| 旅の途中 side:MR
Youthful days
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始まりは頼りない程
何もない場所からだった 今振り返れば 後ろに長い道が続いている 瀟洒な白亜を思わせる都内のマンションは、けれどその内部は厳重なセキュリティーにガードされて いるのだと、外観だけを見るなら、その瀟洒さから思わない代物だろう。それでもそこは確かに幾重もの セキュリティーに守られ、登録された者しか、内側へと入ってこられないシステムを誇っている。それは そのままイコールで、人同志の内と外を無言に語る、境界線とよく似ているのかもしれない。 何かと物騒な事象に合わせ、最近のマンションはセキュリティーが売り物になっている物件が少なく はない。低価格と危険を秤に掛けても、誰もが安全な生活を手に入れたいのは当然の結果だろうから、 最近のマンションは、危機管理システムが目玉になっている。個人識別認証システムも、虹彩や指先 の血管を利用したものが、最近はセキュリティーガードシステムとして投入されている。 生活の拠点が今ではほぼアメリカになっているというのに、彼等は今でも時間ができれば日本に帰国 するから、交通の利点を考慮した結果購入したのは、実家の青春台から電車で20分程度の距離にあ る、けれど都内というに間違いのない環境だった。それでも都心の華やいだ不夜城のネオンは届かな い、閑静な住宅街の中にあるマンションだった。都内とはいえ、何処もがネオンに溢れた人工光で賑わ っているばかりでない以上、案外閑静な住宅街も多いのだ。 極親しい人間だけに帰国を告げる以外、訪れる人間もさほどいない彼等が選んだマンションは、中学 時代から付き合いのある先輩達には、溜め息混じりに呆れられてしまった2LDKだ。 男二人で2LDKもないだろうと言う英二達の意見は正しいものだろう。世界を転戦する彼等にとって、 帰国と言えど、年に数回だったから、確かに生活の拠点としての生活品は、あまり取り揃える必要に迫 られないものだったのかもしれない。とはいえ、同年代の英二達から見れば、年収が億に近い稼ぎを弾 き出している後輩達の生活場所にしては、それはそれで、質素すぎるものだろう。 リビング以外の室内は、キングサイズのベッドが一つ在るだけの空間だ。テレビもリビングに小さいも のが一つ。他にCDコンポがあるだけの、いっそ生活感が微塵もない殺風景な空間は、けれど間違えよ うもなく、彼等の安住の場所だった。他に在るものと言えば、冷蔵庫と、極小さい食器棚だけだ。それが 意味する所を、中学時代からの付き合いである英二達は、間違えない。この空間は隠しようもなく、桃 城とリョーマの箱庭なのだ。それでも、以前のように、他との接点を、まるで拒むような殻に閉じこもった ものは感じられない。それが英二達をホッとさせたことを、きっと桃城は気付いていても、リョーマは気付 いてはいないだろう。 「越前〜〜行くぞ」 淡い照明が、高い天井から降り注ぐ玄関先。靴を履きながら、ひどく穏やかな桃城の声が、未だリビ ングから姿を見せないリョーマを呼んだ。 夏に向かう季節の夜は、熱帯夜とは言わないまでも、毎日少しずつ気温が変化していく。あと一ヶ月 もすれば、熱帯夜が訪れるのは確実だ。それでなくても地球温暖化現象を抑制する決定的な手段を持 たない人類は、壊れていく地球になす術もなく、毎年真夏の平均気温は上昇傾向にある。それでも、こ うしてゆっくり少しずつ季節は夏を迎え、熱狂する季節が巡ってくるのだと思えば、それはひどく綺麗な 円環だと桃城には思えた。 「待ってよ桃先輩」 淡いパステルのTシャツの上に、黒い綿の長袖を引っ掛けた恰好のリョーマが、桃城ののんびりした 声と変わらぬ呑気さで、欠伸混じりにリビングから歩いてくるのに、桃城は苦笑する。 リョーマのこういう無防備な部分は、何年経っても変わらない。そのテニスの才同様、リョーマは今で も綺麗なままだ。 以前は研ぎ澄まされていくばかりで、まるでリョーマの身の裡の何処かと引き換えに冴えて行くかの ようだった天からの才は、いつの頃からか、リョーマは不安定な要素を落ち着かせた。そして同時に、 益々磨き抜かれた切っ先のようなプレイをするようになった。