だあくねす
第一章 悪魔、競馬場に行く。
第四話 悪魔とハァハァ 


登場人物(?)紹介へ


 自分の予想を真似して馬券を買おうとしていた男を、翡翠は呼び止めていた。やたらと太っていて第一印象では美点の見出せない、用事がなければ自分からはむしろ避けたい類の人間である。対する翡翠は人間の目からすれば非の打ち所のない美しさの持ち主であり、普通の街中であれば男女問わず、声をかけられれば思わず見惚れて足を止めただろう。
 しかしここは男の戦場、競馬場である。無論女でも命がけで挑んでいる人はいるだろうが、それはそれだ。ともかく、馬体の完成度ならいざ知らず、少女の美しさなどに気を留める者などいるはずもない。
 他人の進路を阻害して、邪険にされながら避けられるならまだ良い方だろう。どやされても不思議ではない。まして相手は、大金を賭けようとしている。必死になってどかしにかかるかもしれない。
 ただ、それも翡翠の狙いの一部だった。暴力沙汰を引き起こせば、それだけで退場は確定である。よくよく見れば悪いのは彼女だが、そこまで彼女達だけを観察している人間はもちろんいない。もちろん、暴力を使わなかったらなかったで、後の策も考えてある。
 そして男は、こくこくと、うなずいた。ずいぶんと素直、いや、従順すぎる態度だった。
 …あら? あらあらあらあらあら?
 予測が丸外れだ。もしかして、とんでもない見間違いをしてしまったのだろうか。やや慌てて初子の様子を再確認したが、彼女は既に券を買い終えた後だった。見逃しがなければの話ではあるが、他に怪しい人間はいない。
 仕方なく、当面怪しいこの男を調べることにした。初子には先にスタンドへ行っているよう目で促し、自分は逆方向へと歩き出す。それ以上何も言うでもなく、男はついてきた。
 とりあえず聞かれては困る話なので、移動しがてら人気のない場所を探すことになる。しかし、客のいない所は運営側の人間がいたりして、中々難しかった。その間、男は隙を見て離れるでもなく、かと言って話しかけるでもなく、ただ、黙々とついてくる。
 いや、そうではない。彼は彼なりに、することがあったのだ。じっと見ている。翡翠の髪を、肩を、背中を、腕を、腰を、尻を、指先を、ひかがみを、ふくらはぎを、足首を、そして足を。つまりは、後ろ側から見える全てである。もちろん、そうと感づかない翡翠ではない。
 鳥肌が立って嫌な汗が出そう…気分が悪いですわ。内心、翡翠はため息をついた。彼女にそんな語彙はないが、この場合は現代女子高生調で表現した方が分かりやすく、そしてある意味正確だろう。
 てゆーかキモイ! チョーキモイ!
 相手が人間である以上怖くはない。それは確かな翡翠である。しかし、それと気持ち悪くないかどうかは、全く別の問題だ。例えばゴキブリやミミズは、大概の人間にとって触りたくないものだが、身の危険を感じている訳ではない。それと同じことだ。
 しかも翡翠には、普通の人間に分からないことまで察知してしまう力がある。この際敢えて直視しないようにしているのだが、毒々しいオーラはそんな努力を嘲笑うほどに溢れ出ていた。これは明らかに、性欲だ。だからこそ先程は直前まで気づかなかったのだが、それも既に遠い世界の出来事のようだ。
 まあもちろん、洞察力に優れていれば見られている時点である程度普通の人間でも分かるものである。ただ、彼女の場合は執拗にアピールされているのに等しい。
 正直、帰りたいと思った。正直が悪魔にとって褒められたことではないと重々承知ではあるが、それでもである。せめて、大の部屋に戻るだけでもいい。
 ただ、結局はしなかった。いや、できなかったのだ。翡翠にも、いや彼女だからこその意地がある。すごすごと逃げ帰ったのでは、後で大に何と言われるか分からない。何も言わないかもしれないが、何か思われるだけでも腹が立つ。
 そこで意を決して、どうにか人目のないところで翡翠は振り返った。
「どういう、おつもりかしら?」
「ハァハァ」
 第一声それですかっ! 珍しいことではあるが、翡翠は思わず内心でツッコミを入れた。彼女は「ボケ」、「ツッコミ」のバランスにおいて、基本的にはやや「ボケ」に傾斜している。一方敢えてツッコミに回る際には、はっきり口に出すものだ。
