ハライセ-The Counter Of Love-

    ―― 逢情。――

    作:狂人(クルートー)            




 1/

 ――沈む。一面の闇、底なしの暗黒に、融
けるように沈んでいく。
 閉じた瞼に視界はなく、四海はあまねく闇。
 冴えたまま、深く深く眠りに墜ちる。
 身体を休める眠りじゃない。
 これは、意識への旅。
 喧騒と葛藤に満ちた外側から、内へ、内へ、
潜りながら身を削る。深い場所へ辿り着ける
のは、私のひとかけらだけ。
 そうして私は、眠りの中で一粒の結晶にな
った私と対話する。
 正座のまま、正面に気配を感じる。
 闇の底に待つ、私の純粋。
 私の一番深い場所に居る私は、世界とあま
りに遠い故に、世界に対して揺るぎない。
 対して、外に生きる式(ワタシ)は、世界
との摩擦に容易く足元をすくわれる。
 膝が笑って、覚束無い。
 たった一つの、小さな世界に翻弄されてい
る。黒桐幹也という世界に。
 それは強いわけじゃない。恐ろしいわけで
もない。
 ただ、近い。気がつけば呑まれてしまいそ
うなくらいに近くて、体験したことのない距
離に、私は何故か萎縮してしまう。
 怖いのは幹也そのものじゃなく、幹也に対
してそんな風に構える、自分の在り方。
 モノクロームのように味気ない世界の中、
どうしてあいつだけが違うのか。
 いや、何故私は“違わせる”のか。
 濃密な闇の中で、問い続ける。
 どうすれば、私は幹也と対等に、まっすぐ
になれるのか。
 幹也と向き合い、語らいながら、考えても
考えても答えは出なくて。
 だから私は内へと閉じて、この闇の中で揺
るぎない私へといつも問うんだ。
 外で迷う私には無駄がある。斑で曇ってい
る。闇の中、小さく、儚く、鋭く砥ぎ尽くさ
れた私なら、どう答えるのか。
 けれど、迷いという距離が、私に私の声を
届かせない。向き合い、感覚を澄ましても、
答えが聞こえたことはない。
 それでも諦められずに、濃い暗がりの中で
意識(メ)を開く。

「――え?」

 闇の中、私の前に私はいない。
 呆けた私を表情のない顔で映すのは、

「幹、也?」

 どうして、ここで。こんな場所まで来て。
 おまえは、私を、見るんだ?

「あ……」

 心が乱れる。駄目だ、闇が壊れる。
 この闇は、揺るぎない私の住処。
 心が揺らいでしまえば、拒絶される。
 ああ――闇を追われた心が光を求めて、瞼
が自然に開く。

「――ちっ」

 舌打ちをする瞬間には、私はもう外に還っ
ていた。変わらないのは、仰々しい正座の姿
勢だけ。もう一つ、憂鬱に溜息をつく。

「……オレの中にまで出てくるなっていうん
だ。図々しいぞ」

 本当は、アイツが図々しいんじゃない。
 私が女々しいだけだ。 
 でも、もう瞑想はいらない。
 私は、幹也に向き合った。そっぽを向いて
いた顔を、無理矢理に引き戻した。
 闇の中じゃなく、騒がしい現実の中で。
 きっと私の人生の中で一番に、乱暴でリス
クの大きな賭けをした。
 その結果を。訪れるものを待っている。
 解放と破滅が、等しい確率で降りかかる。
 だっていうのに、不思議なくらいに心は落
ち着いている。
 正座や瞑想のせいじゃない。
 長い間凍りかけていた私達の時間が、形は
どうあれやっと動き出したんだ。
 破滅への不安と同じくらいに、これから変
わっていく世界への期待がある。二つの波が
寄せ合って、水面を静かに整えている。
 でも、胸の鼓動は隠し切れずに、密やかに
鳴り響く。

「来るの? 来ないの? ……幹也」

 結末を手に握っているのは幹也。
 あと一時間。
 アイツが来れば、なにかが変わる。
 来ないなら、きっともう会うことはない。
 両極端の幕切れ。確率は平等。
 でも、私が望むのは、もちろん変化だ。
 幹也は、来るだろうか。
 あの電話を聞いて、疑心暗鬼のままここへ
来たら、私になんて言うんだろうか。
 少しは動揺する? それとも白を切る?
 もっとも、とぼけるなら徹底的に追い詰め
てやるけど。
 あののほほんとした顔が歪むのを想像した
ら、なんだかくすぐったい気分になる。
 このところの躁鬱の繰り返しが馬鹿馬鹿し
くなるくらい、心が躍っていく。
 だって、きっとアイツに逢える。
 他の誰でもなく、私に逢いに、幹也が来る。
 もう随分長く、二人きりで話していない。
 言ってやりたいことは山ほどあって、なに
から話していいかわからない。
 面と向かうと、私のほうが混乱してしまい
そうだ。
 でも、それじゃ今までと同じ。
 私のほうから臆して身構えるばかりじゃ、
なにも変わらない。
 変わるのを待つんじゃない。
 私が、変えるんだ。
 うん、決めた。今日は私が攻める番。
 この胸に溜まったものを全部ぶつけて、幹
也をたじろがせてやる。

「――ん」

 心が定まると同時、揺れていた胸の鼓動も
落ち着いた。
 なんだ、精神統一って、こういうコト。
 こうだって決めちゃえば、後は揺るがない。
 やれそうだ。
 長らく先送りにしてきた決着を、今日こそ
形にしよう。
 決着。なんだかヘンな感じ。
 あのアラヤとの遣り取りにさえ、これほど
の緊張はなかったのに。命を削るわけでもな
い今日、私は、震えそうなくらい昂ぶる。
 いや、女にしてみたら、これだって一つの
命懸けだ。この恐れは、きっと正しい。
 それだけの重みを持つ再会だから――
 目は逸らさず、強い心で迎えよう。

「お嬢様。黒桐様が、お越しになりました」

 静かに響く秋隆の声を、息を乱さずに受け
止める。
 アイツが、来た。

「ここへ通せ。通したら、下がれ。お茶もな
にもいらない」
「畏まりました」

 遠ざかっていく足音を聞きながら、一つだ
け深呼吸する。密やかな安堵を吐き出す。
 ひとつめのステップは成功。顔も見ないま
まお別れなんて未来は避けられた。
 でも、私達はまだ始まってすらいない。
 これから、すべてを変えていく。
 さあ、早くここへ――幹也。
 それでも、やっぱりどこかに不安はあった
のか。指は、懐に忍ばせたナイフへ縋るよう
に触れていた。

「こちらです」
「ありがとうございます、秋隆さん」
「お嬢様がお待ちです。それでは、失礼いた
します」

 襖越しに語らう声。ひとつは秋隆。仰々し
い口調も、聞き慣れてる。
 もうひとつは、もっと知っている。
 でも、こんなに近くで聞くのは、随分久し
ぶりだ。
 ――幹也。アイツが、近くにいる。
 とくん、と胸が大きく鳴った。
 気配は、いつのまにか一つに減った。

