「イタリア映画祭2005」寸評

Dopo mezzanotte

真夜中を過ぎて

2004年
監督 ・脚本 : ダヴィデ・フェラーリオ
撮    影 : ダンテ・チェッキン
音    楽 : バンダ・イオニカ、ダニエレ・セーベ、ファビオ・バロヴェーロ



この感想文には、ネタバレが含まれています。


非常に残念なことに、私はこの作品の世界に、シンパシーも価値も見出せなかった。たとえ言葉も国籍も違っても、「ひと」として共感を覚えさせてくれる「普遍性」。私が映画を見続けてきたよりどころの一つには、それがあった。だが、舞台がかつて訪れて心から楽しんだトリノの「国立映画博物館」が舞台でも、私は『真夜中を過ぎて』から、「普遍性」を見出すことは出来なかった。もちろん、それは単に私とこの作品の間の問題であり、他の観客にもあてはまることではない−現に、イタリア映画祭の会場で、他の多くの観客が楽しんでいることは、伝わってきた。

この映画の主人公マルティーノ(ジョルジョ・パゾッティ)に欠けているのは、「コミュニュケーション」の意思である。周囲の人間達は、彼の言葉少なさに呆れている。マルティーノが好んで側にいるのは、祖父を始めとして、何も努力しなくても居心地よくいられる人物ばかり。トリノの国立映画博物館の夜勤の警備員として働く彼にとって、現実とは博物館に納められている古いフィルムの数々であり、8ミリカメラを通して見る世界である。

この設定は、それでよい。いかにも現代的な若い魂のあり方を描く映画と認めることも出来なくはないだろう。
しかし、私がこの映画に「ご都合」主義だといわざるを得ないのは、マルティーノの元に、アマンダ(フランチェスカ・イナウディ)という女性−「現実」が向こうから転がり込んできてくれることだ。しかもマルティーノが毎晩通うハンバーガーショップで働いていたアマンダは、もともと彼が想いを寄せていた女性。
こうして、さしたる苦労もせずに、マルティーノは憧れの人と結ばれる。(「電車男」だって、恋人を手に入れるために、もっと努力したと思うのだが…)

ちなみに、アマンダが「映画博物館」に逃げ込むきっかけとなったハンバーガーショップでの上司とのいさかいも、愚劣で不愉快なエピソードだった。彼女への告訴が取り下げれるという顛末も、なんとも主人公達に都合がよい。

終始イライラさせられたこの映画で一番面白かったのは、アマンダの元々の恋人で、車泥棒をなりわいとするチンピラのアンジェロ(ファビオ・トロイアーノ)の描かれ方だろう。どうしようもないダメ男なのだが、彼の妙に抜けた悪漢ぶりを見ると、この監督は、喜劇の才能はあるのではないかと思う。
ただし、アマンダを挟んでしばらく続くマルティーノ、アンジェロとの三角関係は、トリフォーの名画『突然炎のごとく』を意識したことは見え見えだが、この部分も冗長。無理して三人で行動するときの気まずさのリアリティだけは買えるが。


しかし、奇跡のように、この映画にも映画的な美しいシーンが訪れる。展開としては、ご都合主義の極地ではあるのだが、アンジェロがチンピラ仲間に射殺されることにより、最終的に三角関係に終止符が打たれる。死を悟り、最後の一服に火をつけたアンジェロの目に映る夜のトリノの街。アンジェロの視線となった歪んだカメラ・ワークは秀逸だった。彼の生涯の最後に目に入ったものが何か…これはネタバレしない方がよいだろう。
続くシーンで、早々と灰になってしまった彼の骨壷が、映画博物館=モーレ・アントネッリアーナ(トリノの象徴とも言える尖塔のある建造物。イタリアで一番高い建造物だった時代もあったという)の頂上から、墜落する映像も美しかった。博物館の薄暗がりの中で空しく塵となって飛び散る遺骨は、「映画」という虚構の世界のイメージだろうか。
火葬された遺骨というオブジェも、『突然炎のごとく』へのオマージュなのだろう。

以上の2場面のみが、私がこの作品に見出せた価値である。
かつてイタリア映画には、エットレ・スコラ『あんなに愛し合ったのに』ジュゼッペ・トルナトーレ『ニュー・シネマ・パラダイス』というイタリア戦後史と映画史を見事に重ね合わせた傑作があった。「映画おたく」である監督のナルシシズムという点では、『ニュー・シネマ・パラダイス』も『真夜中を過ぎて』と共通するのに、なぜ前者はあのような「普遍性」を持ちえたか。それはひとえにトルナトーレ監督が、その「職人芸」で、個人的な映画への思い入れを、万人共通の「感傷」に昇華させたからだと思う。一方、『真夜中を過ぎて』は、映画への思い入れが「自己満足」のまま完結してしまっている。
そればかりか−繰り返しの指摘で恐縮ではあるが−映画という「虚構」の世界に逃避している若者に、労せずして「現実」世界での幸福を与えるという都合のよい脚本が、どうにも私には気に入らなかったのである。

どうも、昨年の「イタリア映画祭」あたりから、製作者に都合のよい脚本が目立ってきたのだが、これは近年のイタリア映画の傾向なのだろうか?少ない本数では、単なるセレクションの問題であるかも知れず、断言できないが…(参考としては、管理人の「イタリア映画祭2004」のレビューのうちの『向かいの窓』『輝ける青春』をご参考ください。)

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2005年6月1日

「イタリア映画祭2005」公式サイト

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