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県立沼津商業高校は校長先生は甲野藤先生の息子さんが赴任されています。
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◆剣心会の歴史
沼商剣道部の歴史 目  次
1 創部の精神
2 戦績(戦後)県大会3位以上 7 戦後の復活創部時代
3 草創期の時代 8 甲野藤剣道時代 丸子町時代
4 根岸剣道時代 大正山神道時代 9 甲野藤剣道時代 徳倉時代
5 根岸剣道時代 大正丸子町時代 10 平成時代
6 根岸剣道時代 昭和丸子町時代 沼商百周年史によせて

創部の精神 上へ戻る
古くは撃剣部と言い、「明治42年2月沼商で撃剣大会を開催、沼中、韮中などが参加」と言うのが最も古い記録の様ですが、明治45年7月に撃剣部を剣道部と改称しています。創業時の記録は無く、今はその創部の精神はうかがい知れませんが、大正3年から沼商に来られ昭和20年まで31年間務めた根岸直次郎先生が剣道部を指導、強化し沼商剣道の一時代を築きました。根岸剣道は実戦的なパワー剣道であり小野派一刀流の流儀を受け継いでいたようです。

小野派一刀流は伊藤一刀斎に学んだ神子上典膳(後に二代将軍の勧めにより小野次郎右衛門忠明と改名)が起こした流派で、江戸時代、柳生新陰流と並び将軍指南役をした事により剣法の双璧と言われ、「威・移・写の位」を兵法の三大本義としています。「威」とは“静にして勢”で常に千変万化の動きを静の中に秘め相手の動きに合わせいつでも技を出せる態勢。「移」とは自在な動きで相手の剣に空を打たせる動作。「写」は“残心の位”の意味で相手と剣を交えるとき、心を空にして相手の内心を写し取る事。根岸剣道にはこの小野派一刀流の精神がその根底に流れていたと思います。

 戦後の昭和27年夏、新たに、6〜8回生が剣道を復活し、当時近代禅僧の三傑と言われた竜沢寺の山本玄峯老師が惚れ込んだ人で沼津警察道場で指導をされていた栗田陸造先生に6〜8回生が教わり、その教えは、勝負に勝つ事より精神面、「思無邪」であった。論語にある孔子の言葉で、司馬遼太郎著、「街道をゆくに」ある『詩三百、一言以テ之ヲオオフ、曰ク、思ヒ邪無シ』一言で言えば「心に邪念が無い」であり「人間の自然な感情の流の中に美と善の調和を見出す事」が復活創部の精神です。

 昭和37年、大仁高校から沼商に来られた、甲野藤四郎先生は、それまでの稽古をガラリと変え、技を分解し、部分稽古を多く取り入れ、科学的な剣道を指導された、試合に勝つ為の剣道と最初は感じましたが、先生は「試合の為に稽古するのでなく、練習を盛り上げる為に試合という手段がある」と言われました。稽古を重ね強くなる事は結果、試合に勝つ事になる。勝利の喜びが次の稽古の活力になる。科学的剣道と言っても、それは修練無しでは結果は出ない、飽くなき繰り返しを重ね、あるレベルに達した時それ以上のもの「心」が重要になることを悟らせる剣道だったと思います。

甲野藤先生は北辰一刀流の流れを汲む剣道と聞きました、北辰一刀流は、千葉周作が小野派一刀流を改良した合理的剣道であると、思います。 戦後のスポーツとしての剣道といえども、より心技体を要求されます、瞬時の勝負である剣道はその技を突き詰め修練し刹那という瞬間に自然に技を出すには、その心はやはり「思無邪」であり、剣道の“残心”は「美と善の調和」なのかもしれません。甲野藤剣道もこの精神が流れていたと思います。

沼商剣道の精神は、根岸先生の築いてこられた剣道が戦争動乱と終戦による中断によって、栗田先生がその心を再確認し復活させ、甲野藤先生が引継ぎ育てたと言う大きな三つの歴史が感じられます。

