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小田原囃子は江戸時代 武蔵の国葛西郡金町にあった香取明神(現在東京の葛西地区に |
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在る葛西神社)に奉納されていた神楽囃子 即ち後の『葛西囃子』が源流とされています
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この葛西囃子は享保の初期に 江戸葛西領30郷の総鎮守であった葛西郡にある香取明神 |
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の神主『能勢環』が 領内の青少年の親睦と不良化防止などの目的により香取明神に伝わる |
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神楽囃子をアレンジして奨励したのが始まりと言われています
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そこで この囃子を若者に習い覚えさせ若者が囃したところから『若囃子 わかばやし』又 |
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短歌・和歌の文字を用いて『和歌囃子 わかばやし』とも言われるようになった |
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後に道化師が馬鹿面(おどけたような顔をしたお面)を付けて踊った 俗に言う馬鹿踊りがついた |
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ので 『馬鹿囃子 ばかばやし』とも言われるようになった |
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馬鹿囃子=現在演奏されている屋台囃子(屋台・囃子とも言われる)と思われる曲で |
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鎌倉と仕丁目の間に演奏する(地域による)現在の馬鹿囃子とは違います |
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祭囃子は 江戸の祭囃子に見られる様に神楽囃子が徐々に変化していったようです
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本所七不思議 狸ばやし |
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この頃の江戸の町民は 何の話でも七不思議にしてしまったようで その話の一つとして |
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『本所七不思議』が挙げられるがそのうちの一つとして『本所の狸囃子』が在る |
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当時の本所は 人気の無い寂しい所のようでした そこを通りかかると |
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あちら こちらから狸囃子が聞こえてくるという不思議な話であるが |
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実は この七不思議の話が出来た頃には金町の葛西囃子と |
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葛飾の葛西囃子が伝承されていたという事で |
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恐らく偶然に時を同じくして 祭囃子(葛西囃子)を |
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演奏していたのか 風の吹き具合であちらこちらから聞こえ |
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本所を通りかかった人にはいかにも狸が腹つずみを叩いていたように |
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聞こえたのであろう この事から祭囃子はこの時代にはもう確立されていたと思われます
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享保4年以来 関東代官『伊那半左衛門』が毎年各町村で葛西囃子の代表者推薦会を催し |
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将軍家上覧に参加させる様になり 後に ご用祭り (※天下祭り)に用いられたのがきっかけで |
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江戸の町々で盛んに演奏されるようになったのが 当時江戸との文化の交流が盛んであった |
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小田原には この『江戸祭囃子』がいち早く伝わってきたそうです
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当時 湯治といえば箱根の湯治場が有名で 江戸の芸人は箱根の湯治場へ |
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ちょくちょく通ったそうです その帰りに当時小田原には※『桐 座(きりざ)』という |
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歌舞伎小屋があり そこで江戸の芸を披露して帰ったと言われています |
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ですので 小田原の人は わざわざ江戸に行かなくても江戸の芸が堪能できた |
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そうです 小田原囃子は 桐座の囃子方から祭り好きの近隣の若者が習い覚えたのが |
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こうして 江戸時代中期より演奏されてきた小田原囃子 此れが各地に広がって |
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神社の祭典にはもとより 道祖神のお祭りにも用いられるようになり 西は湯河原 熱海 |
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東は二ノ宮近く 北は山北 松田 中井を結ぶ辺り迄同流の祭囃子を聞く事が出来ます |
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そして現在では『小田原囃子 多古保存会』が神奈川県の指定を受け伝承しております
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※天下祭り 山王祭(神田のひえい神社 又はひえい根現)と神田祭り この二つの |
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お祭りは 祭りの際江戸城に入り将軍が上覧になったところから |
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天下祭りと言った 又将軍も氏子であった 例外としては七代将軍 |
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家継は 根津根現祭礼を上覧したことも有る 京都の祇園祭が |
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天皇の為の祭りに対して 将軍のための祭りが有ってもいいでは |
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ないか との事で出来たのが江戸の祭りである 当時は大きな祭りは |
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無かったようです |
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※桐 座 |
江戸時代の初期からあった かなり立派な芝居小屋(劇場)で |
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川柳に 『声色は 小田原までは通用し』 と詠まれているように |
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小田原には江戸の名優の芝居を観る機会があったそうです |
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芝居見物は 江戸時代の人にとっては 娯楽の代表的なひとつであった |
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江戸から明治と改まり だんだんと娯楽が増え 又後ろ盾となっていた |
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小田原藩が無くなり 又近くにほかの劇場が出来たこともあって |
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業績不振となり足柄青果市場に売却された 劇場復活の機運は |
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有ったものの 大正12年の関東大震災で倒壊 その後復活は |
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観られなかったようです |
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