「入るよ、式」

 幹也の声。鼓膜に跳ねる懐かしさが、呼吸
を乱そうとする。冷たい息をついて、間を空
けずに返す。

「どうぞ」

 襖のむこうで僅かに逡巡する気配。
 今、なにを考えてるんだろう。
 どんな顔をしているんだろう。
 顔を出したあいつに、私はまずなにを言っ
たらいいだろう。
 襖を見つめたまま身体は凍りついて、頭に
霧がかかる。このまま眠ってしまいそう。
 けれど、開いていく襖に合わせて、私の意
識も開けた。

「――幹也」
「――式」

 ……目の前に、幹也がいる。
 ずっと探していた。あの日、鮮花と睦み合
う姿に耐え切れず逃げ出して。どろどろした
呪いの中でも忘れられなくて。とうとう無理
矢理掴まえて。
 長いこと離れていた気がするけど、目の前
の幹也はまるで変わっていないように見える。
 だから、中まで確かめよう。
 この一月ばかりで、私達の距離はどれほど
伸びて、また縮んだのか。

「入ってよ。そんな場所じゃ、話ができない」
「うん――」

 幹也は落ち着いた仕草で襖を引き、コート
を脱いで傍らに置く。敷いておいた座布団を
手で勧めると、小さく頷いてそこへ座る。
 二人とも、言葉は交わさない。
 空気が、触れられそうなくらいに硬い。
 息苦しくて、イヤな感じ。

「――こうやって、さ」
「うん?」
「こうやって一つの部屋で会うの、随分久し
ぶりじゃない?」

 目は逸らさない、って決めたから。
 最初は私から踏み出した。

「そうだね。さっき秋隆さんに会って、一緒
に廊下を歩いてきて――久しぶりだな、って
思ったよ」
「うん、幹也がここにいるのを見るのは、も
う何ヶ月ぶりかくらいだ」
「そんなに……長かったんだ」

 感慨を帯びた声を漏らす幹也を見ながら、
私も時間を噛み締める。
 そう、長かった。裏切りを知ってから今日
までの時間は、蛞蝓みたいにどろどろ粘って
鈍かった。
 この一月近くを、幹也はどう感じていたの
か。
 ――短かった? いつも鮮花と一緒で、気
が遠くなるまで睦み逢っていただろうから。
 私と、兄貴みたいに。

「――、んっ」

 身体の奥で、熱い残滓がとろりと染みる。
 たった一時間じゃ、熱を完全に冷ましきれ
なかったみたいだ。
 漏れ出す呼気が、甘くなる。

「……式?」

 幹也が、怪訝そうに私を見ている。
 その、目。初め、私を見ているのかわから
なかった。
 恐れるような、悲しむような、見たことも
ない負の光が瞳に浮かんでいる。
 食い入るような眼差しが、私の奥底までも
探っている気がした。
 そう、これは猜疑の目だ。
 幹也が私を深く疑ったことなんて、一度も
なかった。だから、こんな顔に見覚えがなか
ったんだ。
 幹也が私を疑う理由、それは――
 きっと、一つだけ。

「ちゃんと、来てくれたね。オレのこと、気
にならなくなったわけじゃなかったんだ?」
「……あたりまえだよ。君のことを、そう簡
単に忘れられるもんか」

 いつもの顔には戻れずに、幹也はばつが悪
そうに答える。
 動揺してる。あの電話は、無駄じゃなかっ
た。それとも、脛の傷が疼いたのか。
 私だって、電話の間はずっと胸が破裂しそ
うだった。
 さあ、そろそろ上辺の探り合いなんてやめ
よう。痛くても苦しくても、お腹の底の本音
を見せ合おう。

「さっきの答え、教えてくれるんだよね?」

 幹也にとっての私。
 鮮花のように抱いたりしない、私の位置。
 これまでの距離。これからの距離。
 すべての答えを、その口で。
 それに、そろそろ吐いてもらわなきゃ困る。
 鮮花との関係を知っていることに、さっき
の電話で気づいたはずだ。
 もう、知らん振りなんてさせない。

「どうなの? 幹也」
「……そうだね、話すよ。でも、その前に」
「えっ?」

 やや俯き加減にしていた幹也が、頬を緊張
させた顔を上げる。あのぎらついた瞳が、私
を深々と射貫く。
 ヘンだ。初めてなのに、既視感がある。
 この矛盾は、どこから来る?
 ……ああ。きっと、兄貴に似てるんだ。
 怒って私を組み敷く前の、あの追い詰まっ
た目に。

「……なに?」
「僕も聞きたいんだ。さっき、電話をしてる
間……式、誰かといたの?」

 浅ましいと自覚しながら、一瞬、唇を吊り
上げそうになった。
 やっぱり、気にしてたんだ。
 きっと今、幹也はあの日の私と同じ気持ち
でいる。目で見たもの、耳で聴いたものを信
じられずに、確かめたがってる。
 本当は、確かめたくなんてないのに。

「どうして、そう思うの?」
「式が、誰かと話してたように聞こえたから
……それに、なんだか、変だった」
「ヘン、ね……」

 よく言う。女があんな声を出す時を、幹也
は知ってるはずなのに。
 あれだけ突付いてやったのに、まだ白を切
り通す気なのか。
 思ったよりしたたかだ、幹也は。
 少し感心したけど、苛立ちが津波のように
押し寄せて、あっという間に押し流す。
 いいかげん観念したのかと思ってた。
 私がちょっと尻尾を出したらしつこく探っ
てくるくせに、自分のことは棚に上げてる。
 質問なんて、こっちがしたいくらいだ。
 でも、いいかな。
 飽く迄とぼけるっていうなら――

「うん、オレも幹也に聞くんだから、教えて
あげるよ」

 ――電話の意味? そんなの簡単。
 指先に力を込めて、懐の冷気を握る。

「こういうことだよ、幹也」

 呟きざま、跳ねるように腰を浮かせて幹也
へ飛びかかる。左の肘で鋭く肩を突くと、正
座の幹也は容易く畳の上に崩れる。

「うわっ……!」

 衝撃に幹也の首が仰け反って、白い肌が視
界に迫る。その、折れてしまいそうな茎へ、
握ったナイフをひたりと押しつけた。
 今まで、無数のモノを殺してきた刃。
 闇色の牙を今、私は幹也に突きつけている。

「――し、き」

 口づけのような危うい距離で、私たちは見
詰め合う。幹也は私に跨られ、肩を捕えられ
て、首筋には冷たい刃が触れている。
 二つの瞳が、強張ったまま私を一心に見上
げている。
 現実を許容できないとでも言いたげに。
 でも、これが私達の現実。腹の底の真実。

