2002/7/5
◎子供は言葉をなくしつつある?
サッカーのW杯が終わった。にわかサッカーファンの私のお気に入りはドイツのカーン選手。もちろんサッカーはチームプレーだが、GKの責任の重みは特別のものがある。プレッシャーと責任の重みを一人引き受ける緊張した意志の力は魅力的だ。
さて、中間テスト以後生徒に新聞の切り抜き発表をさせている。(詳細はこちら)その中で「得点されてゴールに座り込むカーン」という記事を発表した生徒がいた。記事を読み上げた後の会話。
私「この記事を読んでどう思った?」   生徒「すごいなぁって思った。」
私「何がすごいの?」            生徒「えーっ、わからん・・・」
私「点を入れられたときどう思った?」  生徒「何も」。

そういえばこんな事もあった。「学校週休二日制の導入で中間テストが無くなる?」という記事を発表した生徒に感想を求めたところ「こんなん言ってるんやーって感じ。」と答えた。「あなたは賛成なの?反対なの?」と聞くと、またまた「わからん〜」。

これは一体何なんだろう。一週間の中で自分のアンテナに引っかかった記事を切り抜いてきたはずだから、何かを感じているはずだ。なのにそれを言葉に出来ない。あるいは言語化する習慣がない。これでは国語の力がつくわけはない。漠然と感じた感覚を漠然とした言葉で語る彼らは、例えば友達とちゃんとコミュニケーションできているのだろうか?
2002/4/27
おにぎり
昨日は遠足で飯ごう炊さん。海の近くの公園施設で焼きそば、焼き肉、チャーハン等の昼食の後、ビーチバレーで盛り上がる生徒達。爽やかな晴天のもと、絵に描いたような明るい健康的な遠足。
ところで最近の子供はおにぎりが作れない?「焼きおにぎりを作りたいので、せんせーおにぎり握って!」と言われて気が付いた。あなたもやってみたらと生徒に握らせてみると、まあ!岩石のかけらのような何とも言えない塊をつくったのデス。班の女子5人男子2人全滅。これは親がやらせたことがないのか、それとも親自体も作れないのか?彼らはケーキやお菓子のようなものは上手に作るのにな〜。

手のひらの中でご飯の熱さや重み、一粒一粒を感じながらにぎる。こういう身体感覚も失われていくのだろうか。
20021/26
◎一休さんの遺言状
受験でストレスいっぱいの生徒達に、最近知った一休さんの遺言の話。
テレビ漫画の一休さんは青いくりくり頭の小坊主さんだけど、実在の人物だというのは日本史で習ったよね。
その一休さんが臨終の際に弟子達に遺言状を渡して、「この遺言状は、将来、この寺に大きな問題が起こった時に開け。それまでは決して読むな。」と言い残していたそうです。僧侶たちはその教えを守り、様々な問題が持ち上がっても決して遺言状を開くことはなかった。「いざとなれば一休和尚の遺言状が解決してくれるはずだ。」という安心感もあったのでしょう。
一休さんの死後100年を経た後、どうしようもない大問題が寺に起こり、遺言状がとうとう開かれることになった。僧侶達がすがる思いで開いた遺言状には、こう書かれていたそうです。「なるようになる。心配するな。」どんな素晴らしい助言が書いてあるかと期待していた一同は、あまりの肩すかしに
大笑い。そして不思議と落ちつきと勇気と明るさを取戻し、難しい問題を解決できた、という話です。
緊張しすぎや不安で心の中がいっぱいの状態では、良い答も行動する勇気も湧いていきません。 「なるようになる。」という一休さんの言葉を思い出してちょっと肩の力を抜いてみるのもいいかもしれませんね。
2001/12/13

