だあくねす
第一章 悪魔、競馬場に行く。
第三話 悪魔の敵対者 


登場人物(?)紹介へ


 次のレースは簡単だった。強そうな馬はただ一頭のみ。当然、単勝一点買いを勧める。結果を見る必要もないので、パドックから直接払戻窓口へと行った方が効率的だろう。翡翠はそう思っていた。ただ、それでは当然初子が納得しないし、いくら結果が分かっているとはいえ味気なさ過ぎる。そこで一度スタンドに戻り、予想の正しさを自分の目で確かめることとなった。
 数馬身差での圧勝である。
「すごい、すごい! やっぱり本当に凄い!」
 初子は年甲斐もなく、飛び上がって喜んでいる。少なくとも今この瞬間、彼女は間違いなく幸福だ。
 ただ、翡翠は華奢な顎に指先を乗せながら難しい顔をしていた。分かりきった勝負が面白くなかった、ということも一つにはある。ただ、それ以上に現実的なことを考えていたことが大きかった。
「思ったより儲かりませんわねえ…」
 まだ換金していないが、いくらになるかは電光掲示を見れば分かる。まだ、初子が既に負けている分の回収にさえ程遠い。賭けた金の倍にさえなっていなかった。
「大本命だったみたいだから、それはしょうがないわよ」
 鉄板とも言う。最も強いと期待され、券が買われていた馬である。配当を受け取る人間が多くなる分、一人当たりの配当額は減ってしまう。
「別にわたくしでなくても当てられたということですわね」
 競馬新聞の見方と馬券の買い方さえ分かっていて、後は余計な欲さえ出さなければ良いだけのことである。もちろん、そうであると見抜いた翡翠の能力は、本来十分賞賛に値するものだ。貪欲な彼女としては物足りなかっただけである。
 上機嫌なままの初子がなだめた。
「外れた人は他にいくらでもいるわよ。さ、この調子で次に行きましょ」
「そうですわね。次でまた当てればよいことでした」 
 くさっていても仕方がない。翡翠としても全知ではない以上、精神状態を悪化させたままでは調子が狂い、予測の精度が低下するおそれがある。そこで気分を切り替えることにした。初子だけを払戻窓口に向かわせ、自分はパドックに直行する。
「せっかくですからお馬さん、連れて帰りたいですわね。それも一頭や二頭ではお馬さんも寂しがるでしょうから、いっそ百頭ぐらいの牧場にして。ああ、でもお父様は生きものを飼うのがお嫌いかしら…」
 実現性に乏しいことは分かっている。百頭も持っていってしまったら大事になるから、まず大が反対するだろう。それを黙殺したとしても、この地上界でさえ人間に世話をされなければ生きていけないサラブレッド達が、故郷の苛酷な環境で生き続けられる可能性は極めて低い。馬が食べるような牧草が生育できるかどうかさえ、怪しいものだ。つぶやいた父親のことも含めて、他にも障害を挙げて行けばきりがない。
 それでも、自分の好きなものが多くいるということを想像するだけで、楽しかった。
 やがて換金を終えた初子と合流して、次のレースに出る馬を品定めする。翡翠はその中から、二頭を選び出した。
「倍率は…中々のようですわね」
 二頭とも全くの不人気ではないにせよ、本命や対抗からは外れている。この組み合わせで買っている人間は、決して多くないはずだ。
「この調子で勝っていければ、きっと…」
 初子のオーラがより濃くなる。その調子でいい。それならばきっと、最終レースが終わる頃には溢れ出すほどになっているだろう。満足した翡翠は、彼女を馬券売り場に行くよう促した。もちろん、初子に異論のあろうはずもない。
 先程と同様、券を買ってからスタンドへと戻る。広い競馬場の中では歩くだけでも結構な手間だが、仕方がない。手持ちの金は目標に比べればまだ少なく、残りを全て賭けてしまって後はゆっくりしているということはできないのだ。レースごとに勝って勝って、勝ち続けることだけが望みを叶えることにつながる。そのためにはそのたびに、少なくともパドックと売り場を往復しなければならない。
 そしてせっかく競馬場にいるのに自分の目で観戦をしないというのも、馬鹿馬鹿しい話である。翡翠が楽しめないし、初子がまた不安に陥りかねない。
 元来決して強い性分の人間ではないだろうから、引き続き注意深く観察する必要はあるだろう。次の出走を待ちながらも、翡翠はそう考えて気を緩めていなかった。
 その時、風向きが少し、変わった気がした。
「あら…?」
 張りめぐらせた感覚の網に、何かが引っかかったのだ。それはどこか、故郷を思い出させる臭いがした。
 とっさに初子を見やるが、彼女は上機嫌なままで、翡翠の様子にも気づいていない。単純な自然現象かとも思ってあたりを改めて見渡してみるが、芝のざわめきも木々の揺らめきも、先程とは変わらないように見えた。しかし、引っかかった何かは消えていない。
