| ”Behold,I am coming soon! My reward is with me, and I will give to everyone acording to what he has done. I am the Alpha and Omega, the First and the Last, the Beginning and the End. |
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終る世界 |
大丈夫……。 最後の最期、回帰する居場所程度は、知っているから。 生まれて戻る場所みたいに、回帰する居場所。 そんなものなら、本当は、ずっと前から知っていた。 大丈夫 笑っているから。 最後の最期まで、笑っているから。 だから、貴方も、笑っていて。 |
「まぁ、こんなもんだろうね」 ブラウン管の向こう。騒ぎ立てるアナウンスに感銘を受ける筈もなく、リョーマは抑揚のない無感動な表情で、リビングのテーブルに頬杖を付き、呟いた。 「世紀末は、無事やり過ごした筈だって言うのに」 何の冗談か、世界はその意思とは無関係の部分で、終焉を迎えようとしているらしい。 傲慢な栄華を築き、繁栄を続けてきた人類に対する神の裁きか、人類を自堕落に堕として行く悪魔の画策か。宇宙的な天変地異か、有るいは予測されていた自然の驚異か。どちらにしろ、人類単位ではなく、地球単位の規模で、世界は加速度を付け、一挙に終焉に向かっている。それは当然回避などできる筈もなく、滅びを待つだけだのものだ。 過去存在していた予言者の予言は世紀末の黙示録だったが、それは無事やり過ごした筈が、今は抗えない驚異に曝されている。社会単位でも国家単位でもなく、世界規模の終焉への道標は、誰にも止めようなどある筈もない。 逃げ場など何処にもない終焉は、リョーマにしてみれば騒ぎ立てるだけ無駄だと思えた。 それでも、ブラウン管の向こうでは諦め悪く、数日後に迫っている終焉の回避方法など、ヒステリーに議論している人間が居る事実は、何処か絵空事のようでもあったし、ヒステリーに叫び、無駄だと承知で議論している姿は、終焉を恐れる人間の姿を粒さに曝していて、それは日常の延長線に存在している死だとも思える、滑稽で憐れな二律背反が存在していた。 判っているだろうに、無駄な事だと。無知に騒いでも事態は好転などしないものだ。 時には悟る事も必要な事で、たとえ明日全てが終わるとしても、悟るのと足掻くのでは、迎える一瞬の精神状態には雲泥の差が有る事を、リョーマは理解している。理性的な感情の部分で理解しているのと、足掻くのでは、精神的負担のベクトルは正反対を向くだろう。 「オイ、リョーマ、お前どうすんだ?」 無感動な双眸でテレビを眺めているリョーマに、背後から南次郎が声を掛ける。 ブラウン管の向こう。ヒステリーに騒ぎ立てる評論家や何かを哄笑の笑みで眺め、それでも閑叙な態を崩さない南次郎の姿は、数日後に迫る終焉など何一つ感じさせない。 佇む姿は哀しみも憐れみももなく、ただ有るがままに立っている強さが滲んでいた。 きっと最後の最期、その一瞬まで、決して頭は垂れないだろう強さ。 防衛など知らない、攻め一方の南次郎のテニス形態に、世界が贈った称賛は、『サムライ』という日本独特の呼び名であったが、それはそのまま、彼の揺るぎない精神値の高さと強さの顕れでもあったのだろう。案外称賛は、テニスの技術より、そういったものに贈られていたのかもしれないと、終焉を迎えて気付いた気がした。 現に今も南次郎はリョーマの前で、呆れる程、底の知れない飄々さを滲ませている。 「親父は?」 