「くっ……」

 幹也が少し身動ぎすると、首に触れさせた
ナイフが肌に擦れる。傷をつけないように力
を抜きながら、幹也の視線を追う。
 さあ、約束通りに話をしよう。
 私達がしていたコトの話を。

「でも、やっぱり先に答えてよ。一週間くら
い前かな。幹也、橙子の事務所にいたよね。
 一人じゃなかった。……誰と、なにしてた
か言える?」

 互いを瞳に映したまま、ひとつめの言葉を
投げた。互いに知らないふりを決め込んでい
た記憶は、私の下の幹也に降り注ぐ。
 見えない冷気が、その表情を硬く凍りつか
せる。

「――式、きみは」

 今度こそ“信じられない”って顔で、幹也
は声を震わせた。
 目を見れば、続きは口にしなくてもわかる。
 知ってたのか、って、書いてあるから。
 初めて見る、拒絶に近い濃密な驚きの貌。
 知ってた。全部見ていた。だから、こうし
て顔を見ると、思い出しちゃって。
 おまえを、許せそうにない。

「……言えない? 心当たり、あるんだ?」
「――」

 皮肉っぽくからかっても、幹也は放心した
ように無反応だ。まるで、あの時の私みたい。
 そうだ。あの時の虚ろな感覚は、まだこん
なものじゃなかった。
 もっと深くへ。もっと広げて。
 私から幹也へ、共通のこの疵を。

「ズルいな……じゃあ、オレから先に答える
よ。電話の向こうでなにしてたか、だっけ?」

 怖くないといえば、嘘になるけど。
 私と幹也が同じ場所に立つには、私も私の
闇を曝け出さなきゃいけない。
 だから。

「――してたんだ。昨日の夜からずっと。オ
レの兄貴と、セックスしてた。幹也と、鮮花
みたいにね」
「あ……!」
「なるほど、オレにそっぽ向いちゃったのも
わかるよ。すごいね、血の繋がった同士って」

 止まらない。もう歯止めなんて効かない。
 破滅を孕んだ呪いだろうと、聞かせてやら
なきゃ気がすまない。
 幹也は、標本にされたみたいに強張ってい
る。私を見上げる顔が、昏い色に染まる。
 あれが、絶望の色彩。私もきっと、こんな
顔をしていた。
 さあ。もうだんまりなんてさせない。

「……なにか言ってよ、幹也」

 無言はないだろ?
 “そうだ”とか“ごめん”くらい、言って
くれないの?
 私の疵を見ても、なんにも感じないってい
うの?

「幹也」
「……君には、こうする権利があるよ」
「――は?」

 権利? なんだそれ。
 ようやく口を開けたかと思ったら、そんな
無機質なコトバを吐くのか。
 聞きたかったのは、そんなものじゃない。
 いいかげん、認めてよ。
 私に、嘘をつき通そうとしないでよ。
 ……力を殺していた切先に、抑えきれない
気持ちが凝っていく。

「他に言うこと、ないの?」
「探してるけど、見つからない」

 それを最後に、幹也は全身の力を抜いた。
 まさしく標本の蝶だ。四肢を脱力させたま
ま、目だけが生きて私を捉える。

「――っ」

 息が詰まる。幽かに胸を動悸させる幹也を
見下ろしていると、頭が軋む。
 薄靄のかかった記憶。そのどこかに、こん
な風景を――私は見ている。

 “僕は――死にたく、ない”
 “私は、おまえを犯したい”

 あれは、雨の日。強かったのか弱かったの
か、傘を指していたのかもわからない。
 ただ、馬鹿に寒かったことだけは覚えてい
る。私の内から吹く風に、芯まで凍えていた。
 ああ、そうだ。二年前、私は私を守るため
に、幹也を殺そうとした。
 仰向けに私を見上げる幹也の姿は、凍えそ
うな過去を鮮明すぎるほどに喚起する。
 あの日、幹也は恐れていたような気がする。
 でも今は、それさえしない。
 一足先に死んでしまったように、力も意思
も残っていない瞳で、私を見上げるだけ。
 ……諦めたの? 受け容れるの?

「……なんだよ」

 それは、違う。
 私はまだ、おまえの口から聞いていない。
 鮮花とのコトは、これだけ話してもまだ靄
の中だ。そんなのは、許せない。
 私の断罪はまだ終わってない。
 その口で、自分のしたことを認めるまで。
 ――ゆっくりと、首筋に押し当てた刃に力
を篭める。貫くように声を砥ぎ、口にした。

「――言えよ。どうして、鮮花とあんなこと
したんだ?」

 おまえが言えないなら、私のほうから迫っ
てやる。とぼけられないようにしてやる。
 ……だから、こっちを向いてよ。

「……そうか。式は、見ていたんだね」

 静かに、幹也は私を見つめて答えた。
 再会してから初めての、私の問いにはっき
りと返った言葉。

「そうだよ。全部、見てた」
「それなら、話さないといけないね」

 幹也は表情を甦らせ、ナイフを握ったまま
の私の手首に触れた。二年前の雨を思い出し
て凍えていた肌に、温もりが伝う。
 ……幹也の、体温。
 僅かに怯む私を追い越して、幹也が重い口
を開いた。

「……ちょうど一月くらい前かな。鮮花が、
部屋に来たんだ。お酒は嗜む程度に、なんて
言ってる鮮花が、前後不覚に酔っぱらって」
「え?」

 唐突に切り出された言葉なのに。
 私は笑えるくらいにはっきりと、ソレを頭
に浮かべることができた。
 顔を真っ赤にして、ふらふらとよたつく鮮
花。鮮やかなくらいに姿を想像できるのは、
この眼が実際に見ているからだ。
 それは、ひょっとしたら、あの夜。


 2/

 ――随分な時間にノックの音を聞いた。
 瞼は“無視しろ”としきりに訴えるのだけ
ど、終電も通り過ぎた時間に部屋を訪ねてく
る人間に興味もあった。

「うーん」

 結局、好奇心に負けてドアを開けた。

「こんばんは、兄さん。お水を一杯、いただ
けますか?」

 赤ら顔で扉の向こうに立っていた人物に、
意外性はまるでなかった。それもそのはずで、
僕は目の前の相手をよく知っている。

「……鮮花?」
「ええ、私です。ですから兄さ――ひクっ。
 ひ……しつ、れいっ。お水、くらさい」

 豪快なしゃっくりを合図に、鮮花はまるで
呂律が回らなくなる。見れば、視線も暗闇を
遊泳し始めた。
 夜更けも夜更け、明けと追いかけっこを始
めても良さそうな更けっぷりだ。
 そんな非常識な時間に訪ねてきて、再三水
を要求する。
 うん、鮮花だ。橙子さんに弟子入りして、
こういう部分まで似てきたのは気のせいじゃ
なかった。それにしても――

