そしてストラッツの両腕の力にほとんど尻込みしてしまう直前まで、書斎の扉に対して何度も頭を下げていた。シルエットは既に窓ガラスから消えてしまっていた。

 ストラッツは代金を棚の隙間に押し込み、改めて本を受け取ると自分で包装し始めた。その時突然男が店の戸口まで退いた。男の身体は凍りついたように硬直し、その口と両手は大きく開かれている。どこかで鍵がカチッと鳴る音が聞こえた。ストラッツは大きく息をのみ、本を包み終わると男を回り込んで店の戸口へと向かった。扉を開けて外へ出ると男も狼狽しながらそれに続こうとしたが、ドアステップに足をかけた時、重い足音が店内に響きながらこちらへと接近してきた。男は振り返り、そしてストラッツの目の前で扉はぴしゃりと閉まってしまった。ストラッツはしばらく待ってみたが、やがて案内人をここでお払い箱にする事にして、風雪の吹きつける中を大通りへと急いだ。

 次の日の早朝、ストラッツは下宿のベッドで目を覚ました。しばらくまどろんでいた彼は昨晩読んだ本の一節を思い出し、本棚へと目をやる。以前下宿の女主人が清掃時に彼の大切な本を痛めつけた事があり(女主人の隠された悪意を彼は知っていた)、それ以来彼は鍵付きの本棚を使っている。ふたたび目を閉じ、部屋と本棚の醸し出す空虚感に満たされながら、ストラッツは来るべき新学期の始まりに思いを馳せていた。最初の授業のたびに学生に繰り返す「フェアに競おう。僕もフェアに競う。」という決まり文句、使い込んだ体操着、体育館に響く足音――そんな事を回想しながら彼は再び眠った。

 しばらくして彼は起き出したが、朝食時には下宿屋の娘とのちょっとした諍いがあり、缶詰を買い出しに出かけると悪ガキに雪玉を投げつけられ、憤怒のやり所のないまま帰路についた。ストラッツは、かつてこの陰謀に満ちた敵意ある世界の中で彼の話し相手になってくれていた、今は亡きゴーツウッドの書店主を思い出していた。そういえば、あの新しい書店の主人とは気が合うだろうか? 率直な議論の相手と共に、クリスマスの間に読むための本(スクィーズはほとんど読んでしまった)を彼は必要としていた。クリスマスイヴにはほとんどの店が閉まってしまうだろう。ストラッツは缶詰を台所に置くと、再び階下へと向かった。

 バスから歩道へと降り立ったストラッツは、刻々と迫る寒気と戦いながらよじれた横道をあの書店へと急いだ。しかし着いてみると、空がオレンジ色に染まっているのに店内には明かりが見えず、ガラス戸には「閉店」の札がかかっている。扉の前に立った彼は周囲を見回していたが、再び扉の方を向いた時、突然闇が目の前に拡がった。扉が開いており、人影が戸口をふさいでいた。

「まさか、閉店じゃないのですか?」ストラッツの舌はもつれた。

「おそらくね。何か?」

「昨日ここへ来たんです。アルティメイトプレスの本を……」不愉快なくらい接近してきた顔に向かってストラッツは答えた。

「おお、そういえば。思い出しましたよ。」その男は運動家が柔軟体操をするように絶え間なく身体を揺り動かしていた。そして彼の声は一定の間隔で低音と高音の間を揺れ動き、ストラッツを狼狽させた。「どうぞお入りください。雪が降りかからないうちに。」男はそう言うと、背後で扉をぴしゃりと閉めた。

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