要約者前書き

[要約者による雑感]


幽霊湖
"Ghost Lake"

ドナルド・R・バーリスン (Donald R. Burleson)

 ロジャー・バートンはリュックサックを背負いパイプをくわえ、そして奇妙な考えを抱きながら、晩秋のセヴァーン地方、ブリチェスターの向こうに広がる荒涼とした景色の中を歩いていた。都会の喧騒や大学の塔群に背を向けて、ボールド通りの終端を通り過ぎると周囲は薄気味悪く静まりかえり、曲がりくねった小道を進んでいくうちに、まるで別世界に侵入したかのような気分になる。セヴァーン谷のうっそうと葉の生い茂った森の中、小道の両側には節くれだった木々があたかも歩哨のように並び、ほとんど日光の通らない灰色の薄闇に乗じて今にもつかみかかってきそうに思えるのだった。

 ロンドンからロジャーをこのグロスターシャーへと導いた奇妙な考え、それはこのセヴァーン地方に伝わる一連の伝説についてのものだった。いかにしてか生き残り続けている太古の宗教や、今も洞窟の奥に潜み、不注意な旅人をその人のものではない顔でじっと見つめているもの達に関する民話が、彼を長い間魅了していた。テンプヒルの街の古く恐ろしい教会とその下に棲むおぞましきもの達、セヴァーン川沿いの街クロットンとそこに架かる悪魔の出没する橋、ゴーツウッドの街とそこを見渡す丘の中腹にある巨大な扉の背後に潜むもの、それらに関する物語である。中でも、ブリチェスターの年老いた宿屋の主人に聞いた不吉極まりない湖についての物語に、彼は特に好奇心をそそられていた。ブリチェスターから数マイルのところにある、この昏き魅力を放つ湖について調査するために、彼はロンドンから列車に乗ってやってきたのだった。

 ブリチェスターに到着したロジャーは、まずブリチェスター大学の図書館で地元の民間伝承に関する資料を探したのだが、そこでガラスの展示ケースの中にしっかりと収められた9巻からなる書物に着目した。説明表示には、それが「グラーキの黙示録」という非常に稀少な書物であると解説されている。彼は以前、セヴァーン谷の民間伝承を調べた時にこの書物について聞いた事があったのだが、しかしその詳細については記憶していなかった。図書館員がロジャーに説明できたのも、この書物がかつて悪名高き湖のそばに本拠地を置いていた現存しない教団の、数人の匿名の構成員達によって書かれたという事ぐらいである。この事について彼に別の新たな情報をもたらしたのも、ブリチェスターの年老いた宿屋の主人だった。

「湖の周りの道へと至るまでの道のりは長い」老人は語った。「マーシィヒルの病院を通り過ぎて、うっそうと生い茂った森林を抜けると、道は湖岸の小さな通りにつながっている。小さいと言っても、湖面に面していた六軒の古い家並みには充分なものだったがね。」
「面していた? それらの家はもうそこにはないという事ですか?」
「ああ、つまりだな」タバコに火を点け、宿屋の主人は語り続ける。「家並みはまだそこに建っているという話だ。たぶん崩れ落ちる寸前だろうが、ともかくまだそこにある。ないのは湖の方さ。」
「湖?」
「そうだ、何年も前に干拓されてしまったのさ。ものすごく手間のかかる工事だったけれど、当局がポンプで排水して、カラカラに干乾びさせてしまったんだ。湖だったところには、今はもうクレーターしかないよ。」
「まったくなんでまたそんな事を?」
「まあ、あそこについては厄介事ばかり話題に上っていたからな。あの家並みは1700年代の終わり頃に建てられたんだが、建てた人物については誰も知らない。そして長年の間の借家人達は皆、この街でずっとあの地所を扱ってきた不動産業者を通して、あの家々を借りていたんだ。自分達の家族が何かしらの理由で家から外へ出て行き、そのまま二度と帰って来なかったと話す人々から、警察が受け付けた苦情がどれだけ多かったかというのは、それこそ神のみぞ知るといったところだな。街の人達はあの場所を『幽霊湖』と呼び始め、あそこにあった教団が湖の中に棲んでいるとされる何か――何かある存在――を崇拝しているという噂も広まりだした。とてもまともには受け取れないだろうがな。何人かは湖水の下に石造りの都市があるとまで言っていた。大学にあるとても珍しい本には、あの湖について何か書かれているらしいが、大学側は誰にも読ませようとはしない。思うに、貴重な本だと考えているからじゃないかな。私等には読めなくても少しもかまわないんだが。まあともかく、あの地域はどこも、今は誰も住まなくなっている。湖畔の家々にいた人間達も次第に姿を消し、最後には皆いなくなってしまい、家も空き家になって朽ち果ててしまったんで、いずれにせよ不動産業者はもうそれらに無駄な時間を費やす事もなくなったんだ。だけど人間が失踪するという苦情は、警察が遺体を回収しようと湖をさらい、さらにはそこを完全に干拓する事を決定してしまうまで、折に触れて寄せられ続けていた。そしてそこまでやっても警察は何も見つける事が出来なかった。どれも何年も前の話になるんだが、このあたりに住んでいる者は皆、いまだにあの場所を忌み嫌っているよ。」
「本当ですか?」
「今日に至るまでね。あそこを舞台にした物語を書いた、ケム=ベイ・ラムセスとかいう名の怪しげな流行作家もいたな。私の孫娘がそういう類のものを読んでいるんだ。私か、私はむしろあそこにまつわる出来事は全て忘れてしまいたいよ。だけどちょうど二年前にも、子どもが二人あそこへ出かけていき、そして戻ってこなかった。私があんたなら、あそこをぶらついたりはしないだろうな。まあバートンさん、あんたは若いからしたいようにしなさったらいい。」