 嫌な感じだった。悪魔を自認する者にとって、故郷は決して無条件に肯定できる存在ではないのだ。
 大量虐殺も同族同士の殺し合いも当たり前の世界である。「殺たいほど愛おしい」どころか、「食べちゃいたいくらい可愛い」を本当に実行する連中すらいるのだ。翡翠自身としても別にそれをとがめる気はないのだが、それ以上に彼らの犠牲者になる気はさらさらない。
 それに比べればまだ、毒気は余程薄い。しかし方向性は共通しているように感じられた。少なくとも、相手を思いやるような殊勝な心がけはかけらもないだろう。
 そして不快なことに、強くないだけに翡翠の力を持ってしてもとっさには発生源を特定できない。森の中で遠くの羽虫を探すようなものだ。こちらへの影響が大きくない以上、向こうが明らかな危害を加えようと近づいて来ない限り捨て置くのが賢明ではあった。
「思っていたより良くありませんわね…」
 念のためもう一度、倍率が表示されたモニターを確認する。結果は不本意なものだった。期待されていたよりもかなり低い。年長者らしい外見にふさわしく、と言うべきなのか、初子がまたなだめる。元来そういう、まあまあなあなあの性分ではあるのだろう。
「オッズのこと? 仕方がないわよ。私達が無茶して買ってるんだから」
 本命でない馬券、それもただ一組に相当な金額をつぎ込んでいるのだ。その券のオッズ、つまり配当倍率が少々悪くなるぐらいは仕方がない。
「それは承知しておりますが、やはり気分の良いものではありませんわ」
 説明されなくとも分かっている。人気のあるものほど配当は安く、逆になければ高い。券を買うということは、その対象に人気を上乗せするということだ。つまり理論上、買えばその分だけ安い方向へ動く。もちろん、余程特殊な場合でない限り倍率の変動による影響よりもいくら買っているかによる総額の変動の方がはるかに大きいので、もし当たるのなら買えば買うほど儲かるものだ。
 そして大きなレース、要するに賭ける人間が多く巨大な金額が動くようなものならば、一人が買い増した程度の影響はほとんど無視できるレベルになる。象を蟻が押すようなものだ。
 見渡しただけでもこの競馬場には相当な人数がいる。それにここに居合わせなくとも事前に、あるいは別の窓口で買っている人間も数多くいるらしい。そのため翡翠としては十分に大きな、つまり自分が予想に干渉しても問題がない程度だと思っていた。ただ、現に動いてしまった所を見ると、少なくともこのレースはそれ自体が人気薄なのかもしれない。
「でもまだ、このくらいなら大丈夫。そうだ、気分転換にジュースでも…」
 近場の売店に行って帰ってくるだけの余裕はある。時間的にだけでなく、金銭的にはもちろん精神的にもだ。それを提案しようとした初子の口は、しかし中途半端に開かれたまま閉じなくなった。
 下がった。それも急激に。投票締切一分前、つまり最後の最後で変動したのだ。わずかだとか多少だとか、そのような形容で済ませられるレベルではなかった。
 先程初子は自分の買い方を「無茶」と評したが、それをはるかに上回る金額を投じた人間が、どこかにいるらしい。常識的には、無謀としか言えないやり方だった。それも全てを見渡してはいなかったので確証はないが、今度の更新で大きく動いたのは、その組み合わせだけだった気がする。つまり、予想そのものは翡翠のそれと全く同じなのだ。
 本来つぶらな目を、翡翠はすっと細めた。同等、あるいはそれ以上の力を持った敵手かもしれない。だとしたら、こちらとしても真剣な対応が必要になる。明らかに自分より強い相手であれば、即座に初子を見捨てて逃げ出すという選択も考えなければならない。
「ジュースでも飲みましょ、ね?」
 明らかにうわずった声で、初子が言い直した。まず彼女自身、何か飲んで気分を整えたいのだろう。当然、裏切られることなど考えてもいない。もっとも、そもそも翡翠は彼女から何らの見返りも得ようとしていない。だから気が変わったとしても、非難されるいわれはないのだが。
「せっかくですから、是非」
 油断した訳ではないが、先方の出方がはっきりしていない現状では必要以上に警戒していても仕方がない。あるいは緊張を長引かせ、消耗させるのが目的かもしれないのだ。
 そこで選んだのが、メロンソーダである。鮮やか過ぎる緑、どう考えてもメロンではない香り、そして重々しい甘さと炭酸の刺激がたまらない。一方初子が頼んだのは、オレンジジュースだった。
「そういえば初子様、お酒は少しもお召し上がりになりませんの?」
