"Omaggio a Franco Corelli" alla Teatro alla Scala
フランコ・コレッリ・インタビューU
Intervista con Franco Corelli U

マリオ・デル・モナコ、ジュゼッペ・ディ・ステーファノ

マリオ・デル・モナコと同世代のジュゼッペ・ディ・ステーファノの後に出て、あなたは「第三の男」と呼ばれるようになりましたね。

ディ・ステーファノの声は驚くべきものだった。暖かく汚れのない響きで、まるでビロードのようだった。いくつかの宗教的なロマンツァなど見事なものだったね。
だが、しばらくすると・・・あまりにも明白なことだが、彼はあまり勉強しなかった。煙草や葉巻を吸っていたし、夜遅くまで取り巻きたちと遊んで、無理を重ねていた。たとえ声が落ちても、彼には重要なことじゃなかったんだ。せっかくの宝を浪費してしまった。

あなたはデル・モナコのアリア集に入っているレオンカヴァッロの『ラ・ボエーム』の"La testa adorata"のレコードを擦り切れるほど聴いたそうですね。

これこそ賞賛に価するものだと声を大にして言いたいね。私はカルーソー、ペルティーレ、ラウリ−ヴォルピたちから何かを得ようと努めていた。デル・モナコはすべてを備えていた。声、美貌、完璧なプロフィール。舞台の上で彼は支配者として振舞っていた。『オテロ』は、至上空前の演技歌唱だった。
彼には十分な準備期間があって、15才から勉強を始めていた。私は始めるのが遅すぎたんだ。あるとき、シチリアーニの前で嘆いたものだった。
「僕はデル・モナコみたいな美声じゃないんです。」 「よく聞きなさい、コレッリ。」 マエストロが私にこう答えた。眉を吊り上げて、口をちょっとすぼめるいつもの癖をしながらね。 「確かにデル・モナコの方が君より美声だ。でも、君には彼にはない何かがある。」
私はあるアメリカの批評家のカルーソーについての批評を思い出した。「美しい声だ。だがその心は、声よりも大きく美しい」 私には、この心があった。それが正しく備わっていさえすれば・・・。
しかし、とにかくデル・モナコは大スターとして振る舞い、それが出来たし、実際そうだったんだ。

あなたは「オペラ界のマーロン・ブランド」と呼ばれて、いくつかの映像も残していますが。

とんでもない。デル・モナコは確かにスターだった。彼の姿、彼のフェラーリ…。私も車が好きで、大型でとても美しいアメリカ車を持っていたけれど、私はそれを恥じているんだ。人々は、私に言ったものだ。"フランコ、さあ、行けよ!"でも、私は徹底出来なかった。"被写体になること"すら出来なかったんだ。フラッシュをたかれると、目をむく始末で…。全然笑えなかった。私はとても臆病で内気で、逃げ回ってばかりいた。

武勇伝の数々

内気ですって!?ボリス・クリストフとのローマでの決闘はどうだったんです?ナポリで、剣を持って観客を追い回したことは?ヴェローナでの指揮者交代の件は?

オペラ座での『ドン・カルロ』のリハーサルのことはだね、クリストフがひじょうに礼儀知らずだったからだ。あれは、忘れもしない1958年1月だった。一幕で中断してしまったカラスとの『ノルマ』の3週間後だ。
クリストフは、フィリッポ゚二世役で、二手に分かれた民衆の間の高くなった平台の上で歌わなければいけなかったのだが、私が前方にいるのが嫌だというんだ。「聴衆から、私が見えなくなるだろう」って。冗談じゃない。私はそこから8メートルも離れていたんだ。彼の邪魔になどなってなかったはずだ。ダブル・キャストのテノール、マリオ・フィリッペスキは、演出家が決めた定位置にいたというのに。フィリッペスキは舞台のその位置にいてもよいのに、なんで私はいけないんだい?
「君は、そこからどくんだ」とクリストフは、端役の一人の剣を抜いて、私に向かって突き付けながら、わめいた。私はうっかりその刃を両手でつかんでしまったので、手が切れて少し血が出た。バス歌手は、その場から立ち去った。高名で一流のバスが、だ。残念なことだ。その8日後、劇場支配人と芸能記者を満足させるために、我々は握手をしたがね。

サン・カルロ劇場での『イル・トロヴァトーレ』の悶着は、それから5,6年後に起こったことだ。マンリーコとアズチェーナだけの場面の最後で、劇場中が沸いた。私はとても満足だった。最初のうちはうまくいってなかったのに、その喝采が前の不出来な部分を消し去ってくれそうだったから…。
ところが稲妻のような声が轟いた。「ブラーヴァ、フェードラ・バルヴィエーリ!お前なんか行っちまえ!」私に向けて発せられたその声は、脇の桟敷席の三番目の列にいた若い観客からで、しかも手で私を挑発するしぐさをしていたんだ。私は我を忘れた。私はその男を追いかけた。剣をドン、ドン、ドンって階段に響かせながら、私は桟敷席の廊下に出た。人々の間から、彼を探し出して、襟首をつかんでやった。支配人のディ・コスタンツォが駆けつけて、「こら、やめなさい!やめなさい!なんで君はやっかいを起こすんだ?私を破滅させんでくれ」
それで男を離して、一件落着さ。

