2 明治維新の政治(明治時代 1868〜1912)
1867年、江戸幕府の15代将軍徳川
慶喜による「
大政奉還」
*1で、江戸幕府は滅びた。
明治天皇は、1867年、「王政復古の大号令」*2を出し、公家や幕府を倒した協力者を中心に新政府をつくった。翌1868年、新政府は新しい政治の基本方針を神に誓うという形で発表した。これを五箇条の御誓文と言う。
*1 大政奉還
公武合体派の土佐藩主山内豊信の進言によってなされた。このモデルとなったのは龍馬の「船中八策」で、慶喜は天皇を長とする列候会議(大名会議)で主導権をにぎろうと企てたのである。
*2 王政復古の大号令
大政奉還によって、公武合体派の政権ができることを警戒した(武力)討幕派のクーデター。
【資料】
@五箇条の御誓文(1868.3.14)
公議世論(国民の意見)の尊重と開国和親。
一(1)、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
(国の政治は公議世論(国民の意見)によって行うべきである。★公議世論の尊重)
一(4)、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
(昔からの悪習である攘夷運動をやめて、世界共通の正しい道理である国際法に基づくべきである。★開国和親)
A五榜の掲示(1868.3.15)
一揆(徒党・強訴・逃散)の禁止、キリスト教の禁止など、旧幕府の民衆統制を継承。
【学習】
五箇条のご誓文と五榜の掲示は、対照的な内容であることに注意しましょう。
1−藩をやめて県を置く
(1) 版籍奉還(1869)
諸藩主が土地(版図)と人民(戸籍)を返上した改革。大久保利通・木戸孝允らが建議。薩長土肥4藩主が奉還を出願し、他藩主もこれにならった。
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旧大名が実質的に温存(知藩事として任命)され、租税と軍事の両権はこれまで通り各藩に所属。
↓
(2) 廃藩置県(1871)
藩をやめて県を置き(版籍奉還後も府・県・藩の3治制だった)、中央から府知事・県令を任命。薩長土3藩から御親兵を集めて強行された。
【学習】
これらの改革も王政復古の大号令に続く(武力)討幕派のクーデターであり、これにより薩長土肥の藩閥政治が始まったのです。この後、明治十四年の政変(大隈重信を罷免)や政府ペースの憲法制定などにより、藩閥政治は確立していくことになります。
2−四民(士農工商)平等 1871年の「身分解放令」
江戸時代の士農工商という身分制度を廃止。国民はすべて名字を名乗り、居住や職業を自由に選べるようになった。しかし、
華族(=公家や大名)・士族(・卒)(=武士)・平民の区別をつくり、華族を特別扱い(華族令、貴族院議員を選出)するなど、まだ徹底されていなかった。
【学習】
江戸時代に制度化された差別制度である「えた・ひにん」は、1871年の身分解放令によって平民とされましたが、その後現在に至るまで差別が残存し、就職・結婚・居住などで不合理な差別を受けています。同和問題と国の対策について、調べてみましょう。 c.f.同和問題 全国水平社 植木徹誠
3−地租改正
1871年の「田畑勝手作許可」と1872年の「田畑永代売買解禁」
1873年の地租改正条例により、全国の土地の値段(地価)と所有者を決め、土地の値段の3%にあたる税を土地の所有者に現金で納めさせる(金納)ことにした。地租を金納することによって、豊凶に左右されない安定した財源を得ようとしたのである。
4−富国強兵・殖産興業
政府は早く欧米諸国に追いつくため、産業を盛んにして国を富ませ(富国)、強い兵隊(強兵)をつくろうとした。
(1) 徴兵令(1873)
満20歳以上の男子を兵籍に編入し軍隊につかせる法律。大村益次郎の提案、山県有朋が継承して実現した。
(2) 官営(模範)工場の設置
群馬の富岡製糸場など
5−初期の外交
●岩倉遣欧使節 条約改正の予備交渉(失敗)と欧米視察
●征韓論
朝鮮の鎖国排外政策を武力で打破し、国交を開くべきだという主張。西郷隆盛・板垣退助らが主張。朝鮮に出兵することで、士族の不満(明治に入ってから武士の特権は奪われた)を解消しようとしたのである。
【発展】条約改正とは?