 売店にはビールその他の酒も置いてある。それに食べ物の品揃えも、酒飲みが好きそうなものばかりである。これは大の食生活を見ていれば良く分かる。脂っこく塩辛いものが多い。
 周りを見渡せば、売店の紙コップを手に顔を赤くしている人間もそこかしこに見られた。ビールならばまだ可愛いほうで、日本酒か焼酎とおぼしき透明な液体が入ったものを手にしている人間もいる。頑張って探せば、一升瓶を抱え込んだ酔っ払いも見つかるかもしれない。まだ日も高いのだが、わざわざ競馬場まで来て固いことを言い出す人間もいないようだ。
 先程聞いた話からして、さほど酒に強くないとは分かっている。ただ、そうであればこそ嫌なことがあれば無理に飲んで忘れる、あるいはこのような勝負事であれば酔った勢いに頼るという逃げの打ち方もあるはずだ。
「自発的には一滴も。味が好きじゃないのよ。特にビールが駄目。付き合いで仕方なく飲まされるから、余計に嫌いになるの」
「そうでしたか」
「でも、体質的に全く受け付けないというほどでもないわ。それで運気が上昇するなら、我慢できるけど」
 記憶力には自信があるなどと言いつつ忘れかけていたが、一応初子に対しては「占い師の卵」というふれこみだ。だから言ってみれば「ラッキーアイテム」として勧められたものと受け取ったのだろう。
 少し考えた末、翡翠は小さく首を振った。
「自然体が一番ですわ。万一我慢していらっしゃっては良くないかと思ったのですが、そうでないのならそれに越したことはありません」
 このうえ酔っ払いの面倒など見ていられない、というのが本音である。それに予想をしているのは翡翠でも券を買っているのは初子なので、その際間違えられては不本意だ。
 それに自分自身、少し気にしすぎだったかもしれない。自分よりも強い相手にもし敵意があったなら、直接攻撃してくるのが自然である。人間以外の存在だったとしても、戦えば勝てる可能性が高い。メロンソーダを味わいながら、とりあえずことの成り行きを見守ることにした。
 結果はもちろん予想通り。しかしそれだけに、自分達よりも儲けている者がいるので腹が立った。
 そして次のレース、翡翠はさらに苛立つことになる。上位陣の実力が伯仲しており、彼女といえども予想が難しかったのだ。冷静に考えれば今回は見送り、という選択もあったのだが、こうなると意地である。
 迷ったあげく、翡翠は今までのような一点集中買いを諦めた。初子の提案もあり、分散して買ったのである。これで当てやすくなったが、当然外れる券も出てくるので、儲けは小さくなる。
 止めは、その後のオッズの変動だった。先程と同様、買った券だけ倍率が下がったのである。気になって見ていたので間違いはない。今度は複数だから、偶然とは考えにくかった。これは何かの挑戦だ。
「何か手を打った方が良さそうですわね。このままでは安心して予想ができません」
 少なくとも表面上の冷静さを保っていたのは、初子に配慮したためである。異常事態に異常事態が重なって、すっかりおびえている。翡翠は何も言いはしなかったが、何らかの形で悪意を向けられているとは既に察知しているだろう。
「わたくしの知り合いに相談してみますね。それなりに競馬にお詳しくて、頭の良い方ですから。携帯電話をお借りしてよろしいでしょうか」
 おずおずと差し出されたものをすっと受け取ってから、翡翠は少し距離を置いた。使い慣れない機種は扱いにくいものだが、気にはならない。そもそも、相手の電話番号を知らないのだ。普通の手段であればかけられない。
 ボタンを押す「ふり」だけをして、耳にあてる。当然、何の音もしない。しかし構わず、少し待った。そして、あるはずのない反応が返ってくる。
「…翡翠、か?」
「さすがは大様。良くお分かりになりましたね」
「画面に着信の表示がないのにベルが鳴る、なんて芸当のできる知り合いは限られてるからね」
 翡翠が今通話に使っているのは電話会社のサービスではなく、自分自身の魔力である。もちろん、電話を手に持たなくとも話はできる。ただ、超常の力を見せびらかして混乱を拡大させたくないので、通常の手段を使っているように装ったのだ。
 大の側でも、電話が鳴ったように音だけを鳴らしている。本人は驚いただろうが、彼の性格からして大騒ぎをしたとは考えにくい。他人には気づかれていないはずだ。ちなみにこの男は着信メロディーなど使っておらず、鳴ったのは初期設定のままの電子音である。
「ご理解いただけて嬉しいですわ。ところで大様、少々おうかがいしたいことがあるのですが」
「俺じゃないよ」
 いきなりの否定。苛立ちを少し忘れて翡翠は苦笑した。
「まだ何も申し上げておりませんが」