戦績(戦後)県大会3位以上 ◆歴史のトップへ
年月日 大 会 名 戦   績 卒業回数
S.33.8 東海4県大会(名古屋)  団体本戦出場 11回生
S.36.8 東海4県大会(三重) 団体本戦出場 14回生
S.37.6 高校総体県大会 団体3位 15回生
S.38.8 高校総体兼国体予選県大会 団体3位 16回生
S.38.8 東海4県大会(岐阜) 団体本戦出場 16回生
S.39.8 高校総体兼国体予選県大会 団体3位 17回生
S.42.6 高校総体県大会 団体2位 20回生
高校総体県大会  個人男子2位山田操 20回生 全国大会出場
S.43.6 高校総体県大会 個人2位土屋澄夫  21回生 全国大会出場
S.43.6 県新人戦 団体3位 22回生
S.44.6 高校総体県大会  団体2位 22回生
S.44.8. 東海4県大会  本戦団体3位 22回生
S.45.8 東海4県大会  団体本戦出場 23回生
S.46.11 県新人戦  団体3位 25回生
S.47.11 高校総体県大会 団体3位  25回生
高校総体県大会 個人優勝市川義晃 25回生 全国大会出場
S.47.11 県新人戦 女子団体2位 26回生
S.48.6 東海4県大会 団体本戦出場 26回生
東海4県大会予選 女子団体優勝 26回生
S.48.6 高校総体県大会  女子団体優勝 26回生
S.48.8 東海4県大会 本戦女子団体優勝 26回生 全国大会出場
S.49.6 高校総体県大会 女子団体4位 27回生
高校総体県大会 個人4位.岡崎晃子 27回生
S.51.6 高校総体県大会 個人3位.大嶽敏子 29回生
S.52.6 高校総体県大会 個人3位.神戸良子 30回生
沿革 ◆歴史のトップへ
(T)草創期の時代 上へ戻る
おそらく、明治39年11月に講堂の新築落成をしているので、この頃の少し前ぐらい(明治35〜36年ごろ)に部としてでなくとも沼商剣道はスタートしたのではないか、60周年記念誌の「草創の頃を語る」の中で内野忠次郎さん(5回生、明治39年卒)が、校長の「剣道はあったのですか」の問いに「私の時は剣道を若干やりました。竹刀は学校にも備え付けが在ったかも知れませんが自分持だったと思います」と言うことから推測されます。

明治42年2月11日、撃剣大会を沼商で開催、講武会、警察署と沼中、韮中が参加しています、同年4月岳南尚商会4部(講演、会誌、庭球、撃剣)の一つの部として正式に部と成った様です。この年の11月に撃剣道場は新築(現一小の地に)されています。

明治44年6月15日には大正天皇(皇太子)が行啓、授業、撃剣試合を御台覧される。明治45年7月(大正元年)に撃剣部を剣道部と改称し、この年から学校の正課(撃剣、柔道)となり、学校の正課として生徒は柔・剣道のどちらかを
選択し、半数の生徒が剣道をやった時代でもあった様です。時代は大正に入り、大正2年2月9日沼商で武道大会(第12回)が開かれ渡辺義雄(12回生)が撃剣2等となるとの記録が試合戦績の最も古い記録です。

(U)根岸剣道時代 ◆歴史のトップへ
(1)大正(山神道)時代
大正3年頃より漢文、国語の先生であった師範、根岸直次郎先生(綽名が馬車)が剣道部顧問で剣道部を強化していった様です。根岸直次郎先生は漢文も担当され、剣道の授業の後は胴着のままで教壇に立ったそうです。剣道の達人だった証左として静岡県剣道連盟の資料に、昭和和5年5月25日に天皇陛下県下行幸のみぎり、静岡中学校講堂で、天覧試合が行われ、県下で6名(3試合)が選抜され沼商代表として先生が出ている記録があります。 

大正4年11月21日創立15周年記念武道大会開催、根岸先生など剣道部の模範演技が行われる、同年11月に高野智章、長沢義夫(15回生)の活躍で県下大会で優勝。大正6年より毎年11月に沼商年中行事として校内武道大会を開催することになり、学年別紅白戦、沼中との紅白戦などが行われた様です。