チラリと背後に視線を投げた空色の瞳は、再びブラウン管に戻って行く。 数日後に迎える終焉を知っても、父親の態度は呆れる程何一つの変りはない。その事がリョーマは可笑しく、そして自分は紛れもなく、南次郎の息子なのだと、こんな時に思い知る。 飄々とした態度を崩さない父親同様、自分も何一つ変れない事を、リョーマは知っているからだ。 終わる世界。それでも、何一つ変れないし、変らない。最後の最後、その一瞬まで、日常は続いて行くものだと、肌身で感じ取っているからだ。変る必要など、何処にもない。 今この状況で認識できる事は、きっとそんな他愛ない事だ。 「母さん、弁当作ってるぞ」 オイルショック以来の騒ぎだと、南次郎はクツクツ嗤っている。尤も、一過性でもない事態は、騒いでも好転などしない。逃げ場のないパニックは、トイレットペーパーや砂糖を買い占めてみた所で、何一つ得るものなどありはしない。 「本気で、ピクニック行くんだ」 リョーマは、つい最近交わした会話を思い出す。 『もし明日世界が終わるとしたら、どうする?』 その質問に、母親は無邪気とも言える笑顔で、『ピクニックに行く』と答えたのだ。 その答えは、何とも母親らしいものだったし、そう思ってしまった時。やはり母親の遺伝子を紛れなく受け継いでいるのだと、リョーマは痛感したのだ。 愚にもつかない問い掛けは、けれどそう問い掛けて大した日数など立たず、事態は急速に変化していた。 錯綜する情報が、事態を尚悪化させる。ギリギリまで公式発表を控えていた政府が打ち出した情報に、世間は瞬時にパニック化する。けれど、どれ程騒いだ所で、事態は何一つの変わりはない。だったらやはり、無駄に騒いでも意味はない。そう悟れる人間ばかりだったら、事態はもしかしたら好転していたのかもしれない。 絶望に直視した時程、持っている本質が出ると言うが、両親はまぎれもなく、自分の製造提供者なのだと、リョーマは思い知る。父親も母親も、呆れる程変わりない。その強さは、一体何処から生まれて来るのだろう、考えれば、計り知れない。 「リョーマ、貴方はどうするの?お弁当いる?」 まるで、世界は続いていくのだと言うように、母親がキッチンから顔を覗かせる。 こんな時まで、母親の笑顔は何一つ変わりなく、明日も明後日も、この笑顔に迎えられるのだと、疑いようもなく信じていられる。たとえ世界が終わってしまっても。母親は、まさしく母親と言う事なのかもしれない。 「ん〜〜〜」 ヒラヒラと横着に手を振って、リョーマは答えた。 「桃城君の分もね?」 「勿論」 「彼氏迎えに行くってか?」 「当然」 疑問も何も必要とはされない問いだ。迎えに行く。ただそれだけだ。 「待ってろって、言われてんじゃないのか?」 小生意気な口調と態度。けれど、リョーマの本質を見誤る事なく見抜いた桃城だから、その慎重さは、時には南次郎が呆れる程のものだった。 他人に感情を預ける意味を知った息子を、桃城はとても大切にしていくれている事を、南次郎は知っている。それはもしかしたら、リョーマ以上に、桃城の身の裡に有るリョーマへの想いを、理解しているのかもしれない。 「華を持たせて、こんな時はおとなしく迎えに来てって言うもんだって、言ってたけどね」 それも先日交わした会話だ。こんな事態になる事など、予想などできる筈もなく交わした会話。 「そんでも、迎えに行くってか?」 お前間違えなく俺の息子だな、南次郎は勝ち気な息子の性格にクツクツとした笑みを漏らしている。 「辿り付くって、言ったんだよ俺」 「ホ〜〜〜」 「最後の最期には、ちゃんと辿りつくって」 腕の一本、脚の一本千切れて失っても。 「じゃないと、アノ莫迦は、成仏しなさそうだし」 勝手に死ねないし、死なせない。