「何が起きてるかは大体把握してるつもりだよ。オッズが妙だ。確定倍率がやたら低い。まるで、誰かが始めから結果を知ってたみたいにな。いや…直前にかもしれないが。気になって見ていたら、今度のレースでも直前に変な下がり方をした。このうちどれかは当たりなんじゃないのか」
 状況を冷静に観察し、分析している。それを悟って、翡翠は表情を引き締めた。
「少なくともわたくしはそう判断しておりますわ。そしてわたくしに人様とは異なる予測の能力がある、それをあらかじめご存知であったのは、この場にただお一人あなた様だけ。そこから導かれる合理的な推測として、最も疑わしいのは御自分。大様としてはそうお考えゆえ、まず否定をなさったのですね」
 彼に儲ける意志があるなら、すべきことはただ一つだ。翡翠と全く同じように賭ければ良い。そしてそれは、これまでの謎の敵対者の行動にも合致する。
 さらに言えば、堅実な生活をしている彼にはそれなりの蓄えがある。勤め先も出来が良く、給料の遅配が一度としてないのはもちろん、ボーナスもまとまった額が夏冬二回必ず払われている。結果、元手としては初子よりも大きいのだ。別に教わった訳ではないのだが、そのような金銭面には勘の鋭い翡翠だった。
「そういうこと。まあ、君の口ぶりからすると、どうやら深刻には疑われていないようだが」
 本気で疑っていたならば、否定された直後に笑ったりなどしなかっただろう。それをさらに否定するか、論拠を挙げて追及するか、いずれにせよ攻撃的な態度になったはずだ。
「今更お考えを改められるほど柔軟な方ではないと考えておりますので」
 にわかに気が変わったとしても、意固地になってそう簡単には自分に助力を求めては来ないだろう。その認識を遠慮なく伝えたのだが、大は笑って流した。
「信頼されてると思っておくよ。で、何が知りたいんだい?」
 信頼、とは、悪魔には縁のない言葉だ。少し考えてから、翡翠はその評価への反応をしないことに決めた。
「まずおうかがいしたいのは、皆が皆、大様のように倍率に注目しているのかということなのですが」
「そんな訳ないじゃん。本命はそもそも買われすぎているから動いたとしても限りなく誤差に近いし、大穴が動いたとしても、普通はしょうもないものを買っている馬鹿がいるとしか思えない。大体、君と同様パドックを見てから駆け込みで買う人間も多いから、出走前の情報と確定した結果が違うなんてことも良くあることさ」
 オッズ、配当倍率はあくまで参考だ。いくら低くても、その馬が勝つと信じているならそこに賭けるしかない。そこまでの確証がないなら、始めから勝負に乗らないという選択肢もある。逆に実力がある割に高すぎると判断すれば、少しだけ買ってみるのも良い。その程度である。
「では何故?」
「少なくとも今日に限って言えば、普通では有り得ないことをやらかす奴がいる。それは知ってたからね。さすがに気になって、色々見ていたということさ」
 大自身の行動には、十分な理由がある。ただ、それはあくまで彼の特殊な事情を反映したものだ。翡翠は目を伏せた。
「そこまでする『人間』はいないということになるでしょうか」
 しかし現に、事態は起きている。翡翠に限らず、間接的に傍観していただけの大にも察知できるほどはっきりと、だ。今更「誰もいない、ただの偶然」などという結論は有り得ない。それが分からない翡翠でもないはずである。
「君が考えている『人間以外』がどんなものなのか、俺には良く分からないけれど。考えすぎって線もあるんじゃないのか? 君たちはどうだか知らないが、なまじ優れた人間は自分のレベルで物事を考えるから、低次元な事柄を見落としたりするものさ」
 基礎の基礎から最高度の応用まで、偏りなく考えをめぐらすことができれば真の賢者だ。しかしそんな人間は滅多に、あるいは一人もいない。
「低次元ですか」
 素直にではなかったが、翡翠は自分にも見落としの可能性があることを認めた。だからこそ、大の意見を聞いているのである。
「ああ。単に買い方を真似されてるだけだったりしないか? 別に難しいことじゃない。パドックを見ている君が指差す馬を覚えたり、申し込みのマークカードを盗み見たりするだけでいい。慣れてる人間ならすぐに分かる。もう少し手の込んだやり方もあるが、今はこの程度で十分だろう」
 確かに翡翠も初子も、隠そうという努力はしていなかった。特に精神的な余裕のない初子には、周囲に気を配る力が欠けている。券を買う際には基本的に彼女一人だったから、こっそりと近づいてから離れていくような人間には気づかない。
「有り得ますわね。…いえ、それでも、わたくしに読む力があると分かっていなければ真似ようとしなかったはずです。それにそもそも、普通の人間の方が、これだけの人々の中からわたくしだけを見つけ出すことができたでしょうか」