 同居を装う際に、大が世間体を気にした訳が良く分かった。少女を性的な対象として扱うために一緒にいると思われることはまず避けようとしていた。確かに、こんなのと同類と見なされたのではその時点で身の破滅だと思う。今の所会話らしい会話は成立していないのだが、この時点でもう十分すぎる。
 もちろんこれは極端な例で、実際の犯罪者としてはむしろ普通に見える方が危ない。例えば大ならそう論評したかもしれないが、翡翠にはもちろんもう、聞く耳などあるはずもなかった。
「いえ、あなた様のおつもりなんてどうでもよろしいですわ。真似をして券を買うようなこと、止めていただきましょう」
 とりあえず、話を打ち切りにかかる。当然、拒否された直後に実力行使に出る構えである。目撃者があるのならともかく、そうでなければ人間に悟られないよう危害を加える方法はいくらでもある。
「気が…強いんだね」
 ぼそり、と、聞こえるかどうかぎりぎりの小ささの声で言う。そのつもりはない…というよりも、そもそも他人との関わりについて深く考えていないのだろうが、どうにも相手を苛立たせずにはいられない男だ。翡翠の故郷では見られないタイプである。生まれた瞬間あるいはそれに近い時点で、抹殺されるだろう。
「淑女に向かって失礼な、と申し上げたい所ではありますが、この際そう取っていただいても結構ですわ。あなた様に向かってしおらしくあろうとは思えません」
 けなされて良かった。嫌いな相手に好かれるほど気分の悪いことはない。そう考えた、ちょうどそのときだった。
「ハアハア…いいよ、凄くいい…」
「…は?」
 聞きそびれたのかと思った。会話が成立していない。そしてそのまま、男の一人語りが続く。
「思ってたのとは違うけど…その方が、ずっといい」
 それまで半開きだった厚みのある唇が、べろりとまくれ上がった。それが笑みであると気づくためには、翡翠にも少々時間が必要だった。故郷のもっと醜悪な、あるいはそもそも唇という器官を持たない種族の笑みも見分けられるのに、である。
 ずっ…と、男は一歩を踏み出した。体重にものを言わせた「どしん」という足取りではない。引きずるようにしている。どうやら、足そのものも重く、持ち上げることさえ億劫であるらしい。蛇、いやなめくじを思わせるような動作だ。
 翡翠は素早く、二歩下がった。
 別に逃げたのではない。気圧された訳でもない。ただ、汚物を避けただけだ。自分にそう言い聞かせる。それが所詮、自己正当化でしかないことに、翡翠の心の最も冷たい部分は気づいていた。
 悪魔が正当化! それも悪の中の悪、魔界屈指の濃い「血」を持ち生まれながらに強大な魔力を誇る存在が、正しいことにすがっている。これほど愚かしい話はない。
 祖父に…母方の祖父に知られたらどう思われるだろうか。怒りを買うか。あるいは所詮あの父親の娘だったかと、まとめて蔑まれるか。祖父は父親と違って、ただひたすらに畏怖される、そういう「御方」だ。
「別にね。金が欲しかったわけじゃないんだよ。ただ、君のしていることと、同じことをしてみたかったんだ」
 正視に耐えないうえどこもかしこも膨らんでいる体躯のため今ひとつはっきりしなかったのだが、ポケットは相当に一杯だったらしい。やや力を込めて、そこから紙幣を大量につかみ出した。「札束」ですらない。方向が揃っておらず、折れているものも少なからず見えた。金に執着していない、というのは事実だろう。
「ほら、こんなにたくさん。これが、君を信じた証だよ」
「あなたのように醜い方に、信じられたくありませんわ」
 きっぱりと言い放つ。さすがにこれなら怒るだろう。その期待は、またしても裏切られた。
「ああ、なんていい声なんだろう。その声で、もっと僕をなじってくれ。醜いブタとなじってくれ。ハアハア…」
 この男、真性のマゾだった。気づいたときにはもう遅い。強気に出ればそれだけ、相手を悦ばせるだけである。本来の翡翠の力を持ってすれば人間の欲求の傾向も分かるのだが、今回はなるべく正視しないようにしていたために見過ごしていた。
