だあくねす
第一章 悪魔、競馬場に行く。
第二話 悪魔の昼食 


登場人物(?)紹介へ


 レストランの席につき、注文も済ませた。当然ながら、やがて料理が運ばれてくる。
 最初にやってきたのは、ハンバーグだった。持ってきたのは、注文をとったのと違う店員である。そして何の疑問も持たず、確認もしないままハンバーグの乗った鉄板を大の前に置く。まあ、ボリュームだけから判断すればそれが当然の行動だろう。
 しかし実のところ、頼んだのは向かいに座っている翡翠である。
 怒りが頂点、というには程遠いにしても、大は気分を害していた。先程からの翡翠とのやり取りで元々機嫌は良くなかったから、さらに、というべきであろう。
 間違えられたことそれ自体も気に食わないのだが、それを正すために注意しなければならないということに苛立っているのだ。とは言え穏当な社会人であろうとしているので、怒鳴ることもできない。あくまで冷静に、かつ紳士的に、一方で相手に非があるという意図が正しく伝わるようになどと気を遣うので、余計にストレスがたまる。要は損な性分なのである。
 ともかくも話す内容をまとめたその直前に、翡翠が口を開いていた。
「あらあら、お間違えにならないで下さいませ。それはわたくしのですわ。せっかく楽しみにしておりましたのに」
 淑女らしい口調で、あどけないことを言う。そこに刺々しい様子は微塵もなかった。もしこれが大であったなら、いくら紳士的に振舞っていても大人が理屈で言っていることであり、相手を萎縮させる可能性があっただろう。
 結果としては素直に詫びてから配膳をやり直し、去っていった。一つため息をついて気持ちを落ち着けてから、大が謝りつつ問いかける。
「悪かった。しかしどうして、そういう気配りができたりできなかったりするんだろうな、君は」
 もし普段からそれができているなら、彼女自身の言う「人を幸せにする」ことに、少なからず近づくだろう。
 翡翠はすぐには答えなかった。しかしこれは返答に困ったのではなく、既に口の中にハンバーグを頬張っていたからに過ぎない。その状態で喋るような品のない習慣を持っていなかっただけだ。
「それは詰まる所、わたくしも眷属の一員であるからなのでしょう。自分の欲望とも一致しておりましたから、的確な行動も取れるのです」
 説明が終わると、今度はフライを食べる翡翠だった。つまり彼女としても早く食べたかったから、配膳をやり直させたのである。
「ふうん。で、美味い?」
「感動的とは申せませんが、中々ですわ」
 感動したり興奮したりが多い彼女としては、微妙な反応だ。まずいとは言わないまでも普通、という所だろう。そう思いつつも、大は無難に流しておくことにした。
「そいつは良かった」
「ところでおうかがいしたいのですが、これ、何の肉でしょう?」
 味はともかく食欲はあるのか、華奢な体に似合わぬハイペースで、それでいて上品さを崩すことなく、彼女は食べ続ける。聞いてきたのはその合間だった。
「牛肉…か、牛と豚の合挽きだろうな。それがどうかした?」
 ごく普通のハンバーグの材料として、大に思いつくのはそんな所である。その他、豆腐のハンバーグやらマグロのハンバーグやら、作ろうと思えば色々あるとは知っているが、それならばそうメニューに明示しているはずだ。
 そのことを説明しようかとするその前に、彼女は質問をかぶせてきた。
「馬肉ではないのですか?」
 無邪気そうな顔で、小首をかしげている。幸い周囲には聞こえていないようなので、大はぼそりと告げた。
「…黙って食え」
「しかし、勝てないと食肉だって、大様ご自身が先日…」
「俺が悪かったから黙って食ってくれ! 水族館の隣のシーフードレストランはありでも、ここでその話題は禁句だ!」
 日本、というよりも人間社会に慣れていない翡翠には今ひとつ分かりにくい内容ではあった。
 水族館の周囲には大概、海産物料理の店がある。つまり人間は、魚をたっぷり観賞した後に食することもできる程度の残酷さ、あるいは無神経さを持ち合わせているものだ。欧米人には嫌がられる活け造りも、日本人であれば気にしない人間が少なくない。