 宿屋の主人の話は、問題の場所を見てみたいというロジャーの願望をさらに煽る事になったが、一方で湖自体がもはや存在しないという事実は彼を失望させてもいた。案内されたとおりの森の小道を歩きながら彼は、水面下の都市やそこに棲んでいるもの、それを崇拝している教団、そして人間の失踪といった数々の伝説は、いかなる途方もない精神活動の所産なのだろうかという事に思いを巡らしていた。ロジャーは昏き民間伝承の研究家として、どんなに奇妙な伝説にも、尾ひれがついたり曲解されたりして大きく変化してしまう前の、元となった何らかの事実が存在している可能性があるという事を充分承知している。それ故、宿屋の主人の警告には一抹の真実が含まれているのかもしれない、もしかすると湖のある場所は健康を害する可能性があり近づかない方が良いのではないか、という思いを次第に抱きだしていた。

 だが、そのような思いが明確になる前に、永遠に続くかと思われた森の中の道はかつての悪名高い湖、今は大地に生じた潰瘍のような荒涼としたクレーターの周囲を囲む、狭い空き地へと達していた。向こう側には、深くはあるが決して広くはなかったであろう湖の、かつて対岸だった空き地が見え、その向こうにはさらに森が続いている。コールタールで舗装されたブリチェスターからの道は、滑らかな丸石を敷き詰めた通りになるのだが、まるで植物に嫌われているかのように、その上にはほとんど雑草が生えていない。そして通りの少し先に、窓ガラスも割れ半ば崩壊しかけた六軒の古い家々が、深まる暮色の中、近づき難い静寂を伴って建っていた。

 この光景を目にしたロジャーの心の中は、何故か嫌悪感で一杯になっていた。それは彼が耳にした民間伝承の影響によるものという解釈では納得し難い現象だった。研究者である彼は、もちろんそのような伝承に対して客観的で冷静な態度をとるべきだと自覚しているのだが、それでもこの場所は、夕暮れ時である事も相まって、際立って不気味な雰囲気を感じさせていた。

 沈み行く太陽の下、かつて湖だったクレーターの縁に沿って丸石の上を数ヤードほど歩くうちに、このクレーターが中央の深く窪んだカップ状の形をしている事がわかってきた。反対側の向こう岸の空き地までは二百ヤードほどしかない。窪みの底には乾いた穴だらけの地面と灰色の雑草が見て取れるだけであり、石造りの都市も怪物の潜み棲む隠れ家も見当たらなかった。