 とは言え、友好的に対応したら、それはそれで狂喜するに違いない。最も賢明な対処は相手にしないことだが、その選択肢は翡翠自らが潰してしまっている。八方ふさがりとはこのことだ。
 そして物理的にも、逃げ場がなくなっている。後ろは壁だった。それをいいことに、男はさらににじり寄る。
「僕の天使、女神よ…」
 これは侮辱だ。まず、天使や女神を侮辱している。女神は多神教の存在であるから、そもそも唯一絶対の神に仕える天使にとっては邪教の神でしかない。一方天使は神の下僕だから、そんなものと一緒くたにしては女神の怒りを買う。
 そして何より、悪魔の翡翠にとっては特に強烈な侮辱なのだ。普段だったら、怒りに任せて相手を焼き尽くしただろう。しかし、今はそうしなかった。いや、できなかった。何やら酸っぱい臭いとともに、ぶよぶよとして、暑くもないのに汗を浮かべた両手が迫ってくる。もう限界だった。
「いいいいいやああああああああああああああっ!」
 魔力を爆発させる。いや、翡翠自身の制御をも離れた所で、内在されたものが暴走を始めて放出された。何らの形をも成さないまま、ただ最も原始的な形での力が荒れ狂う。突風が翡翠を中心に渦をまき、あたりをなぎ払った。
 百キロはあるはずの体躯が見事に吹き飛ばされる。飛んでいく最中も肉がぶよぶよと揺れるさまが、見るに耐えない。それを飾り立てる悪趣味なオブジェのように、ポケットから零れ落ちた万札が宙を待っていた。
「わたくしは、わたくしは! 永遠にわたくしを苛め抜いてくださるような、素敵な旦那様を見つけるんですっ! 誰が、誰があなたとなど…」
 人間で言えばパニック状態だ。自分でも何を言っているのか理解はしていない。ただ、言いたいことをまくし立てている。
 そして「ぼすん」という音とともに、丈は短いが体積ばかり大きい体が地面に叩きつけられる。大方脂肪がクッションになって大した怪我もしていないに違いない。見ている人間の誰もが、偏見交じりにそう思った。
 つまり、目撃者は翡翠だけではなかったのである。開催中の競馬場、元々人間の多い場所だ。いくら場所を選んでも、大きな動きがあれば目を引くのは止むを得ない。
 失態だ、と翡翠が思った時には当然ながらもう遅かった。何事かと、まばらではあったが人が集まり始めている。何しろ競馬場には似つかわしくない少女の悲鳴が上がったのだ。基本的には勝負に熱中している人々でも、好奇心あるいは危機感を刺激させられる。そして、それに混じって警備員の姿もあった。異変に対応するために待機あるいは巡回しているのだから、当然の反応である。
 翡翠は一秒だけ、考えた。そして、逃走した。華奢な体格では有り得ないはずの速度で、文字通り走って逃げる。
「あ、ちょ、ま…!」
 初老の警備員が制止しようとするが、追いつけるはずもない。それに、被害者と思しき少女と加害者と思しき男と、どちらを優先的に確保すべきかは、自明のことだった。
「まずそいつ何とかした方がいいんじゃないのか? そんな金ばら撒いて。エンコーでもしようとしてたんだろ」
「うーわー、マジキモッ! 童貞で大人の女に相手にされないから、子供に手を出した訳だ」
「あんまりあの女の子を追いかけないほうがいいと思いますけど。もう十分傷ついてるから、詮索したら余計に悪くしますよ、きっと」
 一部始終を見て事情を理解していた人間など誰一人としていないのに、野次馬が好き勝手を言い始める。ともかくもそうしているうちに包囲の輪ができて、倒れたままの男に逃げ場がなくなったことは間違いなかった。
 別に彼は、悪いことなどしていない。色々と問題があったにせよ、またそれからどうするつもりだったかはともかく、少なくともこれまでの所罪に問われるようないわれがないことは確かだ。それは彼自身と、そして翡翠が良く分かっている。しかし、この期に及べば身の潔白を証明するか、そうでなくとも証拠不十分で解放されるまで、相当な時間がかかるだろう。これで、この日この男がもう勝負に参加できないことは、ほぼ確定である。当然、これが翡翠の狙いだった。
 そして翡翠は、程なく別の建物の裏側に到着していた。距離を稼いだこともあって、ほぼ完全に冷静さを取り戻している。息を切らせておらず汗一つないのは、競走馬も真っ青の持久力である。