 しかしこれが哺乳類になると話が変わってくるのが、人間心理の微妙な所だ。グルメ番組に引っ張りだこの大食漢タレントでも、牧場で動物を可愛がった直後に、同じ種類の生き物の肉を食べるのは気が引けると聞いたことがある。まして競走馬となればそれぞれ名前もあれば家計図もあり、愛着を持っている人間が少なくない。その場で食べるなどという真似ができる人間は、まずいないだろう。
 翡翠はそんな大の心情を理解した訳ではなかったが、気迫で負けていた。元々勝とうと思っていた訳でもないので、簡単に折れることにする。
「はあ。まあ、大様がそうまでおっしゃるのなら」
 ちなみに、本当に動物を食肉にする場合には、解体する、熟成させるなどの処理が必要になる。かなり大掛かりになるので、通常は食肉工場と呼ばれる場所で行うものだ。当然ながら競馬場の近くにそんな生々しいものはないし、それをわざわざ生きた馬好きが集まる場所へ持ち込む馬鹿もいない。
 相手が引いたのは分かっていたが、大はまだ気がおさまっていなかった。ぶつくさと言い募る。
「全くもう。寄生虫館を見物してから麺類を食いにいくぐらい趣味が悪い、って、あ…」
 自爆した。
 それも力一杯。大が今食べようとしているのが、まさにその麺類である。
 そしてちょうどこのとき、スパゲティが運ばれてきた。今度は間違えようもなく、皿が大の目の前に置かれる。
 何が駄目かということを実感とともに知りたいのなら、その現物を見るしかない。しかし一般的な動物や魚介類ならともかく、寄生虫を専門的に集めて公開している施設は日本全国でも首都東京のただ一角にしか存在しないので、皆が皆それを目の当たりにするのは難しい。
 そこで敢えて簡単に言うのであれば、特に人間の消化器内に生息する類のものは、ある種麺類に似ているのである。細く長くうねっており、しかも保存液で程よく漂白されている。見た目としてはパスタというよりも、うどんやきしめんに近い。
 ただ、寄生虫から麺類へという連想が思考回路の中に強く形成されている時点で、麺類に今現在直面している人間としては、いわば既にアウトである。麺類というカテゴリーに入っている以上連想の続きとしてパスタからうどんへとつながり、それがそのまま寄生虫へと流れてしまう。
 そうなるともう、どうあがいても例の寄生虫館で見た標本しか思い出せない。しかも寄生虫の生態を事細かに記した解説付きでのことになる。大はこの時、自分自身の記憶力を本気で呪っていた。学生時代に悪ふざけで肝試しと称して寄生虫館からうどん屋へというコースをセッティングした、その記憶がありありとよみがえる。


「あのう。お加減が優れないのなら、今日はこれまでと致しましょうか。わたくしとしても大事な大様に無理をさせるのは不本意です」
 完全に自己完結しているので、翡翠にも大が何を感じているのかは読み取りにくい。だからこそ譲歩を申し出たのだが、大は力なく首を振った。
「いや、大したことじゃないんだよ、ほんとに」 
 嘘偽りではなく、どうでもいいといえばそれまでのことだ。そもそも若気の至りとは言え、好き好んで寄生虫を見に行った自分が悪いのである。それに、せっかく頼んだものを無駄にするのは単にもったいないだけでなく、作った人間に対しても失礼だ。だからこそ、意地でも口に運ぶ。
 ただ、ペースが鈍いのは致し方ない。しかも口に残っている時間が長い分、悪い思い出を呼び起こすための時間が長くなってしまう。そんな嫌いな食べ物に対する典型的な悪循環に陥ってしまった。
 結果、大が半分も食べ終えないうちに、翡翠は重量級のセットを綺麗に平らげてしまった。それでいてがっついている様子は全くなく、テーブルは当然のように綺麗なままだ。脂っこいもののはずだったが、ナプキンで口元を拭く必要すらない。
「ご馳走様でした。ご一緒しておいてこのように失礼なことを申し上げるのは恐縮なのですが、一足お先に出ていてよろしいでしょうか。大体のことは教えていただきましたので、少しわたくし一人で見て回りたいのです」