アレーナでのことは、1961年の夏だった。スコットとシミオナートと共演した『カルメン』で、マエストロ・ファビアン・セヴィツキーが幾つかのフレーズを、意味もなしに、やたらと伸ばしたんだ。
私は言ってやった。「私は辞めます。さもなくば、彼が辞めるかです」
それで、指揮はモリナリ=プラデッリに変わった。私はベル・カントの名において、アーティストとして身を守った。それだけのことさ。


いくぶんかは大げさに語っているのだろう。なぜなら、この怒りに燃え、尊大になったという男は、舞台を離れれば、物静かで礼儀正しく、他人の忠告に耳を傾けることが出来るのだから。彼の出身地マルケ州の人間は、頑固で熱い血の持ち主だと言われている…。

不安や
間違えることへの恐怖もあったんだ。スカラ座のような大舞台では…。尊大にふるまうことが、尊敬されるためには必要だと思ったので。
デビュー当初の頃、私の声にはビブラートがかかっていたのだが、やっとのことでそれを取り去ることが出来た。とにかく勉強して、自分に気に入らない部分は、直すようにした。私は自分の音色を探求し、ごく微細な強弱のつけ方も学んだ。
そう、私は最大の成功を収められないのではないかと恐れて、『ローエングリン』のような作品は避けた。たとえ、セラフィンが「あなたが私があなたの声に恋してしまったように、あなたがこの音楽に恋することを望みます」と献辞の入ったスコアを私に贈ってくれたとしても。

実現しなかった『オテロ』全曲録音、偉大なる指揮者たち

そして『オテロ』は延期に延期を重ねて、直前になってキャンセルしてしまったんですね?

『オテロ』の夢は、ほとんど実現しかけていたんだ。『オテロ』に立ち向かうために、機が熟すのをを待っていたというのが、その意図だ。その時は、やってきていたと言ってよかった。ジョン・バルビローリ指揮、ミレッラ・フレーニ共演で、1965年に"His Masters Voice"に録音する予定だった。
それが半年前になって、私は「やらない」と言ってしまった。私の生涯の最大の過ちだ。何らかの興味深い結果に結びついていたことだったろうに。

他の指揮者では違っていたのでは?たとえば、ヴォットーなど…

そう、セシル・B・デミル演出によるニューヨークのメトロポリタン歌劇場のシーズン・オープニングで私が歌った『トゥーランドット』の時の、レオポルド・ストコフスキーの長く白いとても美しい手…。
いや、『オテロ』のキャンセルは、バリビローリが原因だったわけではない。指揮者達が、信頼してくれたのは、確かなことだ。彼らと共に、そして彼らのために、私はベッリーニの『海賊』、ドニゼッティの『ポリウート』、マイヤベーヤの『ユグノー教徒』をスカラ座で蘇演した。ヴォットー、グイ、セラフィン、一緒にこの部屋で、とても美しい『フェドーラ』と素晴らしい『イル・トロヴァトーレ』を創ったガヴァッツェーニのことを思い出すよ。おお、それから、テレビ番組用のコンサートで、デュエットの最後に、古風な節度のある人だったというのに、私に向かって投げキスをしたカール・ベームのことも。

ところで、ヘルベルト・フォン・カラヤンついては?

真に偉大な人だった。人々を陶酔させる"ピアニッシモ"を紡ぎ出していた。厳格で人を惹きつける人だったね。きびきびとして、エレガントで魅力的な立ち居ふるまいだった。手の動きがとても雄弁で。第一級の人物で、礼儀正しかった。
ザルツブルク音楽祭での『イル・トロヴァトーレ』で、ソプラノとバリトンとの第一幕の三重唱を練習していたときのことだ。何度も何度も練習を重ねた。三日間続けても、オーケストラに完璧にシンクロナイズさせることに神経をすり減らして、我々はこのシーンをうまくこなせなかった。そこは弦楽器のドラマテッィクな途絶えることのない流れの部分だった。4日目になって、私は勇気を奮って尋ねてみた。「マエストロ、いつになったら、ソロの練習に入るんですか?」と。彼は正しくスコアのそのページを開いて「安心しなさい。ここはただテンポをちょっと速くするよう気をつければいいのだから」と答えた。"Ah si, ben mio"のところで素晴らしいテンポを出してみせて、私にとってそれはとても有難いことだった。
唯一の問題は"Di quella pira l'orrendo foco"にきたところで、ベルリン・フィルの団員に頼っているウィーン・フィルとウィーンとベルリンの合唱団の響きの中に、なんとか声が消えてしまわないようにすることだった。だから、舞台の端まで出て"all'armi!"と声を張り上げたんだ。プロンプター・ボックスのすぐ上でね。

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