記録には、大正7年11月9日、本校武道大会、学年別紅白戦と各校各団体選手による3本勝負が行われる。 大正8年11月16日、本校武道大会、対沼中3年生以下の紅白試合、他校生、社会人との試合が行われる。大正10年6月、学校が丸子町に移転(1〜3年生)、同年8月5日、京都、武徳殿の大日本武道大会出場、清水栄一(21回生)が大阪四条畷中に勝ったのみ1勝し以下は2分3敗、同年9月25日県下武部大会開催、2級〜4級のクラス別戦に出場、一人の敗者も出さず6勝4分。各校代表戦で今井(旧性土屋)金吾(21回生)3回戦で敗退。同年11月20日、本校武道大会、対沼中戦、他に58番試合(学年別紅白勝抜き戦)などとあります。

この頃から毎年といっていいほど京都武徳殿の全国大会に出場しますが試合形式は個人単試合、各校代表優秀試合であった様です。 当時は試合方法形式が現在の様に三本勝負で団体戦5人のトーナメント、個人戦のトーナメントというハッキリした形式でなく、個人戦で単試合の部とか、各校代表優秀試合(各校代表トーナメント戦の個人、団体戦)の部という形であったり、個人戦でも級別、有段者の部、に分かれていたり、一本勝負であったり、勝抜き戦であったりします。また面白いのは、団体戦でも先鋒から大将までの3勝で勝ち負けを決定せずリーグ戦的に全試合を5人の勝ち点合計の一番多い学校が優勝という方法もあった様です。

さらに記録を追って見ますと、 大正11年6月15日行幸記念柔剣道小会開催、山神道(現沼津第一小学校)同年8月5日、京都、武徳殿の大日本武道大会出場、 同年11月18日沼商武道大会(全校生徒による柔道、剣道の紅白試合)開催、翌日、東部地区武道大会開催される、とあります。

(2)大正時代(丸子町時代) ◆歴史のトップへ
大正12年4月28日丸子町新校舎に全面移転する。この全面移転で校舎と武道場が新築されたようです。当時この新築された「武道場は東側が柔道部、西側を剣道部が使用していて、武器庫もあり銃が150丁ありました」と、剣道部ではありませんが大正15年卒業した笠原静夫さん(25回生)から伺いました。

大正12年7月25日、京都、武徳殿での第24回全国青年大演武会出場(大会名が変更されています)戦績は1勝(芹沢喜六)4敗であった。また同年11月18日県商業学校武道大会開催、戦績は1勝6分2敗の成績に「悪成績だった、これは震災(関東大震災)があり、道場を教室として使用のため練習が十分でなく、本校の猛者で県下にその名ありと知られたる小松常盛(23回生)宮内義雄(同)両名の不出場のやむなきに至るが基因」と当時5年生、渡辺冶二(23回生)の記述ですが、あの大震災後学校も相当の被害を受けた事を物語り、恐らくこの両名の不出場も震災の影響での事と推測されます。

大正13年2月3日道場新築祝と寒稽古納会を兼ねた盛大な武道大会が開催され、午前は校内対戦、午後は他校試合で沼中、韮中、沼警、卒業生との試合が行われています。道場新築祝大会がこの年に行われたのは関東大震災の為遅れたものと推測されます。この年の11月講堂が新築されています。

 大正時代では、戦前まであった道場に"4段・津田道雄"と、名札が掛かっていた事を多くの後輩が覚えている津田道雄(19回生)と、23回生が強かったようで、特に"精錬証・芹沢喜六"とやはりその道場の名札を言う後輩が多い芹沢喜六(23回生・大正13年卒)の強さと勇猛果敢さは白眉で、今も語り継がれています。