 何かたくらんでいるのだろうが、実力行使で引き止めるのも不可能だ。その気さえあれば断りなく、彼女は目の届く範囲を離れることができるだろう。
「気にしなくていいけど後での合流は…いや、そんな心配は必要ないか」
 一応は態度を保留しようとして、止める。携帯電話を持っている訳でもない彼女だが、彼女さえ望めば再会に支障があるとは思えない。一方大の本音は、二度と会わない方が楽だという所である。
「ええ、お気遣いなく。わたくしの気が済みましたら、大様がどちらにいらっしゃっても追いつきます。必要であれば直接、大様のお部屋に戻ることもできますわ」
 限りなくストーカーのそれに近い台詞である。単に事実を喋っているだけなのだろうが、相手の本音を察した上での嫌がらせとも受け取れる。
 さすがにこの程度ではひるんでいられないので、大は笑顔で送り出した。
「そう。じゃあ、好きにしてくるといい。俺も適当にやって帰るから」
「承知しました。それではまた、後ほど」
 席を立ってから、一度深々と頭を下げる。そして軽やかに身を翻して、去って行った。
「あんまり荒らしまわってくれなきゃいいんだが」
 その背中を眺めながらつぶやく。振り返らないのが彼女らしいと言えば彼女らしい。しかし荒れるだろうな、とは思ってしまう大だった。

 先程の観客席に戻りながら、翡翠はそもそもこの世界にやって来た目的である「幸せにする」人間の物色を始めていた。わざわざ電車に乗ってやってきて、ただ観戦して終わりにするつもりはないのだ。見るだけで喜びはしたが、それとこれとは別の問題である。
「さて、どう致しましょう」
 スリルと欲望で溢れたこの場所自体が、翡翠にとっては心地よい。ただ、あまりに濃厚で、また似たような発生源が多すぎるために、誰がどのようなオーラを発生しているのかを即座に特定するのは彼女としても困難だった。
 探しているのは、できるだけ強い欲望を持った人間である。それも、金銭欲か勝利への欲求でなければならない。そうでなければこの場で力を貸す意味に乏しい。しかしそのような欲に傾きがちな人間はその分霊的な素養が弱く、元々持っているオーラも概して強くない。このため強さだけでなく、その色合いを慎重に見極める必要があるのだ。同じ欲望でも、食欲や性欲では意味がない。
 そして首尾よく望ましい相手を見つけられたとしても、障害はまだある。思いが強ければ強いほど、人は頑迷になるものだ。翡翠としては助言を与えるつもりでいるのだが、そう簡単に聞き入れはしないだろう。特に自分のように、年端も行かない少女に見える者の言うことならばなおさらだ。
 やがて翡翠は、一階席スタンドを一周しようとしていた。二階より上もあるのだが、このままあてもなくさまよっていては結果が変わらないように思える。
 コースにおいては、そろそろ次のレースが始まろうとしていた。大はこのレースを見送ることにしていたのだが、翡翠だけは食事を早く終えていたため、間に合ったのだ。
「やはり大様のお力をお借りしましょうか。とは言え、明らかに乗り気でない方をお連れしていては、ますます信用されないでしょうし…あら?」
 探していたのとは明らかに違う。しかしこの場にそぐわない気配を、翡翠は感じ取った。観客席スタンドの片隅である。
 金銭欲はほとんど感じ取れない。むしろ、持っているものを他人に施してしまいそうな、気の優しさがあるようだ。かと言って、スリルや勝負を楽しんでいるとも見えない。むしろこれから始まるレースの結果に対して、期待よりも強い不安を抱いているらしい。
 およそ競馬場には似つかわしくない人間である。ただ、聖人君子というわけでもないようだ。不安に閉ざされた奥からもにじみ出る強い欲望を、翡翠の感覚は捉えている。
「愛情? しかしどうしてこんな所で…」
 もちろん、この競馬場に来ている人間も、他の場所にいる人々と同様の愛情は持ち合わせている。ドライな大から、家に帰れば愛妻家まで、人それぞれだ。ただ、レースに集中していれば、その間は表に出てこないものである。