 単に真似れば良いというものではない。自分の金を賭けているのだ。それも相当な高額である。強い根拠がなければできない。そぶり程度ならともかく、きちんと教えられていたのは大と初子だけである。
 そして、この広いスタンドの中では、例えば知っている顔を探し出すだけでも一苦労だ。見ず知らずの者の能力など、分かるはずがない。
「多分だけどさ。始めは単なる偶然だったと思う。誰かがたまたま、君たちのそばにいたんだ。そして気になったきっかけも勝負とは無関係だろう。君自身はただでさえ目立つ容姿で、しかもこの競馬場にいるとは考えにくい年齢に見える」
 この世ならぬほど美しい、年頃というにも幼すぎる少女だ。例えば勝負とは無縁ののどかな牧場ならば、似合うかもしれない。ここでは違和感がありすぎて、視界に入れば何らかの形で意識はするだろう。
「お褒めにあずかり光栄ですわ。ただ、だとしたらその代わりに、わたくしは間抜けとの汚名を感受しなければなりませんが」
 大の言うとおりであれば、注意を引いてしまったのは完全に翡翠自身の失策だ。そもそも人間ではないのだから、姿を変えるという選択肢もあった。そうしなかったのは、今の姿が気に入っているからというそれだけの理由に過ぎない。
「まあまあ。顔を隠していてもそれはそれで不自然だから仕方がないさ」
 翡翠が悪魔だとは知っていても、とっさに姿かたちから変わるという可能性まで考えられるものではない。大と言えどもさすがに、なだめる内容は人並みだ。この点については相談に乗ってもらっても仕方がないので、翡翠は自分で話を進めることにした。
「後の筋書きは簡単ですわね。気になって見ていたら、大勝ちするものだからそれに乗ってみる気になった…と」
「ああ。尻馬に乗るなんてせこい真似、なんて片付ければそれまでだけれど、勝負度胸と手持ちの金はそれなりにある人間みたいだな。俺だったらためらう」
 低次元などとも言っていた割には、大はその人物を警戒しているようだった。口調がやや厳しいものになっている。それを承知で、敢えて翡翠は楽観論を振ってみた。
「しかしわたくしたちに知れてしまえば、それまででしょう。見せないようにすれば、それで終わりです」
「ん…。俺も今さっきまではそう考えてた。ただ、ちょっと気になることを二つばかり思い出しちゃってね」
「まず一つは?」
「ああ。勝負事には大概、不正の噂がつきものだ。もちろん証拠がないから、俺としては実際に不正があるなんて言うつもりはない。ただ、逆に本当に何もないということを証明することは難しいんだ。主催者側がいくら否定しても噂はなくならないし、それをネタにした詐欺まである」
 翡翠はくすりと笑った。
「『悪魔の証明』ですわね。例えば『悪魔は存在しない』と証明するのは、難しいですわ」
「一般論は合ってる。ただ、その具体例は混同の元だし、しかも君がそれをもちだすのははっきり言って良くない。話がややこしくなりすぎる」
 本来は神学やオカルトと無関係の、法学用語である。「何かが存在しないことを証明することは極めて困難である」という意味だ。存在することを証明するならば、その証拠を一つ挙げれば足りる。しかし、しないと証明するためにはあらゆる過去の履歴、あるいは可能性を検証しなければならないため、多くの場合現実問題としては不可能に近い。この文字通りの無理難題を、「悪魔」と形容したのである。方向性としては極悪非道な人間を「悪魔」などと罵るのと一緒で、基本的には現実の問題だ。
 翡翠が持ち出した例も、間違いではない。「悪魔は存在しない」と証明するためには、全宇宙のあらゆる法則を解き明かし、かつそれに照らして全ての現象を検証して、怪しげな存在が棲まうような余地を完全になくさなければならない。この証明自体が、ほぼ間違いなく不可能である。ただし、説明に当たってこの例を使ってしまうと「非存在の証明」というもともとの単純な意味が膨らむ、あるいはぼやけてしまうので、注意が必要だ。
 そして、このような常識にのっとった話を、かなり頭に近い部分からぶち壊しにするのが、翡翠の存在そのものである。
 何しろ悪魔なのだ。科学の進展によって、往古に比べれば存在感はないに等しくなったはずの種族である。しかし現代科学を嘲笑うかのような常識外の力を持っている。知能は高いのだから、自分達を引き合いに出したのはわざとである。混乱を好むあたりが彼女らしいといえば彼女らしい。
 ただ、本題から外れて困るのは彼女の方だ。助言を求めているという立場を忘れてはいない。
「失礼を致しました。大様がおっしゃりたいのは、現に不正が行われているかどうかではなく、そういうことがあると思っている人間の存在に注意が必要だということですね」