 荒れ果てた家に泊まるか、それとも屋外でキャンプするか、ロジャーはそろそろこの場所での夜の過ごし方を決断しなくてはならなかった。ブリチェスターまで引き返すにはもう時間が遅すぎる。長考の末に彼は、崩壊の危険性のある家の探索は明朝まで行わない事に決めた。そこで薪を集めると、丸石の通りとクレーターの縁との間の地面にキャンプファイアを準備した。窪みの底は既に暗闇で満たされ、穴だらけの地面も雑草の草むらも濃い影に覆い隠されている。

 火のそばで寝袋の上に座って簡素な食事を取り、彼は何とか気分を好転させようとした。だが、心中の不安はさらに増大していく。月は未だに昇ってこない。焚き火の炎があたかも、湖底から湧き出してクレーターを満たし、さらに外へとあふれ出してくるインクのような暗黒の海に浮かぶ、ちっぽけな小島のように感じられた。そしてゾッとするような静寂とともにたたずむ六軒の不気味な古い家々が、まるで暗闇の中で互いに寄り添いながら、何かの企みを囁きあっているかのように思えてくるのだった。このような考えが馬鹿げたものである事はロジャーも把握していたので、彼は日中歩き続けた疲れを取ろうと寝袋に入り、冷え冷えとした微風を感じてジッパーをあごまで引き上げた。焚き火の小枝のはじける音に心を静められ、彼はまどろみ始める。

だが、何かおかしなものを感じて、ロジャーは目を覚ました。

彼はまばたきすると、消えかけた焚き火の向こうの薄暗い領域をじっと見つめた。欠け始めた月が昇っていて、乾いた窪地のあたりは今や、全くの暗闇ではなくなっている。月はあたかも輝くのをためらうかのように、弱々しい光を放ちつつ中空に浮かんでいた。

そして、おかしなものは月の真下にあった。乾ききった湖底の暗闇に、もう一つの青白い月が、あたかも水面の月影のように揺らめいていたのだ。どうしたらそんな事になるのか、ロジャーには皆目見当がつかなかった。何故なら彼は自身の目で、窪地には光を反射するようなものは何もなかった事、泥と雑草以外には何もなかったという事を認めていたのだ。しかしもう一つの月はそこにあり、中空にあるより実体を伴った片割れの光をチラチラと拡散させ、輪郭を揺らめかせながら浮かんでいる。

それはまるで――いや、この考えはあまりにも非常識過ぎる。

彼はもがきつつ身体の一部を寝袋から出していたが、それでも起き上がりはせずに――何故か、焚き火のそばで身を低くしている方が安全だと感じていたのだ――何とも言えない衝動に駆られて手を伸ばすとこぶし大の石をつかみ上げ、焚き火のさらに向こうの暗闇、月影のあるらしい方向へと放ってみた。その時一陣の風が吹き、焚き火の残り火をかき乱して火花を弾けさせ、彼の背後にあって見えない木の梢をざわめかせる。そしてこの知覚の混乱こそが、その最中にあった彼の耳に、窪地の暗闇の奥から、あたかも何かが跳ねを上げる音が聞こえてきたかのように思わせたのだった。無意識のうちに彼は目を閉じ、同時に強い疲労感から再びまどろみ始めてしまう。次に彼が頭を起こして残り火の向こうを見つめた時には、鉄灰色の雲のヴェールが空を横切り、月とその奇妙な影とを消し去ってしまっていた。そしていつしか睡魔が彼を圧倒し、そのまま夜が明けたのだった。

* * *

 朝になり、ロジャーは軽い朝食をとりながら、ほんの少し聞きかじっただけの民間伝承の影響で、昨夜あれほど取り乱して睡眠不足になってしまった事を恥じていた。起きた時には時計がすでに11時近くを指していたにもかかわらず、彼の目は腫れぼったくヒリヒリと痛んでいる。焚き火の始末をしながら、彼はかつて湖底だった場所へと目をやったが、そこは前に見た時と同じく乾ききっていて、何の異常も見出せなかった。

