ふたつめの今

 桜がそろそろ満開を迎えようとしている。

 夜の闇にやや隠されているものの、この寮の周りはすでに一面のピンクの海だ。窓を開けて微風に髪をなぶらせていると、甘い香りが漂って来るような気さえする。
 ざわ、と枝たちが一瞬だけハーモニーを奏でた。目を細めてその余韻に浸る。そんな自らの行動に、自分が感傷的な気分になっている事実を思い知らされて、千堂瞳は薄く微笑んだ。

 春は別れの季節。学生達は大人達よりも、それを強く意識させられる。昨日は瞳の風芽丘卒業の日だった。
 友達との別れ。後輩達との別れ。昨日だけで自分は、何度涙を零しただろう。悲しい涙ではなく寂しい涙を。
 昨夜は一晩「彼」と一緒に過ごした。その温もりが寂しさを大きく埋めてくれはしたものの、卒業によってあの子と会う時間もまた少なくなる。やっぱり寂しい。

 そして今日はこのさざなみ寮にお邪魔している。耕介が作ってくれた卒業祝いの料理を十分に堪能させてもらって、今晩は薫と一緒に一夜を明かす予定だ。別の友人ならアルコールも入ろうかというシチュエーションだが、相手が薫ではそんな事にはなるまい。

「薫ー、瞳ー。いるか?」
 部屋の扉がノックされると同時に、その向こうから声。もともと大きいその声は、時間帯を考えてか抑えられている。
「入って。薫は今お風呂に行ってるわ」
 返事を受けて扉が開き、お盆を捧げ持った大柄な男が部屋に入って来た。無論この寮の管理人、槙原耕介である。
 薫が愛用している、桧(ひのき)で誂(あつら)えられた四つ足の低い机の上に、二人分のお茶が置かれる。小さな籠にはお茶請けも用意されていた。
「あ、ごめんね。気を使わせちゃって」
「一応お客さんだからな。一緒に入らなかったのか? 風呂」
「そんな事ではしゃぐ歳でも、性格でもないわよ、わたし達は」
 そこまで言って、そんな性格の持ち主がこの寮では少数派である事を思い出し、微かに苦笑する。
「ま、それもそうか……ところで」
「うん?」
「改めて、卒業おめでとう、瞳」
「あら、ありがとう。なんだか随分と神妙な挨拶ね。耕ちゃんらしくもない」
「お前なあ、幼馴染のあたたかい祝辞なんだから、素直に受け取れよな」
「はいはい。ありがとうございます」
 表面上は笑って答える。しかしその表情ほど、内心は穏やかではなかった。

 長崎の地で幼馴染だった二人は、ゆっくりと恋人となり、その後瞳の親の転勤の都合で引き離されて、昨年この海鳴で再会を果たした。いっときは関係を元に戻そうとお互いに努力もしたが、結局今は再び幼馴染の関係に戻っている。
 いろいろあったが、今はただの幼馴染。そしてお互い、「ずっと一緒にいたいひと」を別々に見つけている。
 もうあの頃には戻らない。それは二人で決めた事で、後悔も迷いもない。ただ、昔の二人に戻れるという保証では、それは必ずしもなかった。実際二人だけでこうして話すのは、いつ以来の事だったか。

「いただきます」
 もやもやとした想いを振り払い、瞳は机の前に正座して湯飲みを手に取った。軽く冷ましてから音を立てずに啜る。
 軽く息をついてその手を戻した時、自分を見つめる耕介の視線に気付いた。いつの間にか正面に座っていた。
 首をちょっと傾げてその顔を見返す。久しく見ていなかった真剣な眼差しがそこにはあった。
「?」
「……瞳」
 意を決したというより瞳の表情に促されて、耕介は言葉を搾り出す。
「……いま……幸せか?」
「うん」
 反射的に答えた。そしてそれが本心からの言葉であると、自分でも内心で確認する。
 すれ違ってしまった目の前の男。新しく見つけたかけがえのないあの子。比べる事などしないが、今の自分は確かに「あの子」を愛している。
「耕ちゃんこそ、薫をちゃんと大事にしてるんでしょうね」
「あ、当たり前だ」
 意外と言うか何と言うか、耕介の今の相手は薫だった。一体どっちがどうやって告白したのかと、「元・当事者」ながら不思議に思う。
「わたしとは違って、薫は一度の人生で二人も愛せるほど器用じゃないんだからね。万が一捨てたりしたら……今度は本気で投げるわよ」
「分かってるって。ていうかお前、あの時も本気だっただろうが」
「あら、あの頃の本気と今の本気、どっちが危険だと思ってるの?」
「……今度は再起不能まで持って行かれそうだな……」
「ふふふ」
「ま、そんな心配はいらないさ」
 やれやれと肩をすくめて、耕介は席を立つ。その表情はいつもの耕介のそれに戻っていた。
「じゃ、ごゆっくり」
「うん。明日の朝ごはんも楽しみにしてるわ」
「ああ。お休み」
 それだけ言って部屋を出て行く。ぱたんと小さく音を立てて扉が閉まった。