(3)昭和(丸子町)時代 ◆歴史のトップへ
昭和に入ってからの記録では、昭和2年7月25日、京都武徳殿での全国中等学校剣道大会(大会名が変更されています)出場に続き、翌年の昭和3年7月25日、全国中等学校剣道大会(京都、武徳殿)に出場しています。この年より東部中等学校連盟武道大会がスタートした様です。

この年の卒業に沼津剣道連盟第二代目会長(昭和29〜49年)であった鈴木幸三郎(27回生)がいます。 昭和5年1月26日県東部中等学校武道大会が沼商で開催され参加11校220名。この頃はまだ中学も少なく、主だった剣道強豪校は、沼中(現東高)、沼商、沼農(現城北高)、三島商業(現三島南高)、韮中(現韮山高校)田農(田方農業)などであった様です。同年より全日本剣道大会静岡予選(毎年7月の京都武徳殿の予選とは違うようです)が開催されることになったようです。この年の卒業に小糸製作所の社長となった大嶽孝夫(29回生)がいます。 

昭和7年5月15日には全国大会準々決勝進出を果たしています。同7年7月25日第33回全国中等学校剣道大会に出場(京都、武徳殿)。 
昭和9年1月21日第7回東部中等学校連盟武道大会が韮中で開催され、この日の出場校は、甲種団体10校、乙種団体11校で、本校は甲班5名、乙班5名の2チームが出場、甲班3等、乙班2等であった。この年3月卒業に、甲班の中堅を務めた秋元水産の秋元精一(33回生)がいます。同9年7月25日第35回全国中等学校剣道大会(京都、武徳殿)に出場、個人の部では2勝4敗、翌26日の団体戦は香川三豊中に全勝し、2回戦に愛媛越智中に2勝3敗で惜敗、この年の5年生荒井通雄(35回生)の"光輝ある剣道部を去るに臨みて"の文中にある「技だけでなく、精神を磨け、精神が正しくなければ、技がどれほど優れていても何の価値もないのだ。そして後輩に、沼商剣道王国を建設して欲しい」と言う言葉は正に戦後復活創部の精神そのものであり、印象に残る言葉です。

昭和11年に県下剣道大会に優秀な戦績を残した田中温古堂の田中旭(36回生)、鈴木義積(同)を送り出し一抹の寂しさを感じつつ「炎熱燃ゆる日も寒風肌を刺す日も練習に万進してきた過去1年を貧弱だったと、自分の一人の責任だ、県下大会、京都全国大会での不成績を沼商八百の健児に詫びたい」と記録を残した昭和12年の主将、梅田義明(37回生)の言葉も印象に残ります。

しかし昭和12年38回京都全国大会の個人戦は3勝4敗、団体戦は和歌山・田邊中を3対2で破り2回戦で徳島工業に3対2で敗れたものの立派な戦績であったと思います。昭和13年1月23日第11回東部中等学校連盟武道大会開催、乙班2等31点、甲甲班3等28点とあり、総当り戦で5人の総勝点で順位が決まった様です。

同年6月26日第9回全日本剣道大会静岡予選開催(於静岡武徳殿)1回戦で静岡中学に敗退、同年7月25日、京都武徳殿遠征、個人(単試合1本勝負)で2勝4敗、団体戦は1回戦で京都・城丹蚕業に2勝3敗で敗退、この時の5年生で主将の小野田耕一(38回生)もこの戦績を大いに後悔し「後輩に伝統を守り奮闘してくれ」と励ましています。
                                               (◆歴史目次へ)
昭和14年6月18日第10回全国大会静岡予選開催、5年生が(修学)旅行中なので4年生が出場、静岡師範に敗退(勝抜戦)、同年9月24日第1回近県中等学校剣道大会開催、(於静岡高等学校)1回戦浜松工業に勝利するが2回戦で掛川中学に敗退(勝抜戦)、とあり、近県大会も新たにスタートした年であったようです。同年7月25日第40回青年大演武会出場(京都武徳殿)個人戦1本勝負3勝4敗、団体戦1本勝負1回戦兵庫第一神戸中学に不戦勝、2回戦京都の覇者、京都聖峯中学に敗退、同14年11年19日に第1回の沼津市民大会開催と記録されています、