 レースそっちのけでいちゃいちゃ、というカップルも稀にはいるが、それとも違う。満たされていない、渇望する愛であるらしかった。恋慕と言った方が正確かもしれない。
「ともかく、お話ししてみましょうか」
 物怖じしないのは自分の良い所だ、そう自画自賛しつつ、翡翠はその人物に歩み寄った。
 若いとも年老いているとも言いがたい、微妙な年齢の女性だった。まず化粧が濃いので、顔を見た印象のみから直接判断することが難しい。ただ、少なくともそれによっても隠し切れないような若年、あるいは老齢ではないようだ。
 そしてかもし出している雰囲気も、中途半端である。疲れた様子が老け込んだように感じさせる一方で、びくびくと頼りない所はある種子供のようでもある。
 装いは、化粧に比例するように派手である。シルクと思しきツーピースをベースに、貴金属のネックレスや宝飾時計を合わせている。足元は良く磨かれた、光沢のあるハイヒールだ。もちろん、バッグはブランド物である。ただ、全体としては高価そうだという以外に統一感がなく、ちぐはぐな印象を受ける。あたりを行きかう多くの人間から浮いているだけでなく、彼女自身についても着慣れているようには見えなかった。
 彼女は、翡翠が間近に立ってもそれに気がつかなかった。ただ馬券を握り締め、コースに視線を落としている。そこへ普通に話しかけてもその後につなげる糸口を見出すのは難しいと察して、翡翠はまずゲート入りしつつある馬たちを眺めやった。
 人馬一体となったオーラから、それぞれの強さがパドックで見た際以上にはっきりと分かる。これならば負けるはずがない。翡翠はそう確信していた。自分の予想を決めてから、声をかける。 
「一着が五番、二着が九番ですわね。そうはお思いになりません?」
「え…?」
 いきなり声をかけられたのだ。誰だって驚くのは無理もない。ただ、そのびくつきようはやはり普通ではなく、二歩も後ずさっていた。
「突然申し訳ありません。ただ、少しお話し相手になっていただける方がいらっしゃればと思ったもので。ご迷惑でしたでしょうか」
「いえ、あの。そういうわけでは、ないのですが…」
 迷惑だとは言わないまでも、途惑っているのは間違いない。ただ、この時は翡翠の容姿が良い方向に働いた。大人の男であったなら、もっと強く警戒して逃げ腰になっていただろう。
「わたくしは、穂群翡翠と申します。お名前をお聞かせ願えますか」
 自分にとって明らかに不利な内容などでない限り、この種の気が弱い人間は押せば押し切れる。その翡翠の読みは、間違っていなかった。さらにためらった末ではあったが、口を開く。
「大谷…初子です」
「初子様の予想を拝見できますか」
 と言いつつ既に、翡翠は相手の馬券を見ていた。初子が隠そうともしていないので、隣に立てば済む話である。
「ほほう、なるほど。二番が中心ですか。わたくしのとは異なりますけれど、こちらも中々ですわね」
 平然と嘘をつく翡翠だった。全く駄目だ。
 馬番号二番は、いわゆる本命馬だった。競馬新聞などの予想家が、事前に強いと判断しているものである。もちろんそれも根拠のないものではなく、それなりの実績を有する馬が選ばれている。
 しかし、今日はその本命馬の体調が良くない。これは翡翠だけが察知していることではなく、馬を見る目がある、あるいは勘の鋭い人間はパドックで様子を見てこの馬を避けつつあった。
 持っている券の種類は連勝複式、つまりこの馬が二着までに入れば当たり馬券になる可能性はある。しかしそこまで上位に食い込むのも難しいだろう。恐らく総崩れになる。
 ただ、頭ごなしに否定しても相手が態度を硬化させるだけに終わるとは目に見えている。この相手だから怒りはしないだろうが、今以上に萎縮するだけだろう。
「そ、そう…ですか」
 ぎこちなくではあったが、初子が笑みを見せる。まだ反応には困っているのだが、評価されたことで多少なりとも余裕はできたようだ。やはり余程不安で、また孤独だったのだろう。