「……すごい匂いだね。飲んできたの?」

 真っ赤に火照った顔を見た時から察しはつ
いていたけど、近くに寄ってみて驚いた。
 鮮花の息からは、こっちがくらくらするく
らい濃密な酒気が零れてくる。

「ええ……わたひだって、たまにゃーおさけ、
くらい……飲みますよー……。
 ちょーっと! きょーはちょっとらけ、飲
みすぎらん、です……」
「お酒は嗜む程度とか、前に言ってなかった
かな……とにかく、水は出すから上がりなさ
い」
「ふぁい、お邪魔しまぁす……」

 礼儀正しく頭を下げたかに見えた鮮花だけ
ど、そのままよろめいて倒れそうになる。

「っ、とと……」

 なんとか体勢を立て直して、僕の横を通り
抜けていく。――ものすごい千鳥足だ。
 よくここまで辿り着けたものだと思う。
 危なっかしくよろめく背中を見守りながら、
台所でコップに水を注ぐ。踵を返して、居間
のテーブルでまどろむ鮮花にそれを差し出す。

「ほら、ゆっくり飲んで」
「ありがと、ござます……んく、ん……」

 子供みたいに両手でコップを握って、鮮花
はしみじみ味わって冷水を飲み乾す。間近で
見ると、やっぱり相当に顔が火照っている。
 嗜む云々の話は冗談じゃなく、鮮花の飲酒
はこれまで節度を守ってしとやかに行なわれ
ていた。足元も覚束無くなる、今回のような
姿を目にするのは初めてだ。

「……ねえ、鮮花。なにかあったの?」

 コップを置いたのを見計らって、思い切っ
て訊ねる。鮮花は朧な視線を泳がせて、散々
迂回したあげく僕を見つける。
 そして、子供っぽくほころぶように笑った。

「……なにかあったように、見えますか?」

 声は多少の落ち着きを取り戻し、潤みがち
な目を細めた鮮花が僕を見つめていた。たっ
た一杯の水でこれだけ切り替えられるのも、
鮮花ならではか。
 当ててごらん、とでも言いたげな、期待を
含んだ少女の視線。笑みを描いた唇と相俟っ
て、鮮花はいつもより幼く見える。

「そんな風に酔っぱらったところは、初めて
見るから。少し心配になったんだよ」
「あら、嬉しい。気にしてくれるんですね」

 テーブルに頬杖をついて、鮮花は赤い顔の
まま僕を眺める。酔っているからか、さっき
から不思議に楽しそうに見える。

「鮮花は僕の妹なんだから。他人行儀にした
らおかしいだろ?」
「ええ、この世界にたった一人の、黒桐幹也
の妹です。ひとつの血を分け合った二人なん
だから、他人のふりなんて許しません」
「だから、しないってば」

 鮮花は猫みたいに喉を鳴らして、そのうち
ぐったりとテーブルに潰れてしまう。半分顔
を伏せたまま、二つの瞳だけが僕を貫く。

「……ありましたよ、なにか」

 不意に、鮮花は呟くようにそう言った。

「え? なにかって――」
「さっき聞いたじゃないですか。なにかあっ
たのか――って。あったんですよ」

 僕の反応を楽しむように、鮮花はゆっくり
と言葉を継いでいく。

「ええ、ちょっとした事件です。こんなにお
酒を飲んだのもですけど、問題はその相手」

 相手? 鮮花がこうも見境をなくして酔う
あたり、一緒にいたのはかなり気の合う仲間
か、まさか――恋人?
 なんだか、急に深刻なほうへ向いてきた。

「……誰なんだい?」
「ふふっ……兄さんも、よく知ってる人。で
も、聞いたら驚きます」

 鮮花の喜色は最高潮といった感じだ。よっ
ぽど知らせたがっているのか、あるいは僕に
当てさせたいのか。どちらにせよ、渦中の相
手は僕にとってもかなり衝撃的な人物らしい。

「鮮花、焦らすのはなしにしてくれ。こんな
時間なんだしさ」
「……そうですね。お水や心配のお礼もあり
ますから、驚かせてあげます」
「お礼に驚かせるっていうのもどうかな……」

 鮮花らしい、なんて思うのは失礼だろうか。
 そんな内心を知ってか知らずか、鮮花は俯
きかけた顔を起こして答えた。

「両儀式です。私、ついさっきまであの式と
お酒を飲んでたんですよ、兄さん」

 ――稲妻に打たれた気分。
 それは確かに意外すぎて、僕は電源を抜か
れたみたいに固まってしまう。だって、その
名前は――なんていうか、卑怯だ。

「ほら、やっぱり驚いた」

 くすくす笑いながら、鮮花は呆然とする僕
を観察している。こっちとしては、そりゃ面
食らいもするってものだ。
 鮮花と式、二人の犬猿の仲は僕が誰より知
っている。どういうわけか二人は顔を付き合
わせれば喧嘩ばかりするのだ。
 とりわけ、口火を切るのは常に鮮花の役目
だったりもするけど。

「いや、驚いたよ……本当に」
「そう言ってくれると、告白した甲斐があり
ますね。兄さんが仰天するのなんて、そう見
られないし」
「それは、いつも驚かせたがってるような言
い方だなあ」

 いや、“魔術師の弟子になります”とか唐
突に言い出されたり、驚きの種には意外に事
欠かないのも確かか。

「でも、本当に意外な組み合わせだよ。鮮花
と式が一緒に出かけるなんて、ちょっと想像
できなかった」
「ええ、まったくもって私も一生の不覚です。
 でも、楽しかった。楽しくて、気がついた
らこんなですから」

 まだ赤みの抜けない顔を指差して、鮮花は
大袈裟に肩を竦める。その仕草に、不快なも
のは微塵も感じられない。

「……どんな話をしたの?」

 鮮花と式。両方とも僕のよく知る少女だけ
ど、ちょっとした不倶戴天の間柄。そんな二
人が、酒を酌み交わしながら楽しく何を語ら
ったのか、下世話ながら興味が湧く。

「女の子の内緒話に、男の人が入り込むのは
マナー違反ですよ、兄さん?」
「うっ……やっぱりダメか」
「でも、教えてあげてもいいかな。兄さんに
も、あながち無関係な話じゃないし」
「――え?」

 僕にも関係のある話だって?
 それじゃ、ますます気になってしまう。
 こちらの同様を敏感に察して、鮮花は優雅
に空のコップを差し出した。

「それじゃ、お話の前にもう一杯の水を所望
しますわ、兄さん」

 僕に選択権はなかった。奇妙な敗北感を味
わいつつ、水を注ぐついでに棚からスナック
などを持ち出す。
 自分の分の湯飲みも持って、居間へ戻る。
 すっかり長話の準備って感じだ。