この年より沼津市のスポーツ祭が始まった事が分かります。成年段外の部でA組高点試合稲葉稔(41回生)が優勝、B組優勝試合で坂本勲(40回生)が優勝、成年有段者の部で優勝試合稲垣甲子男(40回生)が優勝、太田保美(39回卒)が高点試合に2等となる。同年11月27日三島野重3連体慰霊祭奉納試合で決勝戦で三島商を3勝2敗で破り優勝しています。

昭和15年6月16日文部省主催中等学校剣道大会静岡予選開催(勝抜戦)で清水中学を一回戦で破り二回戦で島田商業に敗れる。同年7月25日第41回青年演武会(京都、武徳殿)に出場、この年の6月23日に沼中(現東高)の武道場落成記念剣道大会が行われたと記録にあります。「昭和15年の京都、武徳殿での3回戦で優勝候補の京都桃山中学に4対1で惨敗したが全国の強豪の剣道を目の当りに見て感銘した。

昭和18年には根岸先生の同郷である東京有信館の橋本統陽先生が指導に見えられた。中山博道先生門下の有名な剣道家で、独特な剣風が驚異であった。また当時、寒稽古をよくやって、終わると植松という小使さんが"芋粥"を作ってくれ、後輩、当直先生と一緒に食べた」と、大塚義之(40回生)、稲葉稔(41回生)は当時を懐かしく振返っています。

「四年のとき、県大会準優勝し、また当時の道場は柔道場と一緒の大きな道場で、先輩たちの段級位と氏名を黒塗り地に白で書いた名札がズラリと並び、この名札が一陣の風にハタハタと音をたてて鳴った壮観さは正座している自分が劇中の主役剣客に成っている様な錯覚に捕われたものである」と、戦時下の昭和18年12月繰上げ卒業で、また剣友会(戦前のOB会)の生みの親でもある、小澤清(43回生)は語っています。戦前最後の昭和20年3月の卒業生には、和多仁の佐藤英之助(44回生)がいます。この年7月16日沼津大空襲により、武道場が焼失(一部校舎、記念館が残る)したようです。

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(V)戦後の復活創部時代 上へ戻る
戦後、剣道はGHQの許可が下りず、しばらく空白期が続きます。

昭和27年夏頃より諸星肇(6回生)と堀場清(7回生)、小早川匡(8回生)が、個人で沼津警察に通い練習しているうちに知合い、師範の栗田陸造先生に教わり、学校でも商業実践室や廊下などで練習を始める、その後堀越善次郎・杉山長義(7回生)等の参加により部を作ろうと言う事となり部員を募集、
昭和28年にはクラブとして活動がはじまります。

昭和29年4月1日剣道部が部として正式に復活。「しかし部としての予算は無く防具は高価で、戦時中の銃剣術の防具を集め、新しい部なので体育館は使用出来ず青果市場に務めていた端山照八郎(旧42回生)の配慮で競りの終わった市場で稽古し指導して頂いた」と語る石川(旧性堀場)清(7回生)。 

昭和29年4月(戦後の創部)から昭和39年頃まで剣道部の顧問をして頂いた金谷先生の依頼を受けた小澤清、端山照八郎、両先輩に8回生ぐらいから指導を受ける。両先輩には週1〜2日指導に来て頂いた様です。
当時の突き、足がけの厳しい両先輩の稽古や青空道場の悲しさを、四季ごとに、

春・東風、は(端山)風、おざ(小澤)風、力汗 (東方より両先輩現る)
夏・浜風に、砂を食いて、涙汗、 (砂埃の校庭道場にて)
秋・西風に、稽古終わりと、名札揺れ、 (西隣り定時制職員室より)
冬・北風に、袴あおられ、玉の汗、 (部室から道場の渡りにて)

と、道場が無く北風の厳しさや、口の中が砂だらけの陸上や野球部のような練習(厳しい稽古)が身に凍みた事を川柳にし、当時よく口ずさんでいたと、剣心会(戦後のOB会)会長で沼津市剣道連盟の理事長でもある宮崎敏(10回生)は偲んでいます。