けれどそこに、以前は感じた脆弱なものは 一切ない。冷ややかな熱を灯すプレイは安定を見せ、益々強くなっていく。 それが愛しいと思えば、よく半年近く、リョーマと離れていられたものだと過去を振り返る。それも離別 を覚悟した冷却期間だったから、むしろあの期間が、自分達を成長させたのだろうと、桃城は疑っては いなかった。 1LDKの小さい箱庭のような空間は、浴槽程度の楽園だった。室内に在ったものと言えば、今と変わ らぬキングサイズのベッドだけだった。当時はテレビさえ必要としなかった。小さい冷蔵庫が一つ、食器 棚なんて気の利いたものさえ置かなかった。帰国してすることは、朝から晩までセックスだけで、食事も ベッドの中でした。寝るという行為は、セックスに溺れ、意識を喪失する行為だった。そして目覚めれば、何かに追い立てられるように、躯を繋げた。まるでそれだけが、生きている証しだとでもいうように、リョーマは求めてきた。求めながら、怯えて引き攣り、躯を繋げ番いながら、見えないものに泣いていた。 浴槽程度の広さしかない持たない、箱庭。神様が作った男と男が二人。何も生み出すこともできない セックスに溺れていた。閉じられてしまった環の空間。殻の中に閉じ籠ったようなリョーマとの生活も、 悪くはなかった。一時を惜しむように抱き合い、セックスを繰り返して。垂れ流しにされる現実に戻るま で、夢のような時間を、そうと割り切って過ごすことができたら、それはそれで、桃城には甘受できるも のだった。けれどリョーマは違った。 中学当時の幼い恋情を引き摺って、大人になってしまったリョーマに、桃城のようなオンオフの切替え スイッチは乏しいものだった。元々一極集中の思考回路しか持たないリョーマだったから、テニス以外 の執着のすべてが桃城に向かっていた時点で、それはリョーマにとっては危うい代償でさえあった。 それでもテニスをしていられたのは、ある意味奇跡に近いものだっただろう。 だから桃城は離れた。リョーマの未来を思うなら、自分の存在は簡単に切り捨ててしまえるそれが、 桃城の愛し方だった。 箱庭のよう空間だけを望むようになってしまっては、二人の未来に先はない。夢のように綺麗な没落 の時間など、垂れ流しにされていく現実には有り得ない。あるとすれば、それは破滅だけだった。 人が人である限り、その変容は止められない。死体だって変化するのだ。人だったものが徐々に土へ と還る過程を経て、人ではなくなっていくように。だとしたら、生きている人間にとって、変化はまさしく生 そのものの筈だ。やがて到達する終焉に向け変化していく生は、生きているということだ。 だから桃城は、例え憎まれても、どれだけリョーマを泣かせる結果になっても、リョーマから離れた。 あの一時の冷却期間が無ければ、きっと現在の自分達は存在しなかっただろう。そしてリョーマはきっ と、緩やかに正気を失い、壊れていった。そんな選択を、リョーマにさせる訳にはいかなかった。 「王子様が、欠伸なんてしてていいのか?」 呑気に欠伸しているリョーマに、桃城は微苦笑する。 テニス後進国の日本に於いて、リョーマや桃城達の存在は、マスコミでは奇跡の世代と言われて久し い時間が経過していた。その中で、リョーマ個人を指し示す渾名は、『テニスの王子様』というものだっ た。それは中学当時、リョーマに憧れを抱く女子達により呼ばれ始めたものだったが、今ではマスコミの 記者連中も、それに倣ってリョーマをそう呼んでいる。そしてリョーマには、そう呼ばせてしまうカリスマ があった。 与えられた天からの才。綺麗すぎる容貌。そして父親である南次郎の存在。 最初こそ、そう呼ばれることに抵抗があり、憮然としていたリョーマも、今ではマスコミの連中に何を言 っても無駄だと開き直りの境地で諦めているから、リョーマを知る英二などに言わせれば、大人になっ たと言うことになる。 「俺を組み敷いてつっこんでるケダモノが、何言ってるんだか」 桃城の科白に、リョーマは半瞬、意味深な笑みを刻み付けた。長い睫毛の奥から覗く一揃えの蒼眸 が妖冶に瞬くのに、桃城は苦笑する。 先刻まで散々番っていた胎内の深みには、未だ桃城のカタチが明確に存在している。まるで未だ受 け入れているかのような錯覚すら感じる。