「ありがとうございます。それじゃ、座って
ください」
「ん? うん」

 鮮花はさっきまでの向かい側じゃなく、自
分の隣を指で示す。
 ……まあ、確かに近いほうが話は聞こえや
すいか。
 勧められるまま、鮮花の隣へ腰を下ろす。

「……ああもう、本当に飲みすぎたわ。まだ
頭がフワフワする……」

 額に手を当てて、鮮花は深い溜息。言うだ
けあって、まだかなり酒臭い。

「でも、式もきっと同じくらい酔ってるんだ
わ。飲み比べってくらいに飲んだもの。
 それというのも、みんな貴方のせいですよ、
兄さん」

 いきなり目つきを鋭くして、鮮花がじろり
と僕を睨む。

「は? な、なんだよそれ! なんで二人が
酔っぱらうのが、僕のせいなんだ?」
「当然です。お酒の御抓み、話の種は兄さん
だったんですから」
「……はい?」

 問答無用、とばかりに指で作った槍に突か
れ、固まってしまう。頭のほうはもっと大変
で、今、鮮花が何を言ったのかわからない。
 式と鮮花でお酒を飲んでて、ついつい話が
乗って飲みすぎて。で、その内約が僕?
 わかってるけど、その意味が分からない。

「いきなりです。起承転結で言うなら起。あ
の女、フライングのスタートダッシュで貴方
の話題を振ってきたんですよ!」

 鮮花に平手を食らったテーブルが、悲鳴を
上げて身悶える。
 ……でも、なんでそんなに怒るんだろう。
 槍玉に上がったのは鮮花じゃなく、僕のは
ずなのに。

「もともとアイツから持ちかけてきたことだ
から、なにかあるとは思ったけど。それにし
たって許せない。私より早くだなんて」
「そりゃ、いくらなんでも横暴だよ……」

 顔を真っ赤にした鮮花は、まさしく怒り心
頭を表現している。ただ、その原因がまった
くもって掴めない。
 もう一つ、式はなんだって僕のことを鮮花
に話したりしたんだろう。なにかあるなら、
直接言ってきても良さそうなものなのに。
 鮮花の怒りといい、わからないことばかり
だ。

「頭に来たから、遅れを取り戻すのに私から
もいっぱい喋ってあげました。ええ、貴方の
ことは、妹の私が一番知ってるんですからっ」

 そこに式がいるかのように、鮮花はムキに
なって握り拳を作る。
 一番知ってる、っていうのはなんだかくす
ぐったいけれど、どこか嬉しくもあった。
 ……なんだか、対抗意識を剥き出しに式へ
食ってかかる鮮花の姿が目に浮かぶ。
 手にはビールのジョッキなんかがあって、
向かいの式も同じような恰好。
 ああ、ビヤガーデンに着流しはさすがに浮
くと思うよ、式。

「……で、結局なんの話だったの?」

 そもそも、それを聞かせてくれるはずだっ
たような気がする。

「だから、兄さんの話です。私が兄さんをど
う思ってるか知ってるくせに、貴方のことで
私に相談してくるんですよ?」
「……?」

 意味が、わからない。
 鮮花が僕をどう思っているかが、式の相談
とどう関わるっていうんだ?
 というより、まずわからないのは、それだ。
 確かに鮮花は少し僕を気にかけすぎる部分
はあるけど、そんなのは式が遠慮しなきゃい
けない理由にならない。
 
「だから、どんな相談なのさ」

 知らないうちに、なにかまずいことをして
式を悩ませていたのか?
 だとしたら、早急に改善したい。
 そのためにも、式の悩みの種がわからない
と手が出せない。
 鮮花はふてくされたようにまた溜息をつい
て、恨みがましい視線を僕に投げる。

「アイツはね、私と同じなんです。……わか
っていたけど。同じだから、貴方との関係に
ずっと悩んでいた」
「僕との、関係? どういうこと?」
「もう、本当に鈍いんだから。男と女の関係
ですよ。そんなだから、痺れを切らすんです。
 私も、――式も」
「え? ちょっと、待っ、」

 苛立ちをはっきりと表情に出して、鮮花は
声を尖らせる。
 ――でも、今、なんて?
 男女の、関係?

「鮮花。それは、つまり……式が? い、い
や、君もだけど……」
「ええ、一人の異性として――私も式も、ず
っと黒桐幹也を見ていましたよ」
「――な、っ」

 見えない拳が、横殴りにガツンと頭を抉っ
ていった。鮮花の言葉に、意識が白む。
 待て、ちょっと、待ってくれ――
 どろどろの頭を振って、どんなに冷静に考
えようとしても、それを理解できない。
 なんて言ったんだ、鮮花?
 異性。男女の関係。僕と鮮花と式。
 ごちゃごちゃする。関数はたったの三つで、
導くものはきっと単純。でも、それはなんて
いうか――理解に苦しむ。
 だって、男女の関係だと友達ではなくて。
 式が、鮮花が、望んでいたのはつまり、
 友達ではない僕。今より、もっと近い僕?

「――っ!」

 顔が発火したかと思った。それくらい、濃
厚な熱気が顔面を包み込んで弾けた。
 ど、どういうコトなんだ!?

「やっとわかったようですから、トドメを刺
してあげます。わかりやすくはっきりと――
あなたが好きです、という言葉で」

 あっけらかんと、揺るぎない自信を浮き彫
りにした清い声。それが鮮花の告白だった。
 ただ、それだけはっきり言われるほうは、
とてもけろりとしてはいられない。

「あ――うう」

 声がうまく出ない。身体の中で脳の命令が
混乱して、迷子になってしまっている。
 いや、だって、冷静に考えよう。
 まず、大事なコトを忘れてるじゃないか。
 
「……鮮花。わかってると思うけど、僕は」
「ええ、私の兄さんです。だからいいんじゃ
ないですか」
「良くないっ! 兄と妹が、そういうコトで
きるわけないだろっ!」

 ああもう、なに考えてるんだ鮮花はっ!
 思わず声を荒げると、鮮花はなんだか間の
抜けた顔でほう、と溜息を零す。

「……あんまり私の前では言わないから驚い
ちゃった。兄さん、本当にべたべたな一般論
を言うんですね」
「普通は誰だってこう言うよ。鮮花、まだ酔
いが抜けてないんじゃないのか?」
「普通……か。そう、それですよ、兄さん。
 私はね、その普通っていうのが大嫌いなの」

 指で水の入ったコップを弄びながら、鮮花
は抑揚のついた声を歌うように重ねる。

「非常識? 禁忌の関係? いいじゃないで
すか。私は、そういう恋のほうが楽しいです」
「楽しい楽しくないじゃないだろ。恋なんて、
そんな簡単に割り切れるものじゃない。それ
を、よりによって家族となんて――鮮花、ヘ
ンだよ」

 確かに、今夜の鮮花はおかしい。ただ――
訥々と語る目は、酔って我を失った人間のそ
れとは違っている。
 あくまで素面のまま、鮮花は変質している。

「それも一般論ですよ。兄さんが、兄さんの
答えを考えなきゃ。たとえばね、兄さんに妹
がいるとします。兄さんはその妹が本当に好
きで――でも、常識がそれを許さない。
 そんな時、貴方が選ぶのは自分ですか? 
 それとも、誰かが決めたルール?」
「……僕、は」

 また、頭に浮かんだ毒も効もない答えを返
そうとして、喉が詰まる。さっきの、恋の話
を思い出す。
 ……僕の答えには、穴がある。
 確かに恋は重要で、ともすればそれまでの
自分を変えてしまう儀式だ。だからこそ、自
分にとって最も大切な人間と交わすべきだ。
 けれど、相手が、もしも家族だったなら?
 鮮花は、そう問い掛けているんじゃないの
か。

「私は、私のやりたいようにする。決まりご
となんて知りません。誰にも遠慮はしない。
 貴方が好きだって、はっきり言いますよ」
「――」

 言葉の通り、僅かな澱みもなしに、鮮花は
悠然と言い放った。
 同時に、僕もようやく理解する。
 鮮花がどれだけ真剣で、妹と兄という場所
のままで、僕に思いを馳せていたのかを。
 あの喩え話のまま、鮮花は何者も恐れず、
退かずに、自分の想いを貫いていた。
 その姿が、尊く美しいものに見えて。
 ――ふと、考えてしまう。
 もしも、鮮花の喩えが本当で。たとえば式
にするように、形振り構わず心を尽くしてい
たのなら。その気持ちを、無関係の人間から
理不尽に否定されたなら。
 僕はその時、どんな道を選ぶんだろう。

「聞きたいのは、誰にでも通じる都合のいい
答えじゃない。ちゃんと頭で考えて、私だけ
に出した答えです。式だって、きっとそう」
「式が――僕に、求めてる?」

 想像もしなかったことが、立て続けに襲っ
てくる。鮮花が、異性の感情で真剣に僕を見
ていた。それだけでもにわかに許容できない
大事件だ。
 その上、飛び切りの追撃が現れる。
 隣を歩いて、横から見つめて。
 いつかこちらを向いてくれたらと願ってい
た、気になるあの顔。
 片思いじみた焦燥と、時折通った気持ちを
嬉しく思える、そんな相手。
 ――式。彼女はとっくに、僕を見ていたっ
ていうのか。

「興味は荒事ばかりかと思ったら、アイツだ
ってちゃんと焦れてる。今より少しでも近づ
きたいって、私みたいに考えてる。知らぬは
己ばかりなり、ですよ、兄さん」
「式、が?」

 異性としての式との関係。
 その距離に悩んでいるのは、専ら僕ばかり
かと思っていた。一目惚れ、というのも妙だ
けど、僕と式が近づく契機は間違いなく僕の
側から起こしたものだった。
 以来、僕は式の隣を歩くようになり、今日
まで心地好い距離へ歩み寄ることが出来た。
 それでも、式にはそう大きな変化はないか
に見えた。
 笑ったり怒ったり、さりげない摩擦こそ格
段に増えた。けれど、それこそ男女の関係と
いうような深い領域を、式のほうから意識す
る素振りなんてなかった。
 いや――見えなかったんだろうか。

「それでも、荒事寄りなのは否定の余地無し
ですから。慣れないことを随分知恵熱出して
考えてるみたいでしたよ?」
「む……」
「相手が嫌味な変化球でひょろひょろ逃げる
から、バットを振っても三振ばかり。式の気
持ち、よくわかるな」

 鮮花の一言一言が、暗に僕を刺してくるの
がわかる。式だけじゃなく鮮花も、僕に穏や
かならぬものを感じていたのか。
 家族じゃ足りない、と、更なる一歩を踏み
出させるくらいに、激情を溜め込ませたのか。

「それだけなら、同病相憐れむで済んだんで
すけど。――式ったら、とんでもないことを
言ってくれたんです」

 不意に肩の力を抜いて、鮮花は苦笑に似た
表情を浮かべる。

「……とんでもない、ことって?」
「言葉のままです。アイツはね、こう言った
んですよ、兄さん」

 ――幹也のコトはあるけどさ。
 オレ、鮮花は嫌いじゃないぞ――

「仮にもライバルですよ? そんな間柄の相
手に、なんだか複雑な顔して真面目に言うん
です。あんまり真剣だから、同じものを見て
るから――私、気づいてしまいました」

 笑みを絶やさなかった鮮花が、きつく唇を
噛む。赤く火照った顔が、燃えるように険し
くなる。

「アイツが踏み出せないのはね、不器用で、
兄さんに対して臆病なのもある。でも、もう
ひとつ」
「それは……?」

 力を集めるように深く息を吸って、鮮花は
まっすぐに僕を見ながら口を開いた。

「――式は、私を認めてる。私が兄さんを慕
っているのも知ってる。だから、身構える。
 一人で先走ったら私がイヤな顔するなんて、
きっと遠慮してるんです」
「――あ」

 鮮花の言葉は、僕の胸の深くを貫いた。
 バランスの取れた天秤。等価な錘。
 ほんの僅かな揺れがすべてを破壊してしま
うとしたら、皿の上の者たちは風のない日を
望むだろう。
 僕は式に近づきたいと願って、少しずつ歩
いた。でも、はっきり顔が見えるようになっ
て、お互いに言葉を交わして――そんな日が
続くと、いつからかそれ以上を進もうとしな
くなった。
 満たされないが、欠けてもいない“今”に
安心して、不用意にそれを崩すのを恐れた。
 式は、僕にとって特別な存在だ。
 だというのに、今日まで当たり障りのない
距離を守ってきたのは、そんな靄のような恐
れからだった。

「頭に来ますよね。同じ場所でやきもきして
るのに、式は私のことまで気にかけてる。
 なんだか、余裕見せられてるみたい」
「鮮花、それは……」
「わかってます。そんなのじゃない。アイツ、
優しいんだ。勝手に気を利かせて、先回りし
て、フェアにやろうとしてるんです」

 テーブルの下で、鮮花が自分の手を握り締
める気配がした。眉や頬は、幾つもの感情が
入り混じって引き攣っている。

「でも、兄さん。私はフェアになれない。
 貴方のことだけは」

 重く、身の内から削り出すような声。
 鼓膜を貫いて頭の芯まで響いたオトに気を
取られた瞬間、

「うわぁっ!?」

 強い力で、床に押しつけられた。
 いきなりで受け身も取れずに、無様に背中
を打ちつける。
 衝撃に息を詰まらせながら、見上げた先に
鮮花の顔があった。

「――危機感です」

 鼻のすぐ先、思いがけない近さに鮮花が迫
っていた。目が合うと、思わず竦んでしまう。
 そこには、さっきまでのほろ酔いの少女な
んていない。鮮やかな情熱を瞳に浮かべて、
変化した鮮花が僕を射抜いている。