日本は、開国当初、安政の五ヵ国条約といって、日米修好通商条約と同様の条約を、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと結びました。それには、@領事裁判権の付与A関税自主権の欠如という、2つの重大な欠陥(不平等で、日本が不利になる条件)がありました。以後、この改正は、政府の念願の事業となったのでした。
6−文明開化
福沢諭吉『学問のすゝめ』
3 議会政治の始まり(明治時代)
1−士族の反乱
明治に入って武士の特権に奪われ、士族たちは不満をもった。彼らの不満も
西南戦争(1877)(翌年紀尾井坂の変)を機に、
自由民権運動に吸収されていった(武力での反乱をあきらめた)。
●西南戦争(西南の役)
朝鮮問題(征韓論)で政府を去り、郷里の鹿児島で私学校を開いていた西郷隆盛は、1877(明治10)年、私学校生徒や士族におしたてられて反乱を起こした。これが西南戦争で、最大の士族の反乱であった。
2−自由民権運動
明治前期、政府に対して民主主義改革を要求した。
1874年板垣退助らは政府(左院=帝国議会が開かれるまでの立法機関)に「
民選議員設立の建白書(意見書)」を出した。これは、
藩閥政府に反対し、議会(国会)開設を要求したものである。これによって、自由民権運動の口火が切られた。政府は、1881年、
10年後には国会を開くと約束した(
国会開設の詔)。
【発展】
国会開設の詔勅が出される直前に、国会開設や憲法制定について急進的な意見を述べて伊藤博文らと対立していた参議の大隈重信が、開拓史官有物払下げ事件*を機に罷免されました(明治十四年の政変)。これによって、伊藤らを中心とする薩長派の政権が確立し、日本は、君権のきわめて強い立憲君主制(憲法に従って君主(日本では天皇)が政治を行う政治体制)の道を目指すことになったのです。
* 開拓史官有物払下げ事件
1881年、北海道開拓史所属の官有物を、長官黒田清隆は、非常な安値で五代友厚らの関西貿易社に払い下げようとして問題になった。これを機に自由民権運動が盛り上がり、大隈のクーデターを心配する伊藤らが政変を起こした。
国会を開く時期が明らかになったので、
板垣退助は自由党(フランス流急進論)、
大隈重信は立憲改進党(イギリス流の穏健な立憲主義)をつくって、新しい政治の準備につとめた。
3−憲法の制定
(1) 立憲政治(憲法による政治)に備えて、国は行政の整備を行った。
●華族令 貴族院議員選出のため
●内閣制度 初代総理 伊藤博文
(2) 憲法制定
明治十四年の政変の際、政府は、天皇と政府の権限の強い憲法を作ることを目指した。1887年には、保安条例を出し、危険人物(急進論者のこと)を首都から退去させて政府ペースの憲法制定を進めた。
国会を開くと約束した政府は、伊藤博文をヨーロッパに送って各国の憲法を調査させた。伊藤は皇帝の権力の強いプロシア(ドイツ)の憲法を学んで帰国し、憲法の作成にあたった。
大日本帝国憲法は、1889年発布、翌年施行された。
4−初期議会
1890年、最初の総選挙が行われた。有権者は、国民のわずか1.1%にすぎなかった。これは選挙権が様々に制限されていたからである(この選挙では、
選挙資格は、25歳以上で直接国税15円以上の納付者に限られていた)。
結果は、自由民権派の野党(民党)が与党(吏党)を上回った。このため、黒田清隆首相らは「超然主義(政府は政党に対して無関係な態度をとるべきだという考え方)」をとなえたのである。
第一回帝国議会が開かれた。
4 日清・日露戦争(明治時代)
1−日清戦争(1894〜95)
1894 朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争)という内乱が起きた。
↓
日清両国の出兵によって鎮圧したが、その後、朝鮮の内政改革をめぐって両国は対立。
↓
日清戦争(〜95)
講和条約→
下関条約・・・・・日本は
遼東(リャオトン)半島や
賠償金*を得た。
* 日本は、この賠償金で
八幡製鉄所をつくるなど、軍事産業をさかんにした。
↓
●
三国干渉
南下政策をとっていた
ロシアは、ドイツ・フランスをさそい、日本に遼東半島を返還するように要求。→日本は要求を受け入れる。・・・・・
日露戦争の伏線に!