「わたくしとしたことが…手ぬるいですわね」
 とりあえず自己分析してみる。しかし、わざわざ戻って再び関わり合いになりたくないことも確かだった。合理性にも反する。悪魔の中には破滅や混沌を好む者も少なくないのだが、翡翠自身は基本的に計算高い種族に属していた。
「まあいいですわ。先のことを考えましょう。とりあえず、顔を見られたことを何とかしなければいけませんわね」
 それほどまじまじとは観察されていない。騒ぎになった時点でまず注目されたのは、もちろん体が大きく、そして派手な動きをしていた男のほうである。その直後に翡翠は背を向けて逃げ出していたから、今はっきりと顔を思い出せる人間はほぼいないだろう。
 しかし、もう一度見れば思い出す、その可能性は十分にある。不用意にその辺をうろうろしないほうが良さそうだ。とは言え、あの場所はパドックにも近いので、このまま立ち去ることもできない。
 いっそ姿かたちを変えてしまえばその問題は解決する。もちろん人間業ではないが、翡翠ならば可能だ。しかし、そうなると今度は初子にも分からなくなってしまい、話がややこしくなる。
 悪魔としては通常有り得ない悩みだったので、さすがの翡翠もしばらく思案せざるを得なかった。無意識に、細い顎に指を当てようとする。自然と滑らかな感触が伝わるはずが、何故かがさりとしたものが引っかかった。
「あら?」
 どうやら先程の混乱のうちに、何かを無意識に掴み取っていたらしい。そしてそのまま、ここに来てしまったのだろう。てのひらを返して見てみるとそれは、くしゃくしゃになった紙だった。その茶色っぽい色合いに、見覚えがある。
「あらあらあら」
 広げてみるとそれは、一万円札だった。あの男のポケットからこぼれ落ちた中の一枚が、吹き荒れる風に翻弄されたあげく翡翠の掌中に収まったのだろう。思わず嬉しくなりかけた翡翠だったが、ふとあることに気がついて眉をひそめた。
「何やら湿っぽいですわね」
 翡翠自身は汗をかいていない。だとすれば、水分の供給源は一つだけである。そこで速やかに手放すことにしたが、現金を捨てるあるいは返すという発想を、翡翠は持ち合わせていなかった。ちなみにこれは窃盗という犯罪であるので、絶対に真似をしてはいけない。
 手近な建物に入ってみると、売店があった。それも、そのあたりにありがちな軽食や酒の店ではなく、競馬のグッズを売っている店である。その店先の品揃えを見て、翡翠は可憐な口元をほころばせた。
「どなたのものだったとしてもお金はお金ですわね。ありがたく役立てることと致しましょう」
 必要な物をいくつか、素早く物色してから例の一万円札とともに突き出す。その店員としてはさほど不思議な客でもなかったらしく、営業用の笑顔とともに商品と釣り銭を渡してくれた。他の場所ならいざ知らず、競馬場まで来て馬券ではなくわざわざグッズを買う時点で余程の変わり者である。大概のことなら驚かない。むしろ、いかにも競馬場にいそうにない類稀なる美少女というのは、自然にすら感じられたのだろう。
 そして買い求めた物をその場で身につけるという奇行を演じてさえ、店員は動揺しなかった。
「ありがとうございました」
 いつもどおりの挨拶とともに、送り出しただけである。それだけでも、翡翠は機嫌を直してその場を後にした。
「わたくしとしたことが、あのようなつまらぬ方相手に何を慌てていたのでしょう。魔界の至宝、最も濃い血を継ぐ者の一柱、『悪徳を悦ぶ我等が畏れ多さのあまり御名を呼び奉ることを憚るあの御方』の孫娘たる、この、わたくしが! たかが人間の、中でも特に醜く、力弱い方相手に何を…」
 独り言とともに、初子が待っているであろう場所へ戻ろうとする。その姿に奇異の目を向けた人間は少なくなかったが、しかし彼女はそんなものを気にしていなかった。
 ただ、何かがおかしい。普通の人間であれば見過ごしているはずのものを、翡翠は心のどこかで察知してした。少し考えてみて、原因に思い当たる。苦笑して、独り言を続けた。もちろん端から見れば、それだけでも十分不気味この上ない。
「ああ、いえ。面と向かってでないとは言え、わざわざ罵って差し上げることはありませんわね。何しろそれこそ、あの方の望んでいることですもの。それにわたくし、どなたかを虐めたり罵ったりするよりは…」