 ともかく彼は、かつて湖岸に建っていた六軒の家々の残骸を調査し始める事にした。近づいてみると、最初の二軒は壁のそこここに大穴が開き、屋根も崩れ落ちていて、調査しても時間の無駄である事がわかった。三軒目はそれらより少しましな状態に見えたのだが、それでももはや不動産業者の手には負えない代物と化している。瓦礫の山となるのも時間の問題だろう。割れた窓から居間を覗いてみると、壁は一応元の姿を保っているようだが、瓦礫の類が床一面に散らばっていた。この上なく気を滅入らせる荒れ果てた状況に抗しつつ、ロジャーはきしむ扉を開けて廃屋の中へと入っていく。陽光のほとんど入らない居間の中は薄暗く、目が慣れるのに時間がかかった。壁の漆喰はことごとく剥がれ落ち、ただれた腫れ物のような跡を残している。ほとんどの家具は元の見分けがつかないほどバラバラになっていて、押し潰されたテーブルには蜘蛛の巣が張っていた。彼は残骸を踏み越えて他の部屋を調査してみたが、どこも同じような状態である事が確認できただけであった。

 しかし、居間へと引き返してきたロジャーは暗がりに慣れた目で、先ほどの調査で見落としていたものを見つけた。入ってきた扉のすぐそば、左隅の損傷の比較的少ない壁に、何らかの文章と絵のようなものが書き付けられていたのだ。小型のブラシで書かれたらしいさび茶色の文章は、壁のほとんどの部分を占めている。その筆跡からは何か狂気を帯びた熱意が感じられ、かつてこの場所を本拠地にしていたという奇妙な教団の事を彼に思い出させた。ロジャーは目を細めてその文章を読み始める。最初の方は全く判読出来ない記号のようなものが書かれていたのだが、やがて……

……永劫の太古より、無限の空間を越えて、物質を凌駕する実体を有し、精神の髄そのものの中を何ものにも囚われる事無く闊歩する。彼のものが紡ぎ出す欲望の前に、何者もその召喚を拒む事はかなわず、彼のものの容赦無き探索の意志の前に、世界の果てといえども身を潜める事はかなわず。彼のものの目的の前に、時間も空間もその境界そのものを曲げ歪める。波の下の黒き石の回廊において、彼のものは暗闇の中、永劫の時間を潜み待つ。何故なら彼のものこそはグラーキ、湖に棲むもの、万物の支配者なれば。彼のものへのあらゆる賛美は与えられるべくして与えられるもの。おぉ、古ぶるしく恐ろしきもの、おぉ、グラーキ、氷のごとく冷たき星々の間より滴り落ちしものよ、我らを汝の意志に尽くさせ、ここに我らの生贄を受け入れよ。そしてこの文章に続いて、壁の下方の右隅に、何かある種の顔のように見える粗雑な絵が描かれていた。それは不快に膨れ上がった果肉状の頭部と、そこから長く突き出した光沢のない小さな目、輪郭のほとんど占めている薄い切り傷のような口を持っている。

 どう見ても馬鹿げた落書きのようなこの絵は、しかしロジャーの心を奥深くまでかき乱した。彼は廃屋から外に出ると心を落ち着かせ、自分の見たものについての考えを整理しようとした。あの絵も文章も、人類の愚行の歴史において現れては消えていった、幾多の原始宗教の盲目的崇拝物の一つだと考えれば、特に驚くべき事ではない。ここには湖に棲むという気味の悪い神を崇拝し、何も知らない人々をおびき寄せて生贄に捧げていた教団が存在していた。その司祭達は、自分達も生贄も神自身によって選び出されたのだと考えている。確かに極めて病的だが、ただそれだけの事で、原始宗教や呪物崇拝においては普通にあり得るし、全ては教団の解散によって過去のものとなったのだ。しかしそのように結論づけても、あの絵と文章が彼の心に与える影響力は、なかなか払拭されなかった。

 ともあれロジャーは既に、今晩は屋外ではなく、この三番目の家の中で一夜を過ごすという決心を固めていた。そしてその前に、かつて湖だった窪地の周囲を何周か歩いてみる事にする。その結果、このクレーターは周囲が三分の一マイル、湖底までの傾斜はどの地点から見ても一様で、泥と雑草ばかりの特徴の無い湖底の中心部分は深さがおよそ六十から七十フィートある事が分かった。湖には湧き水は存在せず、かつてあったその種の水源も、既に塞がれてしまっている事は明白だった。何故なら湖は今やカラカラに干上がっていたからである。こうして観察してみると、確かにここは普通の湖というよりも隕石によって生じたクレーターのように見える。