「ああ。分かるだろう? まず『始めから勝負の決まっているレースがある』なんて話を聞いた上で、実際情容赦なく当ててる奴を見たらどう思うか。そいつに人並みはずれた予想の力があるなんて、絶対考えないぞ」
 馬券を買って的中させるのに情も容赦もあったものではない。しかしニュアンスは掴んだし、指摘するとまた脱線するので止めておいた。
「不正に加担して結果を知っている、と捉えるのが自然ですわね。わたくしでもそうします」
 物事を明るくは受け取らない二人(?)であった。ややためらってから、大は告げた。
「傷ついてるみたいだからどうかとは思ったんだが、この際はっきり言うよ。さっきの繰り返しだが、君は普段競馬場にはいそうにない人間だから。場合によっては何かの鍵を握っているようにも見える」
「もしかして、わたくしを虐めて楽しんでいらっしゃいます?」
 翡翠はわざとむくれた声を作っている。しかし大はそれに乗っては来なかった。冷たく笑っている。
「そんな柄じゃないな。俺は臆病だから、後で報復される可能性が少しでもあると怖くて、虐めなんてできない。で、話はそれで終わりかい?」
「やっぱり意地悪ですわ。先程二つ気になるとおっしゃったのに、まだ一つしかおうかがいしておりません」
 今度はすねた声を出してみる。相手は苦笑がちに口を開いた。
「はいはい。二つ目は、相手の人物像だ。どうも、接するには注意を要する種類の人間じゃないかって気がするんだよ」
 一つ息をついてから、大は真剣な口調に戻した。
「他人の予想を盗み見るなんて、褒められないどころか嫌がられることだ。しかし先方はそれをためらっていない。つまりモラルに欠ける人間らしい。その一方でやるとなったらためらわないうえ、でかい金も持ってる。暴力団の上の方とか、そういうやばい連中じゃないといいんだが」
 暴力団でも下部構成員なら、そこまでの現金は持っていないだろう。金づるがあっても上に吸い上げられるはずだし、まめに貯蓄をしていたらお笑い種だ。万一貯めていたとしても、そういう堅実な人間ならば大博打には出ない。
「わたくしでしたら心配はありませんが…あの方に危害を加えられると困りますわね」
 どのような種類であれ、ただの人間であれば何人いようと翡翠にとっては恐怖の対象にならない。しかし、初子に害が及べば、そもそも彼女を幸せにするという目的が台無しである。
「それにだ。君が人外の力で大立ち回りでも演じてみろ。後のレースが開催されるという保障はなくなるぞ」
 噂はさておき、公営の競馬である以上は可能な限り公正にすることになっている。その前提を覆すような異常な事態が発生すれば、中止せざるを得ないだろう。
「わたくしとしてはできるだけ上品でお淑やかに済ませるつもりですが…人様に言わせると十分大事になるかも知れませんわね」
 やりすぎだという自覚はある翡翠である。問題点はほぼ反省していないことだ。
「そうだな。俺の推測が正しいかどうかは分からないけれど、そろそろ潮時なんじゃないかな。二回も勝てば十分だろう」
「まさか、このまま諦めて引き下がれとおっしゃるのですか?」
 声のトーンを上げる。それに反比例するかのように、向こうの調子は下がった。
「そうだよ。きれいに勝って終わるためには引き際が肝心だ。今止めれば恐らく、君たちを狙っている相手も深追いはしない。仕組まれた勝負はこの二回だけ、そう判断すると思うんだが」
「大様にしては甘すぎる期待だと思いますわ。そもそも、男らしくありません」
「俺のことはいいとして。君、男じゃないじゃん」
 そもそも男女、あるいは雌雄で分類できるような存在ではない。それは翡翠自身が承知しているが、今持ち出すような話ではない。さすがに少し気分を害して、語気を強めた。
「でしたらば言い直します。男女問わず誰しも、引かずに立ち向かわなければならない時がありますわ。あの方にとっては、今がその時なのです」
「悪いけど…一世一代の大勝負の場として競馬場に来ざるを得なかった時点で、既に限りなく負けに近いよ。本気の戦いってのは、場所にせよタイミングにせよ、できるだけ勝てる、自分の力を発揮できる環境を整えてやるものだ。運試しなんて論外だよ」
 冷徹な言い草だ。知らないとは言え、またそれが客観的には正しいとは言え、初子の個人的な事情をまるで考慮せず、負けの可能性のごみ箱の中へと放り込んでいる。
 不快ではあったが、しかし反論のできない翡翠だった。初子に加担していなければ、彼女自身同様に考えただろう。元来慈悲深い性分ではないし、勝つためには手段を選ばない。
「ご忠告には感謝いたしますわ。しかし、おっしゃる通りにはできません」
「礼を言われるだけでも上等だよ。トラブルに巻き込まれたくないから、俺は先に帰らせてもらう」