「なーんか、久し振り……」
 誰かとこういう気兼ねのないやり取りをしたのが、である。
 学校では「先輩」「主将」であり、家では「孫」で「妹」だ。そしてあの子の前では「姉」であり「恋人」。どれも素の自分ではない気がする。
 あの子に壁を作りたくはない。けれどどうもそれがうまく出来ていない気がする。そのわだかまりは最近ずっと瞳の頭を悩ませていた。しかし素直にそれが出来るほど、瞳も子供ではないのだ。
 不器用さでは、実は親友の薫に引けを取っていなかった。

◆◇◆

「さて、そろそろ寝ようか。明日の朝も早いし」
 薫と入れ替わりでお風呂を頂き、ひとしきり歓談に興じて、積もる話と積もるお菓子がなくなった頃、薫がそう切り出した。
「そうね」
 二人とも、もう学校に行くために早起きをする必要はない身分である。しかし薫は早朝の鍛錬が子供の頃からの日課だし、瞳もそれに付き合って軽くトレーニングをするつもりでいた。護身道で進学を決めた手前、そうそう体をなまらせておくわけにもいかない。
 春の夜。暖房が必要なほどではないが、夜着一枚ではやや肌寒い。その上に薫から借りたどてらを羽織るという、若干乙女らしからぬ恰好でお喋りに興じていた瞳だが、それを脱いで立ち上がると、薫が布団を敷き延べるのを手伝った。
 もちろん布団は二組である。一緒の布団で寝ようなどという歳でも性格でも、この二人はやはりない。

 各々布団に潜り込んだ所で、薫の手が部屋の灯りを消した。そして光の量を調節出来る、枕元の読書灯のスイッチを入れる。あまり光は強くしない。
「まあ、話をしたかったらして、眠くなったら寝よう」
「ええ」
 瞳はそう返したが、まだ眠るつもりはなかった。先ほどまでの会話の中では、意図的に避けていた話題があったからである。卒業というイベントがあったからか、先ほどまでの会話は、専ら風芽丘での思い出話に偏っていた。

 剣道部と護身道部の一員として、交流練習の中で二人が出会った事。お互いのさばけた性格が気に入って友達付き合いを始めたものの、それぞれにいろいろなものを抱えているため、一緒に休日に遊びに出掛けたりはほとんどしなかった事。瞳が護身道で全国を制した時の事。薫が十六夜とともに戦っている事を、初めて瞳に打ち明けた時の事……。
 神咲の名前で呼ばれるとどうも緊張するからと、薫は瞳に、自分を「薫」と下の名前で呼んでくれるように頼んだ。神咲という名が背負っているものはそれほどに重いのだ。
 さらには、気恥ずかしいから自分の方は瞳とは呼べない、すまないが千堂と呼ぶがどうか許してくれと、そんな事まで真面目にお願いした。薫はそういう我が侭をひとに滅多に言わないから、そのお願いこそが瞳を親友と認めた証なのだと、瞳はその少し後に知った。
 似ているようで似ていない。似ていないようで似ている。そんな程良い距離感が、二人が親友として続いている原因かも知れない。

「ねえ、薫」
 瞳は視線を天井に固定し、頭の中で先刻の会話を反芻しながら、いつもより少し大切に薫の名を呼ぶ。
「……うん?」
「耕ちゃんとは……うまく行ってる?」
「…………」
 用意していた話題をそっと切り出したが、即答はなかった。思わず薫の方を見てしまう。
「あ。ひょっとして、喧嘩中だったりした? だったらごめんなさい」
「いや、そんなんじゃなかよ。ただ、千堂がそういう話をするのって珍しいから」
 瞳は、相手が薫だからしないだけで、人並みにはそういう話もする。むしろ身内には彼氏の事を惚気倒すようなタイプなのだが、薫はそれを知らない。
「耕介さんは変わってなかよ。いつも、優しくしてくれとる」
 たったそれだけの台詞を言うのに、薫の頬が紅潮した事が、この暗がりの中でもはっきり見えた。

 純情で一途。典型的な大和撫子。そんな薫が愛しくもあるが――今の瞳には、何故か羨ましさも感じられた。妬ましさと言ってもいいかもしれない。そんな自分に内心で驚く。
 無垢は乙女の大事な一要素。自分が失ってしまったそれをいまだに持っている薫に、そんな汚い感情を抱いてしまう。そういう自分への自己嫌悪。
(わたしはあの子に「はじめて」をあげられなかったし……)
 その事実が心の裡で、罪の意識と呼べるまでに大きく成長している事に、瞳はやっと気付いた。あの時のあの子との会話が、光の速度で脳裏を駆けて行く。あの子は「そんな事気にしない」と言ってくれたが、自分の方はやはり気になってしまっていたのだ。
 その事で耕介を恨むつもりはもちろんない。しかしそれが自分の中で、あの子への壁になってしまっているのも事実である。耕介がさっき妙な間で「幸せか」などと尋ねて来たのだって、耕介側でもその事実が罪悪感となっている証ではないだろうか。
 言うべきなのだろうか。あの子に。「はじめて」の相手の事を。

「……千堂……?」
 突然黙り込んだ瞳を訝って、今度は薫が体の向きを変えた。二人の視線が交差し、瞳の意識があの子から薫に戻る。
 その時。ある事を口に出してしまいたいという、強い衝動が瞳を襲った。自分と耕介は知っていて、薫だけが知らないあの事実を。
 普段の瞳ならそんなプライベートな事は絶対に口にしないだろう。しかし今、瞳の心は不安に震えていた。この気持ちをどうしていいか分からない、出口が見つからない、そんな動揺が心のかんぬきをこじ開けようとしていた。
 瞳の中で、理性を司る天使と欲望を司る悪魔が、突発的な代理戦争を起こし――「あの子」の顔が脳裏にちらついた瞬間、悪魔が勝利を収めた。
 瞳は視線を逸らし、ついにダムを決壊させる。それは親友への甘えだったのかもしれない。

「耕ちゃんね……昔、恋人がいたの」
「…………」
 冗談、では済まされない口調で言ってしまった。言った事でブレーキが掛かった。
「ごめんね、こんな事言っちゃって。でも秘密にしておきたくなかったから」
 嘘である。薫と耕介の仲を思い遣っての発言ではない。あくまで自分のために訊いているのだと、今更ながらに自覚する。
 その恋人が誰だったか、関係がどこまで進んでいたか。天使が抵抗したのか、悪魔にそこまでは言わせなかった。
「薫なら、どう思うのかなって……」

 あの子と同様に、純粋なあなたなら。瞳は答えを欲していた。
 咎人が、神に救いの道への教えを乞うような表情だった。

◆◇◆

 質問で言葉を途切れさせた手前、瞳は薫から目を逸らせなかった。薫もまた瞳から目を逸らそうとしなかった。じっと何かを考え込んでいた。
 天使と悪魔が退場して、静寂を司る精霊がその場に魔法をかけた。彼はしばらくダンスを踊っていたが、じきに飽きたのか、魔法の効果がゆっくりと切れた。
 先に魔法のくびきを脱したのは――薫。

「……うちは駆け引きなど出来んから、言うてしまうが……」
「…………」
「その話、ずいぶん前に、耕介さんから聞いた」
「えっ!?」
 今度は大地の巨人が、地面にハンマーを打ち下ろした。
「うちはその……はじめて……だったけど、俺ははじめてじゃないからって言って耕介さんが……」
「…………」
 真っ赤な顔で説明する薫、大地の揺れが収まって精神的にへたり込む瞳。
 しかし、へたり込んでいる場合ではない事にすぐに気付く。
「あ、あの、その……相手の素性とかは」
「いや、さすがにそこまでは。長崎の人だろうから、うちは知らん人だろうし」
 その答えは瞳を再び脱力させた。思わず大きく溜息をついてしまう。まさかその相手が目の前の瞳だとは、薫はつゆほども思っていないようだった。

「そ、それで……どうしたの?」
 近所のおばさんの井戸端会議の会話のようだと、自分でも思わないでもない。それでも、瞳は訊かずにいられなかった。
 先ほどまでとは違う。別の理由で、瞳は答えを欲していた。
「どうしたって?」
 きょとんとする薫。
「た、例えば……耕ちゃんを問い詰めてやるなり、引っ叩いてやるなり、しなかったの?」
 もどかしげに言葉を継いだ。
 自分は何をこんなに焦っているのか。いくらなんでも今の自分はおかしい。瞳はそれをやっと冷静に自覚した。そして、その焦りの正体が見えて来た。
 耕介と自分の昔の仲の事が、薫に露見したわけではない。それなのにこの焦りは? ベクトルが耕介や薫でなく、多分「あの子」に向かっている焦りは……?