 散策の結果からさまざまな事を考察しながら、ロジャーは日が落ちるのを待った。窪地の底がすっかり陰に隠れてしまうと、彼は再び焚き火の横で軽い夕食を取り、荷物を廃屋の中へと移し始めた。ちょうどその時、遠雷の音が空に響き始め、今にも雨が降り出しそうな雲行きになってきた。残日の微かな光を頼りに、彼は寝袋を居間だった場所の床に敷くと、懐中電灯を手近なところに置き、そして寝袋に潜り込んだ。

 やがてやって来た雷鳴と雨音によって目を覚まされるまで、ロジャーはほとんど眠りかけていた。彼は暗闇の中で目を開け、廃屋に吹きつける風と雨の音を聞いていたが、朽ちた屋根は幸いにもそれらに耐えているようだった。しかし彼の心には何かしらの不安感が残り続け、ついにロジャーは横になったまま懐中電灯を点けると、居間の壁にある文章を照らし出した。彼がこの誇大妄想の産物について思いをめぐらせているうちに、雷雲は雨を伴って地平線の彼方に去り、湖の周囲には再び静寂が戻ってきた……いや、完全な静寂ではない。彼は耳を澄まし続けた。時折の突風が木々をざわめかせる中に、何か他の、説明のつかない音が聞こえてきたのだ。

 それは、水面を渡る波が岸辺に打ち寄せているかのような音だった。

 ロジャーは起き上がると懐中電灯を手に取り、この場所に残ろうと決めた自分自身に対して腹を立てながら、戸口の方へと向かった。廃屋の外に出てみると、夜空には月が、昨晩よりもなお明るく輝いている。そして何もないはずの湖底には、その月影がチラチラと瞬き揺らめいているのだった。水面を走る黒い波紋が、彼の足元の崩れかけた岸辺を洗っているのに気づき、彼は息を呑んだ。そこにあるはずのない水面へと近づき、月光の助けを借りて湖の中を覗き込む。

最初はただの暗闇のように見えたのだが、水の透明度が非常に高かったため、水面からだいたい五十フィートほど下にあるらしきものを、彼の目は見分ける事ができるようになった。それは巨大な漆黒の石のブロックが積み重ねられたかのように思われるものの輪郭で、あたかも玄武岩でできた塔の一群のようであり、硬い指先のように見えるその先端を水面近くまで延ばしているのだった。月光の元においてのみ現れる構築物、そのようなものは狂気の産物だ。その根元がどのくらいの深みにはまり込んでいるのか、彼には想像もつかない。だがそのような事に思いを巡らせる時間はなかった。何故なら、青白い泡のようなものが水中の石塔の間を横切ったかと思うと、より淡い色調の何かが水面のちょうど真下に浮き上がり、そこで波打ちだしたからである。それはまるで、湖底から湧き上がった軟泥がそのまま立ち昇ってくるかのようであった。

最初、自分が見ているものが何なのかという事を彼が理解できなかったのは、ひとえにそのものの本当の大きさのためだった。彼が、それが顔だという事を理解したのは、青白い果肉状のものが水面から数フィート上に浮かび上がってからである。長く突き出した、太くてかすかに震える数本の茎の先端に付いている、非常に小さく悪意に満ちた目、それらはかろうじてこのものが顔である事を示唆してはいるものの、そもそも直径が百フィートもある顔などあり得ないではないか。その口が、顔の全幅に走る無残な傷口のように開かれるさまは、頭部がまるで腐ったメロンのごとく二つに割れたかのようである。そしてそこから発せられた臭気は言語を絶するものだった。ロジャーは窒息しだす前にその場から逃げ出した。

湖のそばの空き地を後にして、木々の間を貫く道に跳び込むと、闇が彼を包み込んだ。彼はただ闇雲に逃走した。行く手に伸びていた木の枝で顔に擦り傷を作り、つまづいて転び、めまいを覚えて逃げる方向を見失いつつも起き上がり、走り出し、そしてまた転ぶ。そうする間に彼は心の片隅で、自分が分け入っている木々の上空、ちょうど真正面に輝いている月は、本当は彼の背後になければならないという事に気づいた。息を切らせながら、彼は後にしたはずの空き地へと駆け込んでいた。そして足の裏の丸石の感触が、彼の走りを止める。