それはシャワーを浴びた程度で、容易に胎内から追い出すこ とのできないものだ。 「今夜は出掛けるからやめとけって、俺は取り敢えず言ったぞ」 桃城の苦笑に、リョーマは眠いと一言呟くと、コテンと、ひどく可愛らしい擬音を付け、桃城の肩口に小 作りな頭を預けた。その身長差は、相変わらず変わりない。開きもしないが、縮まりもしない。玄関に立 っている桃城と、玄関の三和土に立っているリョーマで、ちょっとだけリョーマの伸長が高くなる。桃城と 同じ位置に立てば、やはりリョーマは低い。 「だから、やめとけって言ったんだ」 折れそうに細い首が、目線の下に白い項を惜しげもなく曝しているのに、桃城はクシャリと柔らかい髪 を梳いてやる。そうすれば、リョーマは擽ったいのか、ネコが首を竦める仕草に酷似して、薄い肩を竦め た。 リョーマが可愛がっていた愛猫は、もう随分前に他界しているが、しっかり二世を残している。それは カルピンJrと呼ばれ、リョーマが可愛がっていた愛猫と瓜二つの外見と性格をしていたが、そのネコもも う随分歳をとり、今はカルピンにとっては孫にあたる仔ネコが、南次郎と縁側で仲良くしている。当然そ の仔ネコを、リョーマはいたく可愛がり、帰国して暇があれば、このマンションにも連れてくる程だ。 「それでも俺抱いてる時点で、あんたのその科白はアウト」 耳元で聞こえる深い苦笑と、中学時代から変わらない仕草。そのどちらにも、リョーマの神経はあっさ り弛緩する。眠気は去る所か増す一方だ。 「コ〜ラ、寝るなよ」 穏やかな寝息さえ聞こえてきそうなリョーマの様子に、桃城はクシャクシャと柔らかい髪を掻き乱せば、リョーマは目線だけを桃城に向けてきた。そこに妖冶な気配は微塵もなく、無防備な光彩が、桃城を 見上げている。 「ねぇ?」 「ん?」 「来るかな?」 「そりゃな」 小首を傾げ、問い掛けてくるリョーマに、桃城は優游に笑う。 約束をした。もうそれは随分前の出来 事で、思い返せば懐かしいばかりの、眩い光に囲まれている優しい記憶だ。それでも、あの中学生当 時がなかったら、今の自分達はいなかった。 青学で教えられた、与えられた沢山のすべて。それは生涯掛けても、到底返しきれるものではなかっ た。優しい人達と優しい場所。いつだって思い出すのは、あの優しい空間であり、それを形成していた 人達だった。思い出すなら、あの時を思い出す。その有り様を教えてくれた場所。育んでくれた人達。 厳しい人達が、不意に見せた優しさ。優しいばかりの人達が、不意に覗かせた厳しさ。あの柔らかい 場所が無ければ、リョーマと出会うこともなく、きっとプロになることもなかった。今の自分を支えている 根幹に位置している、優しい人達。 「覚えてると思う?」 そう尋ねながら、覚えていない筈はないという根拠のない自信が、リョーマにはあった。 自分がこうして忘れていなかったように、優しい人達も、忘れてはいないだろう。 優しく柔らかい人達。懐かしい記憶。けれどそれは、触れれば消えてしまいそうな、しゃぼんのような 脆弱さは一切ない、輝くばかりの強さに囲まれたものだ。 「覚えてるさ」 「俺達が、忘れてなかったんだから?」 自分達より遥かに記憶力の発達している彼等が、忘れているとは思えなかったのは、リョーマだけで なかったから、桃城は子供をあやすように小さい頭をポンポンと撫でてやれば、リョーマは憮然となって 離れていった。 「ホラ行くぞ」 「ねぇ、桃先輩」 靴を履きながら、リョーマは不意に悪戯を思いついたように、桃城を眺め見上げた。 相変わらず頭一つ近く、桃城は背が高い。中等部を卒業した桃城がプロを目指し留学している間、自 分もそれなりに背が伸びた。だから再会した桃城とどれだけ伸長差が縮んだかと思っていた期待は、け れど一年遅れで同じテニススクールに留学した時、呆気なく打ち砕かれた。桃城も背がしっかり伸びて いたから、相変わらず伸長差はあまり中学時代と大差はない。 「ファンタ買って」 あの柔らかい季節の軌跡を、拾い集めるかのように。 「自転車で、行くか?」 久し振りに、そんなのも悪くないだろう。中学当時を思い出し、大切な人を後ろに乗せて。そして大切 な人達に会いに行くのだ、二人で。
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