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古くは撃剣部と言い、「明治42年2月沼商で撃剣大会を開催、沼中、韮中などが参加」と言うのが最も古い記録の様ですが、明治45年7月に撃剣部を剣道部と改称しています。創業時の記録は無く、今はその創部の精神はうかがい知れませんが、大正3年から沼商に来られ昭和20年まで31年間務めた根岸直次郎先生が剣道部を指導、強化し沼商剣道の一時代を築きました。根岸剣道は実戦的なパワー剣道であり小野派一刀流の流儀を受け継いでいたようです。
小野派一刀流は伊藤一刀斎に学んだ神子上典膳(後に二代将軍の勧めにより小野次郎右衛門忠明と改名)が起こした流派で、江戸時代、柳生新陰流と並び将軍指南役をした事により剣法の双璧と言われ、「威・移・写の位」を兵法の三大本義としています。「威」とは“静にして勢”で常に千変万化の動きを静の中に秘め相手の動きに合わせいつでも技を出せる態勢。「移」とは自在な動きで相手の剣に空を打たせる動作。「写」は“残心の位”の意味で相手と剣を交えるとき、心を空にして相手の内心を写し取る事。根岸剣道にはこの小野派一刀流の精神がその根底に流れていたと思います。
戦後の昭和27年夏、新たに、6〜8回生が剣道を復活し、当時近代禅僧の三傑と言われた竜沢寺の山本玄峯老師が惚れ込んだ人で沼津警察道場で指導をされていた栗田陸造先生に6〜8回生が教わり、その教えは、勝負に勝つ事より精神面、「思無邪」であった。論語にある孔子の言葉で、司馬遼太郎著、「街道をゆくに」ある『詩三百、一言以テ之ヲオオフ、曰ク、思ヒ邪無シ』一言で言えば「心に邪念が無い」であり「人間の自然な感情の流の中に美と善の調和を見出す事」が復活創部の精神です。
昭和37年、大仁高校から沼商に来られた、甲野藤四郎先生は、それまでの稽古をガラリと変え、技を分解し、部分稽古を多く取り入れ、科学的な剣道を指導された、試合に勝つ為の剣道と最初は感じましたが、先生は「試合の為に稽古するのでなく、練習を盛り上げる為に試合という手段がある」と言われました。稽古を重ね強くなる事は結果、試合に勝つ事になる。勝利の喜びが次の稽古の活力になる。科学的剣道と言っても、それは修練無しでは結果は出ない、飽くなき繰り返しを重ね、あるレベルに達した時それ以上のもの「心」が重要になることを悟らせる剣道だったと思います。
甲野藤先生は北辰一刀流の流れを汲む剣道と聞きました、北辰一刀流は、千葉周作が小野派一刀流を改良した合理的剣道であると、思います。 戦後のスポーツとしての剣道といえども、より心技体を要求されます、瞬時の勝負である剣道はその技を突き詰め修練し刹那という瞬間に自然に技を出すには、その心はやはり「思無邪」であり、剣道の“残心”は「美と善の調和」なのかもしれません。甲野藤剣道もこの精神が流れていたと思います。
沼商剣道の精神は、根岸先生の築いてこられた剣道が戦争動乱と終戦による中断によって、栗田先生がその心を再確認し復活させ、甲野藤先生が引継ぎ育てたと言う大きな三つの歴史が感じられます。
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