大した独占欲だと苦笑しかできない。ろくに応える言葉も与えなかったと言うのに。 「最期くらいは、素直になるって?」 「まさか、素直な俺なんて、桃先輩却って狼狽しちゃうよ」 「素直なお前ねぇ」 クツクツと、やはり南次郎は笑っているばかりだ。 南次郎に言わせれば、桃城といる息子は、誰といる時より素直に映っていたし、きっと桃城も判っていただろうと思う。気付いていないのは、当人ばかりだ。 「リョーマ、桃城君迎えに行くんでしょ?ハイ、コレはその時のお弁当。それと、取り敢えずありったけの材料で作り置きしたから、程度は日持ちするものばかりだし。適当に食べなさいよ」 適当に食べなさい。この局面で、それでも生存本能に直結する食を欠かさないと言う事は、何とも母親らしい。 「母さん達、デートだから」 この局面で、やはり倖せそうに莞爾と笑える母親は偉大だと、リョーマばかりか南次郎も愛妻の笑みに、そう思った。 「そうだリョーマ、最後だから、お前の聴きたがってた事、教えてやる」 「何?」 立上がり掛けたリョーマに、南次郎が意味深に耳元に口唇を寄せると、擽ったいのか、リョーマは首を竦めた。 「何だお前、ココ弱いのか?」 笑うと、南次郎は耳朶に息を吹き掛ける。 「息子相手に何しやがる。クソ親父」 即座に肘鉄が飛んだが、南次郎はヒョイっと綺麗な動作でソレを避けると、 「エッ?」 避け際、低い声で囁かれた科白に、リョーマの動きが止まった。 「まっ。そういうこった」 半瞬、驚いた表情を見せたリョーマに、南次郎は悪戯が成功した悪ガキのような笑みを向けた。 「フーン」 父親が何故テニスをやめなくてはならなかったのか? 幾度訊いても教えて貰えず、はぐらかされて来た答え。それが最後の最期に判った。 「それじゃ俺、桃先輩迎えに行くから」 今出て行ったら、下手をしたら、もう二度と会えない可能性は有った。けれどそれに対しての感慨もなければ、感傷も湧かない。湧かない事が、不思議だった。もう二度と、帰ってはこられないかも知れない場所。それでも、向かうのだ。たった一つの場所に。 「リョーマ」 「何?」 キッチンから出てきた母親に、リョーマは向き直る。 「彼氏によろしく」 「ん」 短い返事の後、不意に抱き締められた。 「ありがとね」 リョーマのルーツを綺麗に顕す母親は、泣き笑いの表情でリョーマを送り出した。 その科白の意味を、リョーマは正確に理解していたから、 「Thank you」 流暢な発音で、笑顔を見せ、走り出して行く。 「行っちゃったわね」 ヒラヒラ手を振り、まっすぐ駆け出した息子の背を眺め、感慨深げに呟く愛妻に、 「あいつも、男だって事だな」 相変わらずクツクツとした笑みを漏らし、愛妻の肩を抱く。 「俺らは、ピクニックに行くか」 最後だし。 「そうね、南次郎君の好きなお弁当作ったし」 旦那の科白に、リョーマの背中を眺めていた母親は、綺麗な笑顔を見せた。 「武、貴方どうするの?」 キッチンの奥から顔を覗かせた母親の、事態に反して何処かおっとりした声に、桃城はテレビのリモコンのスイッチを切って立ち上がる。 「越前のとこ」 迎えに行くと行ったけれど、おとなしく家で待っている性格ではない事くらい、桃城は嫌と言う程判っている。 「あらそう?外は危ないから、気を付けなさい」 危ない処の騒ぎではない。世界各地で怒った地震は未だ余震が続いているし、海岸線は津波が警戒されている。青空を失った天は、灰色の雲が広がるばかりで、リョーマの瞳を思わせる空色は、今は失われている。 「親父は?」 帰ってくる答えなど判りすぎる程に判っているけれど、取り敢えず訊いてみる。 もう二度と、この家に帰って来る事は、ないのだから。 