「せんよ、そんな事。浮気されたわけでもないのに。そんな事言うとったら、うちにだって男の友達くらいはいた」
 嫉妬だ。
 仮に「あの子」が、鷹城さんや野々村さんと「はじめて」を済ませていたりしたら、自分はあの子を許せただろうか。彼女達を許せただろうか。
 多分、無理だ。
 そんな風に考える自分が少数派だという事を、薫の台詞が今証明したのである。だからこそ逆に、自分が「はじめて」ではなかった事を、こんなにも気にしてしまっているのだろう。自分があの子の立場だったら、きっと耐え切れないから。
 自分の嫉妬深さが今、瞳にはありありと自覚出来たのだった。以前から姉や友人に指摘されていたし、自分でもそうではないかと薄々感じてはいたものの、ここまではっきりとした証拠を見せ付けられたのは今回が初めてだった。

 薫が、さらに瞳に追い討ちをかける。
「絶対に無い事だけど――もし仮に耕介さんが浮気したとしても、うちにはそれを止める権利はないと思うし」
「…………」
「一緒にいる、と約束はしてくれたけど。うちには耕介さんが離れていくのを引き止める術はないから……」
 自分には、絶対出来ない考え方だ。
「でも、過去や未来の事より、耕介さんは耕介さんの『今』をうちにくれとる。うちはそれでよか」
 しかし親友の、そして多くのものを背負ってきた薫が言う事だからこそ、瞳は素直に受け入れる気になっていた。
「……それが、ずっと一緒にいるために必要な考え方なのかも知れないわね……」

 相手に「完全」を求めない。一緒にいるのが当たり前だと思い込まない。そうすれば少々の困難は乗り越えていける。
 だから自分も、「はじめて」でなかった事を必要以上に気にするのはもう止めよう。その分自分の「今」を、すべてあの子に捧げればいい。
 後ろばかり振り向いているのは、千堂瞳の性格にはもともとそぐわないのだ。

◆◇◆

「それじゃあまたね、薫、耕ちゃん」

 翌日、寮の玄関先。
 朝食をみんなと共に頂いて、学校組が忙しく寮を出て行った後、瞳もお暇(いとま)する事になった。耕介と薫が並んで見送っている。
「おう、気をつけてな。またいつでも遊びに来いよ」

「…………」
 薫は無言だった。昨夜のあの会話のせいか、今朝起きてから、薫と瞳はあまり言葉を交わしていない。気恥ずかしいのだ。
 それでも表情は柔らかだった。自分も同じ表情をしている事には、瞳は気付いていない。それは秘密を共有する者の表情だった。

「……薫、幸せにね」
 気恥ずかしさを敢えて押し殺して、瞳の方からそんな事を言ったのは、昨日の会話への謝罪とお礼の意味が込められていたのかもしれない。
「……うん」
 薫の手がゆっくりと動いて、隣の耕介のそれをきゅっと掴む。耕介は一瞬戸惑ったが、すぐに握り返した。瞳はそれを見届けると、薄く微笑んだだけで何も言わずに踵を返した。

 目に飛び込んでくるのは、やはり鮮やかな桜。見慣れてはいても毎年新鮮な感動を与えてくれる春の使者。その下をゆっくりと歩いていく。
 太陽はあと二時間ほどで中天にさしかかるだろう。陽気が自分の体だけでなく、心まで温めてくれるような錯覚に包まれる。

(あの子、今日は授業午前中で終わりよね。こっちから電話……じゃなくて、校門まで迎えに行ってあげようかな)
 あの子は携帯を持っていない。電話は家にかける事になるが、ひょっとしたらまっすぐ帰って来ないかもしれない。そう思うと、何だか居ても立ってもいられなくなった。
 薫がさっきしてみせたように、自分もあの子と「今」を共有するために、自ら動く気になっていた。

 瞳は坂道を走り出す。
 迷いなく、あの子への想いだけを胸に秘めて。
 過去ではなく、未来でもなく。
 幸せな、今に向かって。


作者様の後書きへ

雅人の御礼へ

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