 これは思った以上に与しやすいかもしれない。そう考えつつも、翡翠はひとまず様子を見ることにした。およそ賭け事や贅沢に向いていなさそうな彼女がどうしてここにいて、また今のように派手な服を着込んでいるのか。大きな疑問ではあるのだが、それだけに接触の仕方を間違えると致命的になりかねない。
「そうそう、初子様の方がお姉様なのですから、そうかしこまったおっしゃりようでなくとも結構ですのよ」
 翡翠は人間のような歳のとり方をしないので、これは正確な言いようではない。ただ、今の外見を人間に当てはめて考えれば、初子の方がかなり年かさにみえることは確かである。本当に十代前半の少女だったなら、「おばさん」と片付けても不思議ではない。
「あ、はあ…」
「さて。そろそろ始まるようですわね。今はあちらに集中いたしましょう」
 話している間に各馬ゲートイン完了、後は開始を待つばかりとなっていた。初子としても当然結果は気になっているので、これ以上話を続けるか、あるいは距離を取るかの判断を保留してそちらを見やる。
 ファンファーレが鳴り響き、ゲートが開く。一斉にスタート、この時点で出遅れた馬はいないが、翡翠の推しているうちの一頭、五番が先行し始めていた。一方もう一頭の九番、そして初子が買っている二番は馬群の中だ。
「大丈夫、大丈夫。あの馬は追い込みが強いって書いてあったから、大丈夫…」
 初子はぶつぶつと言いながら、何とか自分の正しさを信じようとしている。しかし空しいですわね、と、翡翠は心の中でつぶやいた。今日の二番に、後半から他の馬を追い抜き、そして引き離していくようなスタミナはない。レースの進行についていくのがやっと、下手をすればどんどん順位を下げていくだけだろう。一方九番は着実にスタミナを温存し、スパートをかけるタイミングをうかがっている。
「さ…お行きなさい」 
 翡翠の淡紅色の唇がかすかに開く。その瞬間、騎手の鞭が入った。九番が猛然と追い上げ始める。無論他の馬、そして騎手も追いすがろうとするが、そこまで加速することができない。
 場内にどよめきが沸き起こった。九番はさほど注目されていない馬であるため、当たればいわゆる大穴になる。
「どうして…!」
 先行したまま逃げ切ろうとする五番とそれを猛追する九番、他はどんどん取り残されていく。この組み合わせで買っている人間は他にもいるはずだ。しかしそれはいくつかある可能性の一つとして選んでいたに過ぎない。自信を持ってこれだけを推していたのは、翡翠だけだろう。そしてそのことを知っているのは他にもう一人、初子だけだ。
「まだ勝負は終わっていませんわ」
 自分の正しさを確信しているはずが、翡翠の反応は何故か冷やかだった。現に券を買っていないため儲からないなどという悔しさとは、明らかに違う。
 そしてゴール、目覚しい伸びを見せた九番は、その瞬間にはとうとう五番に追いついていた。着順の確定が写真判定に持ち込まれる。端の方にいたためゴール線を斜めから見る形になった初子としては、当然分かるはずがない。
 目だけを使っていたなら、状況は翡翠も同様だったはずである。しかし彼女は、確定の発表前に苦笑し、初子を眺めやっていた。
「大層なことを申し上げましたが、わたくしもまだまだですわね。順番が違いました」
 初子は何も言わず、ただ着順が示される電光掲示板を見据えている。やがてそこに示されたのは、一着九番、二着五番だった。もちろん三着以下は大きく引き離しているので、翡翠が自分の予想通りの連勝複式馬券を持っていれば、それを待たずに相当な高額の配当を得ることが決まっていたはずだ。
「あなたは、一体…」
「そうですわね。占い師…の卵とでも、申し上げておきましょうか」
 自分が悪魔だ、などと言い出したら相手はそれを受け入れられないだろう。この人物の精神的な耐久力、要するに図太さは明らかに劣った部類に入る。最悪の場合、卒倒するかもしれない。また、そうでなかったとしても翡翠の言うことに耳を貸さない状態に陥る可能性が高かった。
「さて。それでは参りましょうか」
 ふわり、と翡翠が身を翻す。当初完全に逃げ腰だった初子が、反射的にそれを追っていた。
「参りますって、どこへ」