そう思えば、自分を14年間育んでくれた家と言う居場所に、幾重かの感慨が湧く。 どんな時も、決して自分を拒絶する事なく、鷹揚に受け入れ、受け止めくれた居場所。 それは家という場所ではなく、家族が在る居場所だから、常に血の通う温もりが在った。 どれ程自分は愛されていたのかと思える。 自分を愛してくれる家族に、自分はどれ程愛してきたか? 不意にらしくない感慨が湧く。 背比べをした柱の傷。忙しい父親は、それでもたまの休みには釣竿を持って、釣りに連れて行ってくれた。優しい風が、懐かしい感触が、肌身の奥で甦る。 柔らかい母親の声に、料理をするリズムを刻む包丁の音。優しい空間。騒がしいけれど、自分を慕ってくれる弟妹達。 「決まってるでしょ?お父さんは、東京の治安を守ってるわよ」 警察官だから。 何とも誇らしげに笑う母親が、桃城には誇らしかった。 忙しい特殊な勤務形態だけに、父親が家に居る事は、世間の父親に比べれば格段に低い。それでも、母親が愚痴を言った事を、桃城は聴いた事がない。おっとりした外見に相反し、決して女性には褒め言葉にはならないだろうが、外柔内剛なのだろう。 「貴方は、貴方の道を行けばいいの。お父さんも、そう言ってるわよ」 息子が、後輩を可愛がっている事は知っている。けれど、多分その意味合いは、もっと別の方向で深いものを持っている事を、桃城の母親は薄々感づいていた。 「ありがとう」 いつもなら、照れが先立ち、中々素直に出せない言葉だ。 とても綺麗で、大切な言葉。今なら、素直に言える。 「どういたしまして」 息子の科白に、やはり母親は莞爾しとた笑みを綺麗に浮かべて答えた。 もう二度と、会えないのかもしれない。けれど、大切なもの見付けた息子は、とても大きく見えた。誰かを大切にする事で、上辺だけではない大切と言う言葉の意味も、理解したのだろう。 そんな息子の成長して行く姿を、母親として見ていたかったと思わないと言えば嘘になる。けれど、引き止める事はできなかった。 彼もまた、父親同様、大切なものを守る為に、走り出して行くのだから。そんな息子が、らしいのだから、笑って送り出す事しかできなかった。 自宅から一歩外に出れば、地震によってできた亀裂が、アスファルトには生じている。余震の続く今、何処に逃げても、安全地など有りはしない。だったら、やはり自分の思う道を、走りたいと思うのだ。 瓦礫が散乱する道。逃げ惑う人々。けれど何処に逃げても安全など確保できないと知れた今、パニックになった人々が叫びも空しく叫んでいる姿が眼に付いた。 「コラッッ!越前ッ!」 「桃先輩」 自転車など、亀裂の走るアスファルトの上を走るのは、転ぶようなものだから、桃城は通い慣れた道を走っていた。そして前方から走ってくる見慣れた華奢な姿を見付け、叫んでいた。 光の差さない、雲に覆われた空。散乱する瓦礫。空しい叫びを虚ろに叫ぶ人々。けれど桃城とリョーマは、互いに癪になる程、何一つの変わりがない。ない事が、互いの姿を見咎め可笑しい程で、最初に笑ったのは桃城だった。 「腹立つ〜〜」 半瞬拗ねたリョーマは、けれど次にはやはり桃城と変らぬ笑みを見せた。 「お前、迎えに行くから、待ってろって言っただろ」 それがリョーマに、一つも効力などないと、告げた桃城自身、嫌と言う程理解していたから、こうして走ってきたのだ。 「俺も言ったスよ。辿り着くから大丈夫だって」 最後の最期には、ちゃんと辿り着く。その程度の居場所くらい、知っている。 回帰する居場所程度。 「腕の一本、脚の一本失くしても、辿り着く場所くらい、知ってるよ」 リョーマの科白に、笑顔のままに開かれた桃城の口唇が停止し、深い眼差しが、眼前の綺麗な貌を凝視する。 「自分で思ってるより、結構想わてたなんて、知らなかった?」 悪戯を仕掛けた子供のように、白皙の貌を突き出し、 「だから大丈夫って、言ったんだよ」 マダマダだね、リョーマは綺麗な笑顔を見せた。 「ったく、お前は」 「ちょ〜〜」 「どうせ誰も自分の事で手一杯で、俺達の事なんて気にしてないさ」 往来で抱き合う行為に、リョーマは少しだけ呆れと躊躇いを混在させた抗いを見せたが、桃城は、気分いいんだから黙ってろと、腕にした細い躯に、少しだけ力を込め、抱き締めた。 「この甘ったれ」 リョーマは大仰に溜め息を吐くと、桃城の後頭部に回した腕で、コツンと柔らかく叩いた。 「んっ……」 幾度も番い極め、気怠い躯を抱き合い目蕩み、気の向くまま、互いの肌を貪婪に貪る行為に没頭する。けれど其処に在るのは、可笑しい程緩やかな柔らかい想いばかりで、終焉を迎えつつある社会からは、窓ガラス一枚で隔絶された空間には、焦燥も恐怖も感じられはしなかった。其処に在るのは、きっと最後の最期まで、優しい想いしか残されはしないだろう。 「大丈夫か?」 「もっとだよ、桃先輩」 最期になると言うのに、相変わらず気遣ってくる悪党に、リョーマは情後の色香を纏い付かせ、ねだるままに細い腕を桃城の背に爪を立てて行く。 ズルリと擬音を付き抜かれていく萎えた肉棒に、爛れ充血しきっている肉の内側は、否応なく刺激され、桃城を挟んだまま淫らに開かれた下肢は、更にねだって桃城に絡んだ。 その淫らさに、苦笑する。とても12歳のする仕草ではない。慣れたその淫らな仕草は、自分の慣らしてしまったリョーマの性なのだと思えば、時折下らない罪悪に苛まれる。 けれどリョーマは桃城のソレを許さない。 「飛ばしすぎだぞ」 寺に在るとは思えぬ程整備されていたコート。けれど今は無数な亀裂が入り、凹凸になっている。その場所で、クタクタになるまでテニスをして、リョーマの母親が用意してくれた料理を食べ、シャワーを浴び、今はこうしてベッドの上で抱き合っている。 「桃先輩の両親は?」 散々に番う躯は、もう気怠さを通り越している。それでも、互いを決して手放せないから、緩やかな抱擁に抱き合い、啄む口吻を繰り返している。 「お袋は家に居る。相変わらず、料理しているよ。親父は、東京の治安守ってる」 「すごいね」 桃城の父親が、警察官だと以前聴いた。あと数日で終わる世界。益々自棄になっていく人間の起こす犯罪は、後を立たない。その社会の治安を、桃城の父親は守っているのだとしたら、並大抵の強さではない。そしてそんな旦那不在の家を守る母親も、並大抵の強さではないのだろう。 「アア」 おっとりした母親の内面の強さは、今も計り知れない。 「お前の処は、デートだろ?」 「ってより、ピクニックみたいよ。母さん、朝から大量にお弁当作ってたから」 「らしいな」 何度か面識の在るリョーマの母親らしい行動だ。 「俺達は、だからこうしてるんだよ」 それがきっと、自分達らしいのだろう。 「そうだな」 だからもっととねだる仕草に、桃城は苦笑し、深く口吻た。 「ぅん……桃先輩…」 「リョーマ」 情事の最中だけ、呼ぶ事を許されたリョーマの名前を、密やかに桃城は口にする。 いつもとても慎重に、桃城はその名前の在処を理解するように、口にしていた。 「笑ってよ」 スルリと、背から首筋に回った腕は、ゆっくりと桃城の両頬を包んで行く。 生温い熱が、ゆっくりと満たされて行く気配や感触が、在った。睦み抱き合う情交の中。 切羽詰まった衝動的な行為が存在しない事が、不思議だった。 隔絶された内と外とは家、一歩家から出れば、外は壊れた世界だ。それでも互いに抱き合う腕が優しいから、満たされていくのかもしれない。 