 ごきり。そんな不自然な音がするような仕草で、翡翠の動きが止まった。
 君にしちゃあ、気づくのが遅かったな。大だったら、そう評したしたかもしれない。それも同情しつつそうだと悟らせないよう、無表情にである。
 実は翡翠自身も、結構なマゾヒストだった。何しろ先程本音でしかも力一杯、「永遠にわたくしを苛め抜いてくださるような、素敵な旦那様を見つけるんですっ!」と叫んだばかりである。
 一つ大が誤解しているのは、彼女のことをサディストだと思っている点だ。翡翠が競走馬を調教することを愛でている、そう考えている。実態はその全く逆で、調教「される」ことに意義を見出し、共感しているのだ。好んでか弱そうな容姿を選んでいるのも、その趣味が絡んでのことである。
 まあ、いずれにせよ趣味嗜好の問題だから、そのことだけをもってとやかく言われる筋合いはないし、根が深いので言われたとしても直るものではない。翡翠自身はそう、心からそう思っている。ただ、今日この場においてはそれだけでは済まない問題があった。
 要は、例のあの男と同類なのである。
 他のどの面で違いを見出そうとも、焦点をそこに当てれば、それが否定しようのない事実だった。
 やがて翡翠は、とぼとぼと、歩き始めた。今ここで逃げ帰ることは、まさに敗北主義に陥ることに等しい。そんな合っているのか間違っているのかも分からない思いだけが、今の彼女に退却を許さなかった。

 服の裾を軽く引っ張られる。そんなことをする人間がまさか他に、しかもこの場にいるはずもない。そう思って、初子はさほど緊張せず振り返った。
「どうだった?」
 しかしすぐさま、自分の質問を撤回したくなる。そこにあったのは、どす黒いオーラの塊だった。濃すぎるあまり、人影かそこにあるかどうかすら判然としない。
 いや、そもそも自分に霊感などない。そう心に言い聞かせてから見直す。そうするとやはり、不思議な現象などなかった。人が一人立っている、ように見える。
 ただ、冷静な視線で観察すればするほど、それはそれで異様な風体だった。何よりもまず、プラスチック製のお面で顔を隠している。そればかりではなくこの競馬場のマークが入った野球帽をかぶり、同様のジャンパーを着込んでいた。
 間違っても、お近づきにはなりたくない姿である。競馬場のスタッフでも、あるいはだからこそ、もっと常識的な格好をしているものだ。
 ひるみかけた初子ではあったが、すぐに考えを改めた。背丈も、上着を羽織っていても隠しようのないほっそりとした体つきにも、覚えがあったからだ。そしてジャンパーの裾から下に見えるスカートや、その下の白く透き通るような足は先程見たままである。そんな人間が、他にいるはずがない。
「その前に…どうしたの?」
「お気になさらず。ちょっとした若気の至りですわ」
 翡翠は投げやりに返し、しかもそのままの調子で続けた。ちなみに、面を外さずに喋っているので声がくぐもっている。
「先程からの問題についても、もうご心配には及びません。残念ながら発生源を根絶やしにしたとは申せませんが、当面行動不能でしょう」
「そ、そう」
 聞いて欲しくないのだろう。初子はそう理解した。
「それよりも、勝負の結果はいかがでしたでしょう。生憎と、見逃してしまいましたの」
「それならばご心配なく。さすが、と言ったほうがいいかしら。とうとう窓口で払い戻すことになったから」
「窓口?」
「ああ、ごめんなさい。知らなかったのね。額が大きくなると、自動販売機じゃなくて人間のいる所でお金を受け取るようになるの」
「なるほど。それは結構なことですわね。それで、ご入用な額には達しましたでしょうか」
「それには、まだ。もう一度か二度は勝たないと」
 翡翠はあたりを見渡した。先刻と比べると、客の数が目減りしている。
「今日の残りのレースはあといくつですか」
「二つだけ。さっきのが今日のメインレースだったから、もう終わりだと思って帰る人も多いのよ」
 その日開催される中で、最も賞金の高いレースがそう呼ばれる。当然、出てくる馬は比較的強く、動く金も大きい。この競馬場では、一日に十二レースを行い、そのