1 開国と幕府の滅亡
1-列強の接近など開国までの動き
林子平『開国兵談』『三国通覧図説』 工藤平助『赤蝦夷風説考』
→海防の必要性を説いたが、寛政の改革で処罰。1792
●ロシア 1792 ラックスマン 根室へ
1804 レザノフ 長崎へ
→幕府は、通商を拒否した。
近藤重蔵・間宮林蔵の千島・樺太の探検
ゴローウニン事件をきっかけに関係改善。高田屋嘉兵衛
●イギリス 1808 フェートン号事件
*1
↓
1806年の文化の撫恤令を改め、1825
異国船打払令(無二念打払令)
↓
1837
モリソン号事件*2
渡辺崋山『慎機論』 高野長英『戊戌夢物語』 →1839
蛮社の獄
*1 フェートン号事件
1808年、イギリスの軍艦フェートン号がオランダ船捕獲の目的で長崎湾内に侵入、浸水・食料を強奪して退去した事件。ナポレオン戦争でオランダはフランスの属国となったため、敵対関係にあった。
*2 モリソン号事件
1837年、漂流人民変換と通商交渉のため来航した米船モリソン号が、相模の浦賀と薩摩の山川で異国船打払令のため撃退された事件。
2-開国
1842 薪水給与令→異国船打払令緩和←水野忠邦、アヘン戦争(1840〜42)によるイギリスの脅威
1844 オランダ国王の開国勧言(ウィレム2世)
1846 米 ビッドル 浦賀へ
1853 米 ペリー来航(浦賀)サスケハナ号 『日本遠征記』←米大統領12代フィルモア
太平洋捕鯨の寄港地・中国貿易の中継地として、日本の開国を求めた。
「泰平の眠りをさます 上喜撰(蒸気船) たった四はい(四隻)で 夜もねむれず」
露 プゥチャーチン 長崎へ
1854 日米和親条約 林・ペリー(イギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を結んだ)
下田・箱館(函館)の開港、燃料、食糧の供給を認める。最恵国待遇
*に特色。
ハリス アメリカ総領事として来日。
* 最恵国待遇
他国に有利な条件を与えると、締結国もこれに準じて条項を改正し得る権利。
和親条約では日本側だけが一方的にこれを強制され、通商条約に引き継がれた。
このころ、阿部正弘による安政の改革。前水戸藩主徳川斉昭や越前藩主の松永慶永、薩摩藩主の島津斉彬らの幕政参与を求め、雄藩との連携を強化しようとした。
1858 日米修好通商条約
オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んだ(安政の五ヵ国条約)。
大老
井伊直弼とハリスの間で調印。c.f.井上清直 岩瀬忠震
●箱館(函館)・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の開港。
●アメリカに
領事裁判権*1を認める。
日本の関税は協定関税とする。日本に
関税自主権*2はない。
不平等条約
*1 領事裁判権
在留外国人の裁判は、その国の領事(外交官)が行うという権利。一種の治外法権である。
*2 関税自主権
自国の関税率を自主的に規定できる国家的権利。
c.f.新見正興 勝海舟(義邦) 咸臨丸
3
●将軍継嗣問題
一橋派 徳川(一橋)慶喜 松平慶永・島津斉彬
南紀派 徳川慶福 →井伊直弼を大老にむかえ、14代家茂
●通商条約の違勅調印により、直弼への非難が高まる。
↓
1858〜59
安政の大獄→吉田松蔭(長州、松下村塾を経営)など、反対派を処刑。
1860
桜田門外の変→水戸の浪士ら、直弼を暗殺。
4-五品江戸廻送令
雑穀・水油・蝋・呉服・生糸の5品の開港地直送を禁じ、江戸問屋を経由することを発令。江戸の品不足解消・貿易統制を意図したが、諸外国・在郷商人の反対が強く、効果は少なかった。c.f.江戸の特権的な問屋商人への影響は?
5−公武合体運動→穏健、藩主・上級武士支持
尊王攘夷運動→急進的、下級武士支持
(1)
公武合体運動
●老中
安藤信正 久世広周
和宮降嫁→1862
坂下門外の変(失脚)
●薩摩
島津久光(文久の改革) *寺田屋事件(上京中)、生麦事件(帰途)
松平慶永(政事総裁職) 徳川慶喜(将軍後見職) 松平容保(京都守護職)
(2)
尊王攘夷運動
(●薩摩藩 生麦事件→報復
薩英戦争1863)
●長州藩 1863.5.10(攘夷決行日)
長州藩外国船砲撃事件
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しかし……
↓
薩摩・会津、長州藩勢力と急進派の公家三条実美らを京都から追放(
八月十八日の政変)。
1864
池田屋事件
禁門の変(蛤御門の変)久坂玄端
長州征討(第1次)
四国艦隊下関砲撃事件(長州藩外国船砲撃事件の報復)、
などなど、しだいに、攘夷の不可能なことが明らかになってくる。
(3) (武力)討幕派の動き
1863 天誅組の変 中山忠光←伴林光平、吉村寅太郎
生野の変 平野國臣→沢宣嘉
1864 天狗党の乱 藤田小四郎、武田耕雲斎
6-江戸幕府の滅亡
1866 長州征討(第2次)
薩長連合(同盟)*を組んでおり、奇兵隊の活躍などから、幕府軍敗れる。
*薩長連合(同盟)
1866年、京都で坂本竜馬・中岡慎太郎らの斡旋により薩摩の小松帯刀・西郷隆盛、長州の木戸孝允らが加盟。相互協力を約し、討幕の主力を形成した。
↓
武力討幕をめざし、朝廷内の岩倉具視らと結び、
討幕の密勅(1867.10.13〜14)を受ける。
●土佐藩
公武合体の線で独自の活動をしていた。c.f.武市端山 土佐勤皇党
坂本竜馬「船中八策」を後藤象二郎に示す。朝廷中心の大名会議が権力をもつ統一国家構想(公議政体。実質的には、将軍を議長とする列藩会議)。大政奉還のモデルとなった。
後藤、前藩主山内豊信に大政奉還を進言。
山内は、後藤を通じて慶喜に→
1867年10月24日大政奉還が実現。江戸幕府は滅亡した。(あくまで形式的なもののはずだった。しかし……)
↓
討幕派は、12月9日に政変を決行し、
王政復古の大号令を出す。
同日夜、
小御所会議→慶喜に辞官納地を要求。
↓
慶喜は大阪城に引き上げ、新政府と対立することになった。(これが「戊辰戦争」である)