「お前は?」 いつもいつも、そう望み、願ってきたリョーマの笑顔。 淡い蒼の瞳は、空の色だ。今は灰色に閉ざされた雲の向こうは、やはり綺麗な蒼が広がっているのだ。その綺麗な蒼い瞳で、笑っていて欲しい。そう願い続けてきた。 極時折言葉に出されたそれを、けれどリョーマは明確に理解していた。 「笑ってるよ」 その瞬間、リョーマが見せた笑みは、柔らかく桃城を包み込もうとするものだった。 きっと初めて見せるだろう、柔らかい笑み。桃城が掲げる言葉に出される事の滅多にない願いの在処など、判っていると言うかのように、リョーマは笑っていた。 「最初で最後の特大だからね。覚えててよ、桃先輩」 だからあんたも笑ってよ。リョーマはそう笑う。 綺麗で柔らかくて、そしてやはり小生意気な笑みは、何処までも桃城を倖せにするものでしかなかったから、桃城は組み敷いた華奢な躯を抱く腕に、力を込めた。 愛してる……。 互いに滅多に口にする事のない綺麗な言葉を交わし、口吻た。 最後の最後まで、互いを離さないありったけの想いと強さを、二人は抱き締めていた。 「ん………」 覚醒した瞬間。桃城は自分の在処が判らないという、正体の判らない不安に襲われ、らしくなく周囲を見渡した。 「越前……?」 腕の中。抱き締める腕に力を込めた感触が、嫌にリアルだった。 喪失する世界。終わる世界に、互いを話さない強さを、抱き締めていた筈だ。そして今、リョーマは腕の中にいる。けれど、状況が違う事だけが、根拠もなく桃城には呈示されていた。 らしくなく、周囲を窺うように鋭く視線を走らせる。 腕の中には肌かのリョーマが居て、確実に睦んだ感触が肌身の奥を奥に残されている。 けれど、違うのだと、身の裡の奥を差していく気配や感触がやはりリアルで、桃城は周囲の気配に神経を研ぎ澄ませた。 ベッド周囲に脱ぎ散らかせれている衣服は、見覚えのあるものばかりで、リョーマが着ていたものは、淡いピンクのTシャツだ。それを見た瞬間、桃城は状況を思い出した。 「夢……かよ……」 夢と言うには余りにリアルな感触が残滓されている。取り交わした会話、抱き締めた感触。抱いた感情の端々まで。現実と夢の境界線が、不意に不明瞭になって行く錯覚が、肌身を嬲る。 浸食されて行く気分だ。現実が夢に? そう考え、桃城は苦笑する。苦笑し、腕の中。身動ぎする感触に、視線を戻した。 「越前……?」 疑問符を付け呼ばれた名前。目尻の端に浮かんだ雫。桃城初めてリョーマの涙を見ただろう。 「オイ、越前」 柔らかく、慎重に揺り起こす。 「……桃…先輩………?」 掠れた声は、押し殺した声で、散々に喘いだ結果だろうが、覗き込んでくる桃城を、リョーマはひどく不思議そうに凝視している。 「どうした?」 こんなリョーマの態は珍しい事で、無理を、させてしまっただろうかと、桃城は不意に不安になる。けれどそんな気遣いをリョーマは嫌うから、大丈夫とは言葉に出せない気がした。何せ夢の中でもそう言っては、反対にねだられてしまったのだから尚更だ。 「桃先輩……?」 不思議そうに桃城を眺め、細い声で尋ねる仕草に、益々桃城は不安を煽られて行く。 「オイ、お前、大丈夫かよ?」 「……夢……?」 心配する桃城をよそに、リョーマは周囲を見回し、最後に視線を戻し、独語した。 「お前さ、もしかして、夢観てたか?」 リアルに感触が惨死されている夢の欠片を、リョーマも持っているのかもしれない。 「桃先輩も?」 普段なら、きっとリョーマは一笑に伏しただろう。けれど、今夜は何かが違う気がした。 周囲に流れる空気の色や何かが、違ったのかもしれない。 肌身の奥の奥に残されている夢の欠片は、哀しくはないけれど、淋しくはないけれど、それでも、やはの切ないものが滲んでいた。 