前橋散策

 関東平野と上信越の山々との境目に前橋の町がある。町の
西側を日本一の水量を誇る利根川が流れ、市街地の中央を
広瀬川がゆったりと流れる。
 県庁裏の利根川に出ると赤城山、榛名山、浅間山などがダ
イナミックに眺められ、利根の大河とともにスケールの大きい
自然を楽しめる。冬になると雪化粧をした谷川岳はじめ上越の
山々も見える。関東の県庁所在地で最も雄大な自然を感じら
れる町だ。
 JR前橋駅からはケヤキ並木が市街地まで続き、仙台や金沢に似た風情がある。県庁
周辺の老松、前橋公園の桜、広瀬川沿いの柳並木・・・・・とても緑が多く散策にはいい
町だ。
 市街の南、現在の前橋駅は高架式の何の特徴もない駅舎だが、10年程前までは昭和
初期の洋風造りで、正面の幾何学的な半円形が特徴の駅舎が使われていた。今にして
思うと格調高かった駅舎が懐かしい。夜はライトアップされる昭和初期の旧県庁や群馬会
館など大切に保存してもらいたいと思う。
 同じ群馬の都市でも高崎は交通の要衝にあり賑わいがあるのに対し、前橋は県庁所在
地でありながらマイナーである。まるでかつての浦和のような存在。しかし、明治の初期に
は製糸業が盛んで、横浜からの海外への輸出品のトップとして「前橋」ブランドのシルクと
して売り出されていたらしく、前橋商人は景気が良かった。現在も横浜関内の駅前に群馬
銀行があることからも、過去の栄光に思いを馳せてしまう。
 前橋は歴史的にも武田信玄と上杉謙信が領有争いをした土地であり、江戸に入ると徳川
四天王の一角である酒井家15万石の城下町だった。譜代大名の中でも名門中の名門で
特に酒井忠清は四代将軍家綱の時代に、将軍に次ぐ位である大老となり「下馬将軍」と呼
ばれる程の権勢を誇った。酒井家の江戸上屋敷も現在の皇居前、丸の内消防署や三井
物産の辺りの一等地にあった。正に江戸城大手門前。
 ちなみに前橋には「下馬将軍」という銘菓もあるが、政争で失脚し末路は哀れであった下馬
将軍は前橋でもマイナーな存在。
 上信越の山々が関東平野に開ける境目の地形であるため、夏は北関東特有の猛暑と激し
雷が襲い、冬は厳しい空っ風が赤城山、榛名山から吹き降ろす。自然の変化に富んだこの町
から、詩人萩原朔太郎、コピーライター糸井重里、映画監督小栗康平など多くの文化人が生ま
れている。
 かつて僕の知人は、広瀬川の流れを見つめながら「とても歩きたくなる町。気持ちがいい・・・」
と言って僕に笑顔を向けた。前橋の町は、優しさと心を豊かにするものを与えてくれるのかも
しれない・・・・・・。
                                              2001/10

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かつて飛行機の町(太田)

前橋公園

文学館前の萩原朔太郎像

朔太郎が愛した広瀬川の辺にある。

群馬県庁舎

平成になり県庁も近代的なビルに改装した。
手前がレトロな旧庁舎で、群馬会館とともに
夜はライト・アップされます。
 前橋(厩橋)城の本丸跡でもあり、周りに
土塁や古い松の大木が残ります。

つつじと宇宙飛行士 館林
太田金山を散策

朔太郎生誕の地(前橋市千代田町)

明治19年(1886)、開業医に生まれる。
明治39年(1906)、旧制前橋中学卒。
 第五高等学校(熊本)、第六高等学校
 (岡山)、慶応義塾を中退。
大正元年(1912)、東京放浪生活。
大正 2年(1912)、文学を志す。生涯に
 わたる室生犀星との出逢い。
大正 6年(1917)、「月に吠える」
大正12年(1923)、「青猫」
昭和 8年(1933)、東京都世田谷に自ら
 設計の家が完成。
昭和17年(1942)5月11日、肺炎のため
 自宅で永眠。
 

廣瀬川

廣瀬川白く流れたり
時さればみな幻想は消えゆかん
われの生涯(らいふ)を釣らんとして
過去の日川辺に糸をたれしが
ああかの幸福は遠きにすぎさり
ちいさき魚は眼にもとまらず

武田信玄の旅

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