この頃、仮設の道場で練習が充分でなく、それでも昭和33年8月東海四県へ出場(木所・石川・遠藤・山口・松苗)した時の大将だった松苗正昭(11回生)は「両先輩(小澤・端山)の激しい突きの洗礼と厳しい稽古のお陰で、観世音菩薩の柔和な顔は、怖い仁王面から修行に入り、諸仏の取っ付きである不動明王を経て始めて形成されるの例えが分かりかけた気がし、剣道部への入部は"剣の人格化"への第一歩だった」と語っています。

昭和35年秋に60周年を記念し、丸子町北西に、剣道場、柔道場が別棟で完成、その道場で、「新道場、新防具を付けて、金谷先生の下、稽古に励んだ、長い人生のほんの一瞬だったこの3年間の高校生活が、転勤生活での心の拠り所になっている」と沼商時代を懐かしむ土屋信明(14回生)、昭和36年8月、剣心会(OB会)副会長の木下俊次(14回生)を主将に東海四県大会の出場(三重大会)を果たしています。

(W)甲野藤剣道時代 上へ戻る
(1)丸子町時代 ◆歴史目次へ
昭和37年、この頃より先の両先輩(小澤・端山)に加わって学校に指導にこられた土屋要(旧34回生)の尽力で、大仁高校から沼商に来る事が出来た甲野藤四郎先生が戦後の沼商剣道を育てていく事となります。稽古が地稽古(試合形式)主体から、掛かり稽古、部分稽古を多く取入れ、技を分析し、連続に技を出す練習を繰返し行い、最後に地稽古(先生は部員全員と稽古)いう形に変り、試合には3年生といっても安心出来なくなり2年生でもその時の調子が良いと5名の中に選ばれます。この年6月に前田利通(15回生)を主将に高校総体県大会に出場し団体3位になっています。
昭和38年、甲野藤先生、土屋先輩の伝手で春休み名古屋遠征、中京大学等と親善試合、この年合宿は東レの剣道場で猛稽古、また土曜日は東レに出張稽古、甲野藤先生と3先輩(小澤・端山・土屋)の厳しい指導の下、沼二中剣道部創始者の永田利男(16回生)を主将に高校総体兼国体予選県大会団体3位、東海四県(岐阜大会)に出場しています。

特筆すべきは、この年剣道部創部以来初の女性部員2名が入部した事です。女子の部室は無く指導にこられる先輩の部屋を使用、戸惑いながらも稽古になにかしら華やいだ感じがあったようです。
昭和39年も山田宏二(17回生)を主将に高校総体兼国体予選県大会に出場し団体3位となるが優勝できず打倒相良、榛原の中部地区の壁を感じた頃でもあります。
(2)徳倉時代 ◆歴史目次へ
昭和42年に学校は徳倉に校舎を移転します。6月は高校総体県大会で団体2位となります。「あと一本取ればインターハイの全国大会に出場出来た。その試合の場面が今も鮮明に脳裏に去来する。無念の思いはすでにない。それは、剣道を通しての様々な出会いが、荒ぶ心を正し、一筋の道を与えてくれたからである」と、三島高校教諭で剣道も指導している小笠原政人(20回生)は語っています。
同期に男子個人の部では2位となり同年8月に、全国大会出場を果たした山田操がいます。

昭和43年、「この年は厳しくかつ充実感のある年だった、"自分を作り上げるために剣道があり、一生続ける事が修業"という甲野藤先生の人間教育としての剣道指導は素晴らしいもので、教え子の中から多くの有段者が排出している事がその証左であり、その中から先生の様な立派な指導者が数多く出る事を期待し、歴史ある伝統を支えていきたい、その指導を受ける機会を得られた事を感謝している」という米山和実(21回生)、同期には同年6月に高校総体県大会で個人の部2位となった土屋澄夫が山田操(20回生)に続き全国大会出場を果たしています。