「あ……鮮花、なに、するんだ」
「今夜、ぞっとしました。式のこと、初めて
怖いって思った。だって、今夜の式はね……
すごく、女の子だったんです」

 僕には答えず、鮮花は噛み締めるように式
を語る。そんな状況でも、不思議な圧力に呑
まれた僕は鮮花から目を離せない。

「私は特別なんだ、って顔に書いてあるよう
なヤツなのに、今夜は別人みたいにおとなし
かった。私でも、力でねじ伏せられそうなく
らいにね。……悔しいけど、可愛いなって思
いました」

 鮮花の口調は穏やかで、けれどその節々か
ら痛いくらいに感情が染み出してくる。
 これまで式を語る時に覗いていた刺々しい
感じは、どこかへ姿を消している。

「アイツも、兄さんのことを真剣に考えてる。
 私に負けないくらい、真剣に」

 鮮花の目つきが、鋭く凛々しくなる。
 鷹のように砥がれた、気高さを帯びた光。
 その光輝が、仰向けの僕を貫く。

「でも、私は負けませんから。
 私は、貴方だけでいいんです。他になにも
要らない。恥を受けても、罵られてもいい。
 手段も選ばない。選んでる余裕、ないです
から」

 吐き出すように捲くし立てて、鮮花の瞳の
端に雫が浮かぶ。それを慌てて拭って、鮮花
はぎこちなく泣き笑いの顔を作る。
 ……涙に。割れそうな薄氷を必死に繋ぎと
める顔に、胸を突かれる。

「あいつが相手なら、望むところです。他の
誰より、負けたくないヤツだから」

 そこまで言って、一瞬。
 鮮花は、見えないものに竦んだように硬直
する。張り詰めた顔が、すべての色を失う。

「――なんだ。背中、押してもらっちゃった」

 照れたように唇を緩めて、鮮花はしばらく
ぶりの笑顔を作る。初めて近くで見た妹の火
照った顔を、僕は素直に綺麗だと思った。
 吸い込まれそうだなんて考えて、

「――ん、っ!」

 急接近してきた鮮花の唇に、僕は本当に吸
い込まれてしまった。淡い温もりが、触れ合
った場所から伝わる。
 今。僕は、鮮花と――唇で重なっている。
 頭が遅れてそれを認識した瞬間、口を塞が
れているという以上に息が詰まる。

「ん――ん、ふぅっ……」
「んン、っ……」
 
 僕とは対照的に、鮮花のくちづけには微塵
の迷いもない。むしろ、貪欲ささえあった。

「うぅ……んっ、ン、ふ――!」

 唇を割って生温い舌が割り込む、大人のキ
ス。儀式のように直向きで、情熱に蠢く肉は
ただ、生々しい。
 舌を探りあてられ、じゃれるように絡めら
れて、身体が跳ねる。
 こんな――こんな淫らなキスは、兄と、妹
でするものじゃ、ない。頭の中が、ぐちゃぐ
ちゃにされる。

「ぅ……んっ、ンむ――っ」
「ん、んっ、……っ、ぁ……」

 互いに吐き出した熱い息が、口内で渦を巻
く。粘りつくような熱気に眩みかけて、よう
やく唇が離れた。

「はぁっ……あ、鮮花……」

 鮮花の予想外の行動は、僕から思考を完全
に奪ってしまった。頬が熱くなって、頭に血
が回らない。
 ただ、この胸の高鳴りは嫌悪から来るもの
じゃない。熱いのは頬だけじゃなく、汗がじ
わりと染みて、胸の奥がうるさい。
 鮮花は、息が触れ合うほど近くで僕の頬を
取って、唇を動かした。

「好きです、幹也。あなたを、私にください」
「ん――」

 言葉に、二度目の口づけが続く。
 唇は最初よりも甘く、そして――感触の中
に愛しいものが混じるのを覚えた。
 耳に残る、想いを凝らした鮮花の言葉。
 篭められた気持ちを意識すると、鼓動が急
に早くなる。
 高鳴る胸。身体を包む甘い熱。これらが意
味するもの。

「あざ――か」

 解き放たれた唇で、無意識にその名を紡い
でいた。

「はい、兄さん」

 呼応するように、鮮花が答える。まだ涙を
残した顔を見ると、言いようのないやるせな
さが湧き上がる。
 胸の早鐘は止まらない。
 僕の中で、鮮花が変わる。昨日までより、
一瞬前までより、ずっと。
 今は、鮮花をひどく近くに感じる。

「ずっと……見てて、くれたんだ」

 式を隣で見つめつづけた僕だからこそ、鮮
花の密やかな慕情には胸を打たれる。鳴り止
まない鼓動が、さらに早まる。
 もう、“妹だから”“兄だから”なんて通
じない。おそらくは鮮花や式が望んだように、
今、一人の少女としての鮮花に、心を揺らさ
れてしまった。

「……はい。これから貴方がどんな答えを言
っても、それは変わりません」

 覆い被さる姿勢で僕を見つめて、鮮花は迷
いのない笑顔を見せる。透き通るような瞳に、
見る者を熱くする炎の彩があった。
 その宝石に吸い込まれそうになって、真っ
白に溶けかけた頭の中に、式の顔が浮かんだ。

「あ……」

 それで思い出す。式もまた、鮮花と同じく
らいに僕を見ていてくれたことを。
 同時に、こうして鮮花と二人きりのままに
――式の知らないままに――心を動かされて
いくことへ、痛みにも似た罪悪感を覚える。
 僕なりに式へ惹かれ続けて、一緒に歩いて
きた時間を裏切るような気がして。

「……兄さん?」

 呆けてしまっていた僕を、鮮花が不安げに
見下ろしてくる。今にも泣き出しそうなくら
い、張り詰めたその表情。
 秘められ一心に注がれてきた気持ちを知っ
てしまえば、顔を背けることなんてできない。

「……なんでも、ないよ」

 鮮花の目を見たら、不思議と式の名を出せ
なかった。それだけ、僕の中に鮮花は大きく
なっていたのだろうか。
 鮮花のくれた気持ちも、この胸の高鳴りも、
嘘なんかじゃない。兄と妹という互いの立場
を超えてなお、鮮花の告白は強く胸を打った。
 猛り来る風にも怯まない、誓いのように尊
い意思。それを貫き、真っ直ぐに立つ姿。
 殉教者にも似た、貪欲に禁欲的な在り方は。
 誰かに、似ている。