どのみち、再び走り出すだけの猶予はもはやなかった。事態を理解し始め、抗し難い諦念の感覚に圧倒されながら、彼は丸石の上に座り込み、朽ちかけた家の壁に背を預けた。その顔は湖の方へ、その冷酷な意図をもって彼をここに引き寄せたに違いないものの方へと向けられている。そもそもどれほどの長きに渡って、微細かつ巧妙な影響の経路をたどり、あれは自分を引き寄せ続けていたのだろうか? 数週間? 数年間? それともこれまでの全生涯にわたって? だが、もはやそれを思い悩む必要はなかった。何故なら彼の目の前の存在が、彼にとっての全世界にして全生涯となるからであった。彼の視界を埋め尽くすように、青白く膨れ上がったキノコのような顔が黒い湖水の上に浮かび上がると、光沢のない小さな目が彼の方へと向けられ、悪臭を放つ口を月光の元で繰り返し開いては閉じながら、次第に近づいてくる。ロジャーは両手を握り合わせて目を閉じ、深く息を吸い込むと、今やただそれを待っていた。


要約者による雑感

2008/10/29

この短編は、新紀元社“エンサイクロペディア・クトゥルフ”の「グラーキ」の項における「消えた人々を探して湖の水が抜かれたが、都市の跡も神そのものも見つけられなかった。」という記述の原典だと思われます。作者であるドナルド・R・バーリスンの邦訳作品には、短編「点を結ぶ」(青心社のアニオロフスキ編「ラヴクラフトの世界」収録)「トランシーバー」(新潮社・新潮文庫「幽霊世界」収録)があります。また「定本ラヴクラフト全集」(国書刊行会)の第8巻に「禅とラヴクラフトの芸術」、第9巻に「恐怖の陰に潜むユーモア」という評論が収録されています。

グラーキは原作である「湖の住人」のもたらす強い印象から、湖という地形と分かち難く結ばれています。本来このグレート・オールド・ワンは、クトゥルフと同じくらい「水」とは何の関係も無いように思われるのですが……。しかし既存のシナリオやリプレイでは、グラーキがその本拠地以外の場所に顕現する際に湖が用意されていましたし、やはりそうでなくてはグラーキらしさに欠けるのでしょう。とはいえ、これではグラーキを出すシナリオの舞台設定が限られてしまいますし、湖の存在を告げただけでプレイヤーにネタが見透かされてしまう可能性もあります。

そんな時に、この「幽霊湖」の「湖の幽霊」という仕掛けは有用だと思われます。シナリオの時点において舞台となる場所がたとえ大都会の真ん中であろうとも、かつてそこに「グラーキの顕現できる湖」があったという設定にすれば、「湖の幽霊」を甦らせてそこにグラーキを招来する事ができるのですから。幽霊である以上、湖の出現する時間は夜間の方が自然かもしれませんが、グレート・オールド・ワンが顕現する時には快晴の空が一転にわかに掻き曇り、あたりが闇夜のごとく暗黒の帳に覆われるのもまた自然な事でしょう。「グラーキの招来」呪文以外に、「湖の幽霊」を甦らせるための呪文や儀式、あるいは短編中で印象的に描写されている「月の光」等の環境条件が必要になるのかについては、各キーパーの判断で……。ちなみに「大凡々屋」ネフレン=カこと竹岡啓氏の情報によりますと、“デルタグリーン”のサプリメント“フェイト”の「新しい呪文」の章には、大量の生贄を串刺しの形で湖に捧げる事により、そこをグラーキの恒久的な拠点にしてしまう呪文が載っているそうです(呪文の名称はこれもまた「グラーキの招来」となっていますが、その性質は基本ルールブックの「ハスターの解放」に似ていると思われます)。

ただ、この短編自体は他の小説やシナリオとの間で、設定の整合性に問題があります。「幽霊湖」は1995年の作品ですが、作中には時代設定を明示している描写はありません。1960年が舞台の「湖の住人」の後日譚である事を考えると、それから90年代までの間に設定されていると思われますが、かつてカートライトが住んでいた家が崩れかけた廃屋となっているという描写を考慮すると、少なくとも十年単位の年月が経過しているのではないかと推測されます。この推測を元に他の小説やシナリオ等との間で時系列を整理していくと、以下のような齟齬が見出されるのです。

この短編について他に押さえておく要点は、以下のものでしょうか。これらについては後日、さらに追記するかもしれません。


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