 立ち止まりながら、くるりと振り返る。不器用なのか、あるいは高いヒールに慣れていないのか、初子はぶつかりそうになったあげく反動でのけぞった。
「あら、初子様は次の勝負に興味がありませんの?」
 この競馬場の場合、夜間開催でなければ第一レースが昼前に始まり、夜になる前に最終レースが終わるように予定が組まれている。その中でメインレース、つまり賞金が多く馬も騎手も強いレースは比較的遅い時間帯、午後遅くから夕方にかけてであることが多い。特殊な事情がない限り、それを待たずに帰る人間はまずいない。昼食を済ませたばかりであるから、それまでにはまだかなりの余裕がある。
「興味、と言うか…」
 賭ける気もあれば、そのための所持金も多少ならある。それを翡翠は見て取っていた。その気はあっても既に馬券が購入済みで元手が全くない、などということであれば目も当てられない。
「ではパドックへ。まずはお馬さんを拝見しませんと、何も始まりませんわ」
「もしかして…教えて、くれるの?」
 もしかしても何も、これまでの態度から言ってそれしか有り得ない。哀れみの笑みにならないよう注意しながら、翡翠は微笑んだ。
「もしもこのわたくしなどの申し上げることをお聞き入れくださるのなら、ですが。先程までご一緒していた方は非常に疑り深くて頑固で気難しくて、当たると分かっているのに聞いてすら下さいませんでした」

「大方ろくなこと言ってないんだろうな」
 ぼそりとつぶやくと、大は競馬新聞に視線を落とした。

「そんな、どうして。馬鹿じゃないの? もしかしたら、一生に一度のチャンスかも知れないのに」
 本当に愚かだと感じているのなら、蔑んで済ませればいい。しかし初子は、翡翠と出会って初めていきり立っていた。
 翡翠は小さく、頭を振る。そして身振りでついてくるように促し、歩き出してから口を開いた。
「確かに、英知には程遠いでしょう。御自らの行く末も、見定めてはいらっしゃいません。しかし、ただ金銭のみを追い求めた所でご自分の幸せにはつながらない。そこまでは見通しておいでです」
 語っている翡翠の意識は、このとき大部分が初子から離れつつあった。彼のその知性のあり方は十分興味深いが、今の彼女からは愚かしさしか感じられない。そもそも考えようとする様子自体が見られなかった。
「そんなこと分かってるわ。私だって、欲しいのはお金じゃない」
 表現も、ありきたりではあった。しかしそこに込められた思いは深く濃く、どす黒くさえ感じられるほどだ。翡翠は若干慌てて、意識を戻した。これこそ、聞きたかったことなのだ。
「そうですわね。有り体に申し上げて、本来あまり金品には興味がおありでないようにお見受けいたしましたわ」
 そもそも競馬場にいること自体、違和感がある。しかも着ているものは贅沢だが、それが板についていない。その言外の意図を、初子は正確に察していた。誰よりも、彼女自身がそう思っていたのだろう。
「やっぱり似合わない?」
「そうは申しませんが…」
 配慮して言わないだけである。似合わないものは似合わない。
 例えばいっそ極度の肥満体で、それに合うような特注品、つまりオートクチュールをまとっているなら、それはそれで一貫性と迫力がある。もちろんその分、相当な高額になるだろう。
 しかし彼女の場合、標準的に過ぎる体形だった。しかも、年齢相応のものである。
 そしてそれは、既製のブランド品が想定しているものとは微妙に、あるいはそれでは済まされない範囲で異なるのだ。有り体に言ってしまえば太く、一方で短い。結果既製品が入らないこともないのだが、文字通りのしわ寄せが目立ってしまう。もちろんオートクチュールであればそのような問題は発生しないのだが、そこまでの金は持っていないらしい。
 初子は苦笑して、自己否定の調子を弱めた。認識を変えたわけでもないが、やり続けていてはきりがない。そのことをそもそも始めから知っていたのだろう。
「少なくとも、慣れてないことは確かね。こんな服、つい最近まで着たことなかったもの」
「きっかけは、殿方ですわね。それも凄く素敵な方」