2−日露戦争(1904〜05)
義和団の乱(1899〜1900) 列強の中国進出に対して起こった民衆の反乱。
↓
北清事変(1900)
義和団の乱に対する欧米・日本8ヵ国連合軍による鎮圧戦争。このとき、ロシアが鎮圧目的で満州(1898年から三国干渉で日本が中国に返還した遼東半島も租借(この場合は、植民地的支配)していた)へ進出、乱後も占領を続けた。(→日露戦争の原因 日本は朝鮮を足場に満州への進出を考えていたから)
↓
日露戦争(1904〜05)
講和条約→
ポーツマス条約・・・・・アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって実現。樺太の南半分と南満州鉄道を得る。
※韓国併合
1910年、日韓併合条約によって韓国を日本の領土の一部とし、植民地支配を開始した。
c.f.柳宗悦『朝鮮とその芸術』
5 条約改正(明治時代)
日米修好通商条約をはじめとする安政の五ヵ国条約の不平等な内容の改正が目的。
→
領事裁判権(=治外法権の一種)の撤廃と関税自主権の回復
◇
領事裁判権の撤廃(1894)→日清戦争の直前、
陸奥宗光*外相がイギリスとの交渉に成功。(日英通商航海条約)
c.f.ノルマントン号事件
1886年、英貨物船ノルマントン号が紀伊半島沖で難破の際、英人船長ら乗組員は脱出。日本人船客23名は全員溺死。領事裁判で船長は無罪となり、国民は憤激。法権回復の必要を痛感した。
◇
関税自主権の回復(1911)→
小村寿太郎*外相がアメリカとの交渉に成功(日米通商航海条約)
→条約改正には、明治全期を要した。
* それぞれ、
日清・
日露講和条約のときの日本全権。
※資本主義の発達と近代文化(明治時代)
●八幡製鉄所→日清戦争の賠償金によって、1910年創設。軍備拡張・製鉄業振興政策による官営製鉄所。現在の北九州工業地帯の起源となる。
●財閥→ 三井財閥←立憲政友会(自由党系)
三菱財閥(岩崎弥太郎、三菱会社)←立憲同志会・憲政会・立憲民政党(立憲改進党系)
●足尾(銅山)鉱毒事件 田中正造
●与謝野晶子
「君死にたまふことなかれ−旅順口包囲軍の中にある弟を嘆きて−」(日露戦争の反戦歌)
6 第一次世界大戦(1914〜18)と日本(大正時代)
同盟国 ドイツ・オーストリア(・イタリア(連合国側で参戦)) 三国同盟
連合国 ロシア・フランス・露仏同盟(+イギリス=三国協商)
1914年、ヨーロッパの領土争いから戦争となる。
日本は、日英同盟を理由に連合国側に立って参戦。国内は大戦景気でわいたが、国民の生活は苦しかった。1918(大正7)年、富山県の主婦が米屋をおそったのをきっかけに、全国に米騒動が起こった。
1918年、休戦。ベルサイユ条約。
1920年、アメリカ大統領ウィルソンの提唱によって、
国際連盟(注 国際連合)が創設された。
※大戦後の日本の動き
1918年、政友会総裁の原敬が内閣総理大臣になり、はじめて本格的な政党内閣が成立した。(注 はじめての政党内閣=第一次大隈内閣 憲政会)
東京大学教授吉野作造は、民本主義を唱えて、人々に大きな影響を与えた。
「税金の額に関係なくみんなに選挙権を与えよ」という声が高まり、尾崎行雄・犬養毅らの熱心な運動(普通選挙運動)で、1925(大正14)年、満25歳以上の男子(女子に選挙権が与えられたのは、1945年)すべてに選挙権を与えるという普通選挙法が成立した。
【発展】吉野作造の民本主義
彼の民本主義とは、大日本帝国憲法による立憲君主制と政党内閣制を主張したものでした。つまり、主権は天皇にある(主権在君)のもとで民衆の政治参加を主張したもので、その手段として、普通選挙制(納税額などに制限されず、みんなが選挙権を持つこと)と政党内閣制の実現を主張したのです。現在の日本のように、国民主権(主権在民)を基本とする「民主主義」とはちがうことに注意しましょう。
7 第二次世界大戦と日本 軍国主義への道(昭和時代)
第一次世界大戦後、世界的な不景気が起こった。国民生活は苦しくなり、政府への不満が高まったが、このことが軍人の政治介入の引き金となったのである。五・一五事件や二・二六事件を通して、軍部の力はいっそう強まった。
(1) 満州事変
日本軍は、1931(昭和6)年、奉天(今のシェンヤン)郊外の南満州鉄道を爆破し(南満州鉄道爆破事件、柳条湖事件)、中国軍のしわざという口実で戦いを始め、満州を占領した。
国際連盟は調査団(リットン調査団)をつくって満州事変を調べ、満州国の成立は不正であるとしたので、日本は国際連盟を脱退した。
(2) 日中戦争
日本軍は中国北部を侵略し、中国軍と衝突(廬溝橋事件)。アメリカ・イギリスなども中国を援助したので、戦いは長期戦となった。
この戦争中の1937年12月、日本軍が南京を占領したときに引き起こしたのが
南京大虐殺(南京事件)である。日本軍は中国の人々に暴行を加えて金品を奪った。死者は数万〜20万人と言われている。
1939年、第二次世界大戦が始まった。
1941年10月、東条英機内閣成立。12月8日、ハワイの真珠湾を日本が奇襲。日本はアメリカ・イギリスに宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。
1945年8月、広島と長崎に原子力爆弾(原爆)が投下され、さらに日ソ中立条約が失効していないはずのソ連まで参戦した。日本は、8月14日ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。8月15日に終戦し、その日は、現在の「終戦記念日」となっている。
8 戦後の民主化と独立