 大自身も翡翠と一緒にいたのだ。そもそも彼女を連れてきたのが彼であるから、見ようによっては不正を働いている一味になってしまう。危険な類の人間とは当然関わり合いになりたくないし、逆に警察や運営側に目をつけられても面倒だ。
「賢明なご判断ですわね」
 意気地なし、と言うのは簡単だ。しかしそれは負け惜しみのような気がして、翡翠のプライドが許さなかった。
「それはどうも。健闘を祈るなんてお互い柄じゃないだろうから言わないけど、成果が出ることを願ってはいるよ」
 自分ひとりの身の安全を優先させる程度には利己的だが、他人の不幸を喜ぶほど性根がねじ曲がっている訳でもない。翡翠自身はともかく、他の人間が被害をこうむれば後味の悪い大だった。言ってみれば被害者仲間でもある。それに大の予測が正しければ、今回彼女を敵に回している人間には、肩入れする理由が全くない。
「あら、祈っていただいても結構ですわよ。ただ、神ではなくわたくしに対してでなくては困りますが」
 競走馬に「お馬さん」とさん付けをしても、神は呼び捨てにする彼女だった。彼女の普段の口調からすれば、「神様」と言った方が違和感がない。
「そういう柄でもない。じゃあな」
 携帯電話を畳む音がした。そうしたとしても会話に支障はないとは、彼も気がついてはいるのだろう。だからこそ、これは話を打ち切るという意志表示だ。
「はい。では後ほど。成果をご報告いたしますわ」
 これは自分自身への約束だ。だから返事は期待していなかったし、実際になかった。
 初子の所に戻って、翡翠は予想を真似られている可能性があると説明した。相手の人物像については、伏せている。脅かしても意味がないし、自分が対処すれば済むことだと判断したのだ。
「とりあえず、見せないようにすれば大丈夫なのよね」
 初子の答えはこうである。危険性について言及しなかったばかりに、誤解を与えてしまった。
 翡翠は成り行きを呪うことにした。自分を呪っても良かったのだが、似合わないので止めている。
 隠そうとした場合には、相手が強引に聞き出してくる可能性も考えなければならないのだ。大が言うような暴力団だったとしたら、誘拐されるかもしれない。そこまで行かなかったとしても、脅されれば初子はすぐに口を割るだろう。
「そうですが、そのままというのも癪な話ですわ。少々懲らしめて差し上げるとしましょう」
「そんなこともできるの?」
 普通であれば、言い方は悪いが例え初子であっても疑ってかかっただろう。翡翠の容姿は、それだけで判断すればかなり弱い部類に入る。しかし今の彼女は、少なくとも予想の面において想像を絶する実績を上げているのだ。成り行きさえ間違えなければ、他の面でも信じさせることができる。
「実を申せばそちらの方が得意なのですけれどね。占いの方が役に立ちますから」
 と言いつつ大嘘だったりする。そもそも占っている訳ではない。
「さ、参りましょう。いずれにせよ、わたくしは次も勝たねばならないのですから」
 すたすたと歩き出す。しかし、初子は慌てて手を伸ばした。
「ち、ちょっと待って」
「怖気づきましたか? 咎めはしませんが、しかし、無益ですわよ。それでは何も始まらない。それは私よりもむしろ、初子様ご自身がお分かりのはずです」
 問うまでもなく怖気づいている。彼女ならばまず、見捨てられることに対する恐怖を感じているはずだ。そう思って、翡翠は振り返った。
 しかしそこにあったのは、恐怖以前の、ごく単純な戸惑いの顔だった。
「あ、いえ、あの」
「何か? おっしゃりたいことがおありでしたらご遠慮なくどうぞ」
 煮え切らないにもほどがある。翡翠のこの言葉は表面を取り繕っているだけで、意味合いとしては「言いたいことがあるならはっきり言いやがれ」と、何ら変わりがない。
 しかしこの場では、奇跡的にと言うべきか、功を奏した。遠慮をしすぎる様子は相変わらずではあったが、彼女は口を開いた。
「まだ…今度のレース、始まってないんだけど」 
 そうなのだ。翡翠としては不本意な選択だったとは言え、別に負けが決まった訳ではない。結果は見届けなければならないし、次のレースに賭けるためにはその配当を受け取る必要がある。それに、翡翠の予測においては何より大事なパドックへ急いだ所で、まだ次のレースの馬は出てきていないだろう。
「…失礼致しました」
 言い訳をすればするだけ無様だ。翡翠は素直に謝った。しかしさすがに冷静ではいられず、顔が火照る。少々人間に似せて作りこみすぎてしまったかもしれない。
「ううん、いいのいいの。人間誰しも間違いはあるわよ」