昭和43年6月の県新人戦で団体3位となり、22回生は入部した13名中、初段が7名、一級が2名と戦後一番の層の厚さを誇り、昭和44年6月高校総体県大会で団体2位、8月の東海4県大会で団体3位と健闘、「大きな期待を寄せて頂き、懸命に稽古に励みましたがあと一歩のところで、インターハイの出場は叶わなかった。しかし、継続する事の大切さを甲野藤先生から教わり、5名の仲間が自己の修練と後進の指導に努力しています」と佐野文博(22回生)は振返ります。

昭和46年8月東海4県大会に団体戦出場、丹沢潔(23回生)は「2年の時、東海四県大会で沼商が3位に入りその時の優勝が中京商業、準優勝が相良高校で両校とも全国大会で好成績を残した、この2校を叩けば全国制覇も夢ではないと、猛稽古を開始、毎日増血剤や塩、梅干を食べ貧血と戦いながら練習したのですが、結果としては気持ちばかりが空回りし、悔し涙を流した記憶は、今でも残念に思う。しかしそのお陰で東部大会ではおおよそ敵無しであったし、県ではベスト8・4といった成績は残せた。良い思いでを作ってくれた、甲野藤先生、先輩、仲間、後輩に感謝したい」と語ります。昭和46年11月県新人戦、団体3位になり、

昭和47年6月高校総体県大会、団体3位、個人戦では優勝した市川義晃(25回生)が全国大会出場を果たす、彼は山形県高校総体の思い出を「当時のメンバ
にも同行してもらい、顧問の甲野藤先生の郷里である福島県二本松市に寄り、安達高校と親善試合し、稽古をして頂いた、この遠征にはOBの方々のご協力がとても有難かった」と振り返る。この遠征資金の調達に先輩後輩を駈回った
拓大の猛者と言われた藤堂健司(16回生)が音頭をとり、稲葉博之、宮崎敏(10回生)の協力で、この年に戦後のOB会(剣心会)が発足します。
                                              (◆歴史目次へ)
昭和38年に18回生の女子2名の入部以来この26回生から、甲野藤先生の指導が花開き、昭和47年11月県新人戦、で初の女子団体2位となり、女子が猛烈に活躍し始めます。
昭和48年6月東海4県大会で男子が団体本戦出場(26回生)すると、女子は東海4県大会予選で初の女子団体優勝(26回生)し団体本戦出場を決め、高校総体県大会でも女子団体優勝を果たし、
昭和48年8月の東海4県大会では男子の果たせなかった女子団体優勝という快挙をし、この結果、昭和49年8月全国大会団体出場を果たします。

この頃の思い出を清水(旧姓鈴木)隆行(26回生)は「私たちの年は男子7人女子7人で、内男子4人以外はまったくの初心者でした。女子は東海四県大会に初出場初優勝し、インターハイ出場という快挙をやってのけました。厳しい稽古の中でも"お回し"と呼んだ連続掛かり稽古は恐怖でした、合宿では多くの優しい(恐ろしい)先輩に稽古を付けて頂きご飯も喉を通らない日々が続いたものでした。それでも一人の落伍者も出さななかったのは、剣道では厳しかったが心の内は太陽のように暖かく優しい"おじいちゃん"の愛称で親しまれた甲野藤先生のおかげと感謝しています」と、そして「よくまとまった同期14人の内3組が結ばれ幸せな家庭を築いています。沼商で甲野藤先生に師事出来たことを誇りにこれからも剣道に仕事に家庭にがんばっていきたい」と結んでいます。