AO・推薦入試・・たて前と現実?
「オレ、浪人したら旅に出て、それでAO入試受けようかなぁ。」という生徒がいた。単に変わった体験をしただけではダメで、そこからどんな問題意識を自分が持ち、それを言語化してどう人に伝えるかが問われている。しかし現実はどうなんだろう?
本当に切実な問題意識を持つ生徒や力のある生徒は自力で対応できるだろう。しかしイマイチちからのない生徒の場合は、どんな指導を受けたかということがかなり合否を左右するのではないか?これが一番釈然としない点だ。生徒自身の力ではなく教師の指導力や熱意、そして、どれだけの時間を一人の生徒のために割けるかということで結果が変わってくる。また、そういう関係を教師との間に築けないでいる(築きたくない)生徒もいるだろうに。某大学の助教授である友人は「自己推薦書には教師の指導が入っているのを前提として面接を行っている。」と言っていたが、それってフェアじゃない。また、特に文系の場合、面接の現場で要領よく対応できる生徒に有利という感じも否めない。
 AO入試というものが登場した頃に、「これは生徒が高校生活をどう送ってきたかを長い目で評価するものだ。だから教授が生徒の活動や生活の様子を見に高校に来たりすることもある。また何回も面接を重ねて生徒の本当の姿を見極める。」と聞いて驚いたものだ。また、自己推薦の手続きについて大学に問い合わせると「自己推薦だから本来は生徒本人が責任を持って自分で問い合わせすべきだ。」と言われて赤面した記憶もある。時間が経つと共に当初の趣旨が風化するというのはこれに限ったことではないが、しんどい制度である。