 毒にも薬にもならないありきたりな慰め…と言いたい所だったが、翡翠は人間よりも高等な存在だと自認しているのでさらに傷ついた。相手が悪意を持っていたなら、最早無様などという観念もかなぐり捨てて、腹いせに危害を加えていたかもしれない。
 結局、珍しくむっつりと押し黙って、勝負の行方を見守ることとなった。開始を告げるファンファーレが鳴り響いたのは、その後だった。
 レース結果は、翡翠の予想の範囲内ではあった。それだけに、あらかじめ分かっていたとおり得られたものも多くはない。難しいレースだったため当たりの配当倍率そのものは高かったのだが、かなりの部分が保険として賭けた他の券の損失と相殺されてしまうのだ。
「所詮はわたくしも守銭奴の娘、ということですか…」
 口の中でつぶやく。人間に喩えるなら父親に当たる存在のことを思い出してしまったが、つとめて意識から追い払った。蔑まれてはいても、相手は頂点に限りなく近い恐るべき者、魔界屈指の実力者だ。悪い方へ気にすればするほど、影響されてしまう。
「それで、どうするの?」
 今は悩むのではなく、行動すべきときだ。翡翠はうなずいてから説明した。
「初子様はこれまでどおりで結構ですわ。ただ、今度はわたくしも、券の売り場までお供します」
「隠さなくていいの?」
「必要ありません。それを買えないようにして差し上げれば済みますから」
 相手にとっても初子は金づるだ。今までどおりのことをさせていれば、危害は加えないだろう。翡翠はそう判断していた。
 そして、パドックから券売所へと、恒例になりつつあるルートを再びたどる。ただ、その際翡翠はそれとなく、しかし確実に周囲に注意を払っていた。
 奇異、あるいは賞賛の視線は、相変わらず数多く浴び続けている。中には嫉妬、あるいは明らかに性欲だったりするものもある。その束になって絡み合った中から、翡翠はただ一つをより分けようとしていた。それは、金銭欲だ。少なくともすれ違っただけなら、金儲けの種になるとは分からないはずだからだ。
 思ったより手間取りはした。しかし初子がマークカードを書いているときにとうとう、見つけ出すことができた。大概の人間は、もちろん自分の金がかかっている自分自身のカードに注目しているものだ。あるいは、レース情報が映し出されているモニターを見ている。中には他人の予想が気になる者もいるようだが、そういう場合は要するに気が散っているので、あちこち目移りするものだ。
 その中で、ただ一人。初子のカードにだけに目をやっている者がいた。さりげなくを装っているつもりなのだろうが、客観的にかつ一貫して観察していれば、明らかに不審だった。特に、さすがに気にし始めてる初子の視線を避けようとしているので余計に目立つ。
「しかし…大様が気にしすぎなのはいつものことですが、わたくしともあろうものが影響を受けてしまいましたかしら」 
 こちらは先方に気がついている。そのそぶりを見せないように注意し、やや距離を取りながら、翡翠は口の中でつぶやいた。どう想像力を逞しくしても、他人を威圧しながら生きている類の人間とは思えない容姿だった。
 背が低く、ぶくぶくと太っていて、生白い肌をした男だ。あからさま過ぎるほどに喧嘩は弱そう、だけでなく、運動一般の経験や能力が乏しいように見える。いくらアウトローでも、いやだからこそ、入れて下さいと頼み込んでも断られるだろう。凄みが足りないにもほどがある。
 それに知的にも見えない。まず肥満している時点で、第一印象として動作の緩慢さとそれに比例した頭の回転の遅さを連想してしまうのだ。もちろんこれは単なる、そして悪質な偏見であり、太っていて頭の良い人間はいくらでもいる。ただ、それを他人にアピールするとなると、そうでない人間よりも第一歩では不利になりがちだ。知的な、と聞いて想像されるのは大概痩せた人間である。
 しかもこの男の場合、表情にしまりがないうえ服装もだらしなかった。少なくとも、外見を演出することに頭を使っていないことは確かだろう。
 あるいは、初子のカードを見ていたことそのものが思い違いだったのだろうか。そう危ぶんで見ていると、その迷いを断ち切る動きがあった。初子が書き終えるのを見届けるとすぐ、彼もやや慌てながらもカードを書き始めたのだ。それも、全く同じに書いている。全く大の言うとおり、横で見ているのは簡単だった。
 カードの記入項目は、第何かというレースの番号、馬番または枠番、そして金額だ。その男が馬番までを書き入れたところで、翡翠はすっとその前に立ちはだかった。
「少々お時間を、よろしいでしょうか」
 花も恥らう笑顔で行われたのは、場外乱闘の宣戦布告だった。


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