 既に初子の方から話す気になっているし、「占い師」だというふれこみに重みを持たせるのにも役立つ。そこで翡翠は、遠慮なく核心へと踏み込んだ。
「そんなことも分かるんだ」
「勝馬を当てるよりは簡単でしてよ。お気持ちがにじみ出ていらっしゃいますもの」
 この場合は霊感よりも、洞察力の問題である。翡翠でなくとも、これまでの彼女の発言と態度から判断すれば分かる。
 似合わないと分かっている、しかも高価な服をわざわざ買って着るようになった理由は、外部環境に求めるのが自然だ。見栄を張っているという可能性もないではないが、それにしては謙虚である。だとすれば後は、男しか考えられない。
「確かにね。叫びだしたいくらいだわ。若くもないし、社会人で世間体とか色々あるからしないけど」
 愛を叫びたいのなら競馬場ではなくどこか別の所へ行くべきだろう。まあ、人里離れていない限り世界中の大概の場所で迷惑がられること請け合いだが。
「なるほど。今日少しお気持ちが沈んでおいでなのは、その方がお傍にいらっしゃらないからでしょうか」
 当面翡翠としても叫ばれては困るので、話を先に進める。初子の陰鬱な様子は少しどころの騒ぎではないのだが、そうだと指摘するのはさらにどん底へと突き落とすようなものである。
「そうだと言えばそうだけれど、そもそも住む世界が違うのよ」
 自嘲がちに、彼女は話し始めた。パドックへの道筋を外れないよう注意しながら、翡翠は聞く態勢に入っていた。

 大学を出て以来、小さな会社の事務員として働いてきた。仕事は雑務一般で、その分出世や昇給の可能性にも乏しい。つまりやりがいはないのだが、その分楽でもあるのでそれで良いと無理をするでもなく納得していた。
 ただ、そんな惰性に任せるままに五年がたち、それにとどまらず十年がたってしまった。そして気がつけば三十代独身女性が「負け犬」と称される、そんな世の中になっていた。
 規模が小さすぎるため、職場には同世代の男性はおろか、交際を広げるきっかけになるような女友達すらいない。一方で特定の趣味の仲間もなく、また夜の街に一人で出て行くような度胸もなかった。見合い話もあるにはあったが、相手の写真を見た瞬間に、嫌がらせだとしか思えなかった。
 ないない尽くしだ。そう自嘲し、一方で焦り始めていた初子にとって転機となったのは、不本意ながらも付き合い上出ない訳にも行かない、会社の飲み会だった。無理に飲まされ、ふらふらとしていたのを助けてくれたのは同僚でも上司でもなく、見ず知らずの若い男性だった。
 少し離れてはいたが、ちょうど彼女の様子が見える席にいたのだという。心配していたものの同僚達の間に割り込んで行く訳にも行かず、一人になった機会を見計らって声をかけたと教えてくれた。
「そんな大したものじゃないっすよ。俺、これでも医者ですからね。仕事柄具合の悪い人を放って置けなくて」
 そうやって照れる若々しい笑顔が、薄暗いはずの居酒屋の中で何故かまぶしかった。
 後日改めて何かの形で礼をしたい。酔ったままの頭でしどろもどろにそう伝えたのに対し、彼は快く応じてくれた。
 翌朝目が覚めた直後には、夢を見ていたのだと思った。ドラマの見過ぎだ、とも考えた。この前やっていた番組が、そんな筋書きだったのだ。しかも相手はぱっとしないオタク青年ではなく、物腰も洗練された医師と来ている。
 しかし携帯電話には、教えられた連絡先が確かに新しく登録されていた。そして恐る恐るかけてみると、覚えていた通りの優しげな声で話してくれた。
 そして次の機会に会ってみて、自分の着ている物の野暮ったさに愕然とした。もちろん一張羅を着込んでいったのだが、それでもである。高価そうなスーツを自然と着こなしている彼とのギャップが大きすぎたのだ。
 ブランド服を買うようになったのは、それからである。もちろん、その後も会う約束をしていたからだ。彼に雰囲気が明るくなったと言われ、素直に喜びもした。