「……ああ、そうか」

 答えはすぐに分かった。こうだと決めたら
退かずに、傷ついてでも成し遂げてしまう頑
なさ。何者にも憚らない強く眩しい意思のカ
タチは、式の持つものによく似ていた。
 それで気づいた。二人は、まったく異なる
存在のようでいて、心の在り方はずっと近い。
 式が鮮花を認め、鮮花もまた式の魅力を素
直に受け容れたのは、互いに似通うものを持
つが故の共感なのか。
 そう考えたら、鮮花の存在が昨日までより
ますます近しいものに感じられた。
 ずっと近く、垣根のない場所で、鮮花に惹
かれてしまっている。
 それが、禁忌の道であるとわかっていても。

 ――でも、式の顔が浮かぶ。
 初めて出会った日に心を奪われた少女。
 僕は今でもあの日のまま、式に捕われてい
る。多分、あの日からずっと、恋をしている。
 もともと言葉で多くを語るほうじゃない僕
達は、互いの距離をうまく掴めないままに長
く歩いてきた。
 のんびりと過ごす時間の中で、いつしか肩
や指の触れ合う距離を見つけて、嬉しくて―
―その場所に満足を覚えてしまった。
 “これでいいじゃないか”
 そう自分に言い聞かせて、そこから足を踏
み出すのをやめた。まだ、僕達の知らない関
係があるんじゃないかと気づきながら。
 そんな泡沫のような毎日があるからか、僕
は確かめないままに式から目を逸らすのを恐
れている。高まる気持ちに気づかないふりで、
安寧の足踏みを繰り返す。
 そんな後ろ向きな螺旋を壊したのが、鮮花
だった。
 鮮花が僕にぶつけた情熱は、僕の臆病な自
己満足を笑い飛ばすように眩しかったから。
 鮮花は、確かめもしないあやふやな場所で
は満足しない。禁じられた場所でも、迷わず
踏み込んでくる。
 踏み出せなかった僕だからこそ、その姿に
兄妹という境界を危うくするほど胸を動かさ
れた。

「……鮮花は、すごいなあ。本当、びっくり
した」
「びっくり――ですか?」

 大人びた表情から一転、鮮花はきょとんと
目を丸くする。一皮向けばこんなに子供っぽ
いのに、こうだと決めたら頑張れる。
 やっぱり、すごいと思う。

「酔っ払ってきた時は、こんなことになるな
んて思わなかったからね。ぶっつけ本番だけ
ど、お酒の勢いって感じじゃなかった」
「ええ、ちゃんと素面で言いました。素面じ
ゃないと、意味がないもの。ただ――やっぱ
り、ちょっと式にはフェアじゃなかったかな」

 申し訳なさそうに、苦笑を作る鮮花。
 気の置けない人間にだけ見せる裸の顔が、
鮮花と式の距離を僕にも感じさせた。
 ……本当はこんなに相手を認め合っている
のに。骨抜きになるくらい、楽しく酒を酌み
交わせるのに。
 間に僕という共通項があるだけで、二人は
顔を合わせる度にいがみ合ってしまう。
 率直な言葉を交わせる知己であると同時に、
一つしかない椅子を取り合う――敵。
 安らぎと焦燥を同時に与えてくれる存在。
 でも、一緒に過ごす時間が長ければ長いほ
ど、その中に暖かさを感じるほどに、焦りは
募るだろう。相手の魅力を知ることが、その
まま自分の脅威になるのだから。
 何も知らない頃、なにかと僕のことで式に
食ってかかる鮮花は、妹として嫉妬している
だけだと思っていた。
 その間違いに、今夜、やっと気づいた。
 “危機感”という言葉の意味。
 鮮花は、至極真剣に恐れていたんだ。
 式に、僕を奪われることを。

「あ……兄さん?」

 初めて、僕のほうから手を伸ばして鮮花に
触れた。まだ火照りの残る頬を、指先で撫で
る。僅かに涙を溜めた瞳が、瞬く。
 ……鮮花は、この目でずっと僕を見ていた。
 僕が式を見ている時もずっと、異性として
の感情を僕にぶつけていた。
 だから、僕の傍にいる式に必要以上に食っ
てかかった。もしかしたら、僕の式への感情
をなんとなく察していたのか。
 式もまた、売り言葉に買い言葉でなにかと
鮮花に張り合ってしまうのだろう。
 結局、僕という存在が二人の仲をぎこちな
くしている。

「――ごめんね」

 言葉は、誰に向けてのものだったのか。
 ただ、今のこの状態を息苦しく、後ろめた
く思うのは確かだ。
 僕は式を大事に思うし、今夜、鮮花に対し
ても同じ気持ちに気づかされた。
 ――今、思うのは。
 式にはっきりと“好きだ”と口に出来なか
った理由。それは、現状に満足していると同
時に、心のどこかで鮮花を意識していたから
かもしれない。
 それが妹としてなのか、異性としてなのか
はわからないけれど、その足踏みで僕と式は
曖昧なままだし、鮮花にも随分無理をさせて
しまった。
 すべては、僕の煮え切らなさが生んだ痛み
だ。僕に鮮花のような勇気があれば、どんな
形であれ、とうに答えを出せていたはずだ。

「……にい、さん――」

 鮮花は、言いようのない苦渋を帯びた貌で
僕を見下ろしていた。その意味に思い当たる。
 何気なく漏らした“ごめん”という言葉さ
え、今の鮮花には酷い刺激になったんだ。

 ――僕は、どうしたらいい?
 ――二人に、なにをしてやれる?

 わからない。こんな時、一般論なんてなん
の役にも立たない。鮮花の言う通り、僕自身
の答えを見つけなきゃ。
 まずは、この蟻地獄を抜け出そう。
 ……責任を、とらないと。

「……わかった、鮮花」
「え、に――兄さん?」

 鮮花の手を取って頷く。鮮花は面食らった
様子で、手と僕の顔を交互に見ながらおろお
ろし始める。

「僕も、答えを出すよ」

 声とともに、自然と気持ちが固まる。
 進む道、二人へ示す答えが。
 ただ。これはきっと、最良の選択じゃない。
 でも、僕はこの道を歩こうと思う。
 今、胸の中で式と鮮花は等価に重過ぎる。
 どちらかを選んで、どちらかを捨てていく
なんて出来ない。
 その戒めを殺してくれるなら、許されなく
てもいい。罵られてもいい。
 願いを果たすために、厭うものはない。
 ――やっぱり、兄妹だからか。
 僕の結論は、鮮花の言葉をなぞっていた。
 迷いはない。鮮花は、あらゆる痛みを是と
して僕を求めた。そんな彼女と、式までをも
同時に要求する僕は、鮮花以上に救われ難い
罪人だろう。
 だから、恐れない。
 呪いも、痛みも、暗闇も。
 胸を張ってなにもかもを受け入れ、伸ばし
た両手で二人の手を取る。
 さあ。
 手を、伸ばせ。

「おいで、鮮花」

 ――そして、僕は鮮花を抱いた。






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