2001/11/10
◎その後の舞姫
 授業が終わるたびに「豊太郎はひどいヤツだ〜。」と言いに来るMくん。今日は嬉々として近づいてきた。「今、舞姫の続きを書いているんだ!」
私「うわ〜面白そう。ストーリー教えて!」
M君の構想によると、十数年後出世して相当の地位についた豊太郎の元に彼とエリスの子供が身分を隠して訪ねてくる。その後彼は父である豊太郎に復讐を仕掛けていって・・・・後はミステリー仕立てになるそうだ。
 このアイデアも使えるな〜。”その後の『舞姫』”を書かせる。帰国直後でも何年か後でもいい。豊太郎の決断が彼の人生に与えた意味が浮き彫りになるかも・・・
 小説の続きを書かせるのは「羅生門」でもやったことがある。幾つかのパターンがあって生徒の志向が分かり面白かった。このまとめもそのうち<(^.^)" やってみます。
2001/10/12
◎ 中間テスト後は“人生相談”作戦? 
 平易な文を読み慣れている生徒にはやはり「舞姫」の文は取っつきにくいかなと思っていたのですが、エリスと豊太郎が出会った場面ぐらいから授業態度が変わってきました。一生懸命聞いている生徒の数が増えてきた。放課後残っている生徒から「続きがどうなるか気になる。」と言われたときはちょっとほっとしました。
 さて、中間テスト後ですが感想文という直球は避けて、エリスと豊太郎それぞれから来た人生相談に答えさせると言う作戦でいこうかと思っています。これは批判的な観点から考えさせるという狙い。それぞれの問題点をつかめる相談内容を考えねば。
2001/10/12
何の講筵を残したのだろう? (我が学問は荒みぬ)
「“ただ一つにしたる講筵“って何?」という発問に「歴史文学」という生徒の答え。
 そういう発想もあるのかと調べてみると、「明治書院」の指導書が「”旧業“を『法律学』と・・・とる方が一般的であろう。しかし・・・一つの解釈として『歴史文学』と考えた。」というセンで書いてある。
 しかしこれにはかなり無理があるだろう。無理というか、たった一つ残した講筵が「歴史文学」だとしたら、豊太郎は愚か者。あまりにも自分の置かれた状況と自分の選択の意味を理解してなさ過ぎる。彼は「このままにて郷に帰らば、学ならずして汚名を負いたる身の浮かぶ瀬あらじ。」と考えたではないか。ベルリンに残る目的が「学」を続けて名誉挽回を図るというのなら、苦しい家計の中で考えた末ただ一つ残したのは「法律学」であるはずだ。
 それにしても、未練がましく大学へのつながりを残しながら「民間学」で他の留学生の夢にも知らぬ境地に達したと言う彼の態度に、「自負心」と言うよりは落ちこぼれてしまった者の負け惜しみを感じてしまう。可哀想でもありバカらしくもありですね。
2001/10/3
ベルリンマラソン(クロステル巷の古寺に至りぬ)
 日頃マラソンなんかに関心のない私がたまたまTVをつけるとベルリンマラソンのスタート直後。ティアルガルテン(獣苑)→凱旋塔→ウンテルデンリンデン→ブランデンブルグ門・・・と、これはまるで豊太郎の散歩コースだわ〜と、食い入るように見てしまった。フンボルト大学(ベルリン大学)や王宮、大聖堂もしっかり映っていたし、もしかしてマリエン教会もと期待したが、残念ながらこれは映らなかった。 今日授業で聞くと「見た。でもゴールのところだけニュースで。」と受験生らしい答え。(=^_^=)   
 思うに「舞姫」は当時の素晴らしいベルリンガイドですね。読者は新興都市ベルリンの紹介をうっとりと読みふけっていたのでしょう。
 さて、マラソンでは高橋選手の周りを5人の男性ランナーが守る様に取り囲んで走っていたのには驚いた。彼らはある区間までペースを保ち給水や道を知らせ高橋選手がレースに集中できるように守る役目だ(ガードランナーというらしい)。こういう人たちをしっかり雇えた者が強い?もはやお金をかけずして世界記録なんて更新できないレベルに入ってしまっているのかも知れないけれど、生身の人間がその肉体と精神力だけで記録に挑むというのとはあまりにもかけ離れてしまった気がして、一種異様さと寂しさを感じたのでありました。
 生徒に「彼らはいくらで雇われてるんだろう?」というと、夢を壊すひどいヤツといった冷たい視線が・・(^_^;) ・
2001/9/29
豊太郎は馬車で行く?(クロステル巷の古寺に至りぬ)
 植木哲氏の「新説 鴎外の恋人エリス」(新潮選書)を読んでいます。法学者であり鴎外ファンである著者が、ベルリンに住んだ経験をフルに生かして登記簿等からエリスのモデルを探求した本。実証的な記述から学ぶところも多いのですが、鴎外への思い入れの強さのせいか、、鴎外と豊太郎を混同して???という部分もある様に思う。
 例えば「余は獣苑を漫歩して、ウンテルーデンーリンデンを過ぎ、我がモンビシュウ街の僑居に帰らんと、クロステル巷の古寺の前に来ぬ。」という部分。植木氏は当時のベルリンの地図から、「一介の旅行者の場合には、周りを見渡しながら徒歩で行くことも考えられるが、ベルリンで生活する人にとってはこの距離は遠すぎる。しかも途中は工事現場であり、迂回しなければならない。このため交通機関を利用することになろう。」と言う。そして「主人公は乗合馬車で・・・市役所前で下車し、歩いて『クロステル巷の古寺』に出たことになる。」と推定する。
 確かに徒歩では1時間ぐらいはかかりそうな距離は長いかも知れない。また、なぜモンビシュウ街への最短距離をとらずに回り道をしたのかという疑問もあるかも知れない。しかし1,「余は獣苑を漫歩して」・・・時間に追われるのではなく、ひまだった。
2,「かの灯火の海を渡り来て、この狭く薄暗き巷に入り」・・・多くの灯火に照らされた大通りからちょっと脇へ入ると一転して古く貧しい裏町だった。
3,「この三百年前の遺跡を望むごとに、心の恍惚としてしばしたたずみしこと幾度なるをしらず。」・・・この教会はお気に入りの場所。ここを見るために今までもよく回り道をした。
4,しかもここでエリスと出会う。
と考えると、植木氏の推測はあまりにも散文的すぎるな〜。
2001/9/15
 ◎国家と青年
授業ではなく新聞からですが・・・毎日新聞「西論風発」にカンボジア難民の青年が日本で苦労して勉強しカンボジアの弁護士資格を取ったという話が載っている。彼は今内戦で混乱した故国の民法を整備するために奮闘しているそうだ。曰く「国の背骨を作るんです。」
 豊太郎を始めとする明治の青年達の事を思った。国家の目標と自分の目標の一致した、ある意味で幸福な時代。国家建設という大きな仕事を担っているという実感を得て彼らの生は「充実」していたに違いない。また国家との一体感を抱けない者にとっても、一つの価値観がはっきりと社会を貫いて在る時代は、生きる上での明快さがあったと思う。
 今の時代は「目標」や「自分の存在意義」が見えにくい時代だ。生徒には「目標を持って」と言ってはいるけれど、「別にしたいことないし〜」「どうせ無理やし〜」と言われると、変に納得してしまう。
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「今日の授業から」 1