 ただ、物事がそう自分に都合よく進むものでないとは、程なく思い知ることになる。ある日深刻な顔で、多額の現金が必要になったと告げられた。研究のための資金が底をつき始めたというのである。有望さを見込んで肩代わりをしようという教授もいるのだが、それは自分の娘と結婚して婿養子に入るならという条件付きだったそうだ。
 先方の娘というのも決して悪い人ではなく、その教授の後ろ盾が得られれば将来はより有望になる。しかし自分は…と、彼は言葉を詰まらせた。
 必要な額は、初子としてもすぐに用立てられるものではなかった。本来ならある程度の蓄えはあったのだが、彼につりあおうと無理をした結果、かなり減ってしまっていたのだ。待ってくれるのなら地道に稼いで何とかしたい、そう伝えもしたのだが、状況はそこまで悠長でないという。
 具体的な期日は定まっていないが、逆に言えばいつ話が進んでもおかしくはない。それが現状だと、彼は語っていた。
 そもそも縁がなかったのだ。そう思って諦めるべきだと、頭では分かっていた。後先考えずに突き進むような年齢でもない、そう考えてもいる。
 しかし、初子の手元には、まだいくばくかの蓄えが残されていた。給料の一か月分程度。それも最も現金化しやすい、普通預金である。単に考えずに預けていた結果ではあるのだが、いざという際にはこれが最も使いやすい。そして彼が必要としているものに比べればかなり少ないが、何もせずに諦めてしまうには大きすぎる金額である。
 常識的な投資では絶対に間に合わない。一か八かの中でも、例えば宝くじでは当選の発表、換金までに時間がかかるのでこの場合は不適切だ。
 そこで選んだのが、この競馬場である。現に馬券を買った経験はなかったが、買い方についての知識だけは多少あったのだ。同僚に競馬好きの人間がおり、良く自慢話を聞かされたものである。その男は実際たまに羽振りが良いこともあったが、大概は金欠であり、これまでならあてにするはずもなかった。今でももちろん、全面的に信用した訳ではない。ただ、他に行き場がなかっただけだ。
 
 最後にまた、初子は薄笑いを浮かべた。
「別に、本気で勝てるなんて思ってなかったのよ。ただ諦め切れなかっただけ」
 実際、これまでのレースで勝ててはいない。焦ってつぎ込んだ結果、そのほとんどを失っていた。
 翡翠は笑った。嘲笑ったように見えなかったという保障は、彼女自身にもできない。
「でも、もう。諦める必要がありませんわ。そうでしょう?」
「それは…」
 頭では既に分かっているはずだ。自分の欲望を満たすためには、翡翠の助力を得ることこそが最も合理的なのだ。元々捨てかかった望みなのだから、今更慎重になっても意味がない。
 それでもためらわせているのは、「得体の知れないもの」への恐怖あるいは不安だ。ただ、初子は大ほどには他者との接触を拒絶していない。他人を信じようとする心の余裕、あるいは甘さがある。だからこそ、好きな男もできる。もう少しだ、と翡翠は判断した。
「一つだけ、お約束ください。幸せになる、と。わたくしが望むのは、それだけですわ」
 悪魔を自称するだけあって、嘘をつくことには何らの良心の呵責もない。しかし今、話しているのは心からの気持ちだった。それが有効な場面もあり、しかも今ここなのだと、知っているのだ。
「約束、する。幸せになる」
 得体が知れなくても、構わない。初子はとうとう腹をくくった。良く知っている、つまらない日常よりは余程ましだ。
「結構です。では、参りましょう」
 翡翠は歩調を速めた。それに初子がついていく。前を行く者は美しく、気品があり、またどこか超然ともしている。それに比べて後ろを歩く者は着ているものこそ上質だが、容姿といい雰囲気といい明らかに見劣りする。まるで貴人とその従者のようだった。
 上に立っている方が未成年者と思しいだけに、競馬場で見るにはあまりに違和感のある光景だ。何事かと視線を向ける人間も少なくない。初子はそれにも気づかないほど周りが見えていなかったが、翡翠はそれと承知で、しかも当然のように無視して、堂々と歩き続けた。


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