26回生以降も昭和49年6月、高校総体県大会で女子団体4位となり、同大会女子個人4位に岡崎晃子(27回生)、昭和51年6月高校総体県大会、女子個人3位に大嶽敏子(29回生)、昭和52年6月高校総体県大会、女子個人3位に神戸良子(30回生)と女子の活躍が続きます。
この年(昭和52年)に甲野藤先生は沼商を定年退職されます。先生は退職後も沼津剣道連盟に所属し、沼津学園に講師として勤務の傍ら剣連の活動を通じて、SBS剣道教室や他の各剣道教室指導など剣道の普及に尽力されました。
昭和54年から沼津剣道連盟の会長を、三代目(昭和49〜54年)の土屋要(旧34回生)先輩のあとを引き継ぎ、四代目会長として亡くなられた平成4年まで努められました。
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剣道部の顧問は昭和48年から昭和55年まで浅井和人先生、昭和53年から昭和64年(平成元年)まで鈴木竜生先生、昭和57年から昭和60年まで白井範男先生に正、副、顧問を担当していただきました。
特に鈴木竜生先生は剣道を生徒と一緒に稽古出来る先生として、甲野藤先生の後、県3位以上の戦績は残せなかったものの、良く剣道部をまとめ、指導して頂きました。昭和53年から女性の部長を置き、部長も男女一名づつとなりますが、ついに昭和60年には男子部員が一名もいなくなり37回生、38回生、39回生は全員女子部員となります。

昭和62年卒業の小川(旧制前田)尚美(39回生)は「私達が入部した時は男子がいなく女子だけで沼商剣道部の重い伝統を支えてきたのですが二年の時男子が入部し、部は生まれ変わったのです。剣道部女子から剣道部になった。男子に慣れていなかったので、ぎこちなく男女がしっくりいかなかったが、今は"ピッタリ"男女がまとまり、練習にも張りがでてくるようになり、その成果は、他校との試合などからも、見られるようになった。今、部は生まれ変わろうとしています。どうか皆さんの手でしっかり部を支えて盛り上げていって下さい」と、
昭和38年に女子が始めて入部して、男子が戸惑いを感じたことと同じ思いを語っています。「女性が多くなり、今に男子更衣室が必要になる」と言っていた昭和40年ごろの話を実証した沼商の変化でしょう。
OBも合宿などには、指導に参加していたのもこの頃(昭和64年)までで、鈴木竜生先生が転勤するとOB会との連絡も途絶えがちになります。

平成に入り、剣道部も顧問の先生が固定せず年ごとに変わり、入部者も男子が少なく男子だけのチームが組めない年もあり、その年代ごと努力はしているのでしょうが、進学や、就職への学業(成績)重視という時代の変化と"良き指導者なき部は弱体化する"の通り、戦績も県大会上位常連だった時代から見て現在は残念な状況です。

沼商のクラブの中でも、古い歴史を持つ伝統のあるクラブとして"このままでは"と多くのクラブOBが感じています。戦後の復活創部精神の流れを絶やさず、かっての根岸先生、甲野藤先生の指導された時代を蘇えらせたいと願うものです。

学校にも、よき指導者を沼商へ招聘して頂けるようお願いし、これからの沼商剣道部の活躍を願う多くの剣道部OBを代表して、大学時代は青山の主将を務め、現在香陵剣道教室でも後進の指導し、現沼商同窓会の副会長の一人でもある土屋京二(16回生)は「学校へお願いし、良い先生(指導者)を向かえてもらえるなら、今後の剣道部の指導育成に協力して行きたい」と意欲を見せています。また多くの有段者がいるOB会は、その協力を決して惜しまないでしょう。
そして、"伝統を受け継いでいる"現在の剣道部の部員に"伝統に押し潰されず頑張れ"とエールを贈りたいと思います。
                                              (◆歴史目次へ)

編集後記
学校の編纂委員会より沼商百周年史に記載するとのことで、各OB会に部史を作成するように以来があり、宮崎会長より、木下・鈴木・大熊・市川・小笠原が編集委員を命ぜられましたので、約半年間かけて毎週月曜日に夜間沼商の同窓会館に集まり、学校の資料や県の大会記録や会員より頂いた資料をもとに大熊・市川・小笠原君らの協力も得て編纂したものです。多少は百周年史と違う部分があるかも知れませんが、こちらが提出原稿です。写真を掲載したかったのですが、既に、お返ししてあり残念です。
剣心会編集委員   木下俊次
  鈴木 正

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