終わる世界。崩れていく時間。失われてしまう、大切な人。笑顔でいろと笑う桃城の笑 顔だけが、胸に痛い程鮮やかだった。 「同じ夢、観たか?」 「って言うより、何か………」 コトンと、リョーマは珍しく甘えるように、桃城の肩口に顔を埋め、思案するように呟いた。 「夢ってより、何か違うか?」 少しだけ汗ばんだ髪を梳けば、リョーマは擽ったそうに細く薄い肩を竦めた。 「何か、何処か違う世界の俺と桃先輩を観たって感じが…」 適格ではないだろうけれど、それが事はにするなら一番しっくり気がした。 「並行世界か……」 リョーマの科白に、桃城も同感だったのだろう。髪を梳きながら、思案気に頷いた。 「ねぇ桃先輩。笑ってよ」 埋めた肩口から顔をあげ、ジッと桃城を凝視する。 「やっぱ同じ夢か」 灰色の空に覆われていた世界のリョーマは、けれどその瞳は、やはり綺麗な空の色をしていた。 「アレだな。英二先輩と不二先輩が、あんな事言うからだな」 そしてリョーマは、珍しくも今夜は感傷的だった。それが何故かは判らないけれど、リョーマの精神の何処かに、引っ掛かるナニかが在ったのだろう。 崩れて行く日常の世界。笑って泣いて、テニスをして。その延長線で失われて行く世界。リアルな死。 「そいやお前、待ってろって言ったろ」 「だから言ったスよ。辿り着くからって」 最後の最期には、ちゃんと辿り着いて…。 腕の一本、脚の一本、千切れて失ってしまっても。最期にはちゃんと辿り着く。 「やっぱり、俺達らしかったスね。テニスして、セックスして。世界が終わるのに、日常してたから」 「そうだな」 今と何一つ変らない、隔絶された室内での行為は、終わる世界の中でさえ、呆れる程、日常だった。 「やっぱ、空色だな」 「何?」 「お前の瞳」 「好きだね、桃先輩。俺の眼ぇ好き?」 時折、思い出したように言われる科白。今まで誰も気付かれる事なく過ぎてきた瞳の色。 それはこうして至近距離で、見つめなければ判らない、極薄い蒼だからだ。 「灰色の空で、でもお前の瞳だけは綺麗な空色だった」 「だから詐欺師」 サラリと言われてしまっては、反駁も莫迦莫迦しくなる。 所詮手練手管の悪党に、口で勝てる筈もない。 「笑ってろよ」 「桃先輩もね」 やはり今夜は何処か可笑しいのだろう。互いに言葉に出さないで過ぎてきた部分が、今夜き綺麗に露呈している。やはり浸食されている気分が濃厚だ。 夢が現実に、現実が夢に。けれど悪くない気分だった。 一夜の夢と、溺れてしまう事は簡単だ。 取敢えず付き合っているという言葉は、もう今では何一つの言い訳にもならない。ココまで相手を立ち入らせてしまえば。感情を預けて甘えてしまえば、そんな建て前向上など今更だ。 「越前、夢の中の俺達、最期になんて言ってた?」 腕の中。無防備な態を曝しているリョーマに、桃城は意味深に笑い掛けた。 「桃先輩こそ」 桃城の科白に、リョーマも意味深に笑い、 「愛してる」 滅多に言葉にされる事のない、綺麗な、美しい言葉。 初めて、その言葉が綺麗な言葉だったのだと、二人は気付いた。 「詐欺師」 リョーマはクスクス笑うと、ねだるように細い腕を桃城の首に回す。 「お前は天性の人タラシだ」 ねだる仕草に、けれど不思議と情事の最中の妖冶さがない。無防備な笑みで向けられる想いの深さに、桃城も笑って応えた。 世界は未々終わらない。時間は未来へと続いているものだ。何より平凡な日常が大切で、それは未来へと続く時間だ。 抱き締める互いの腕の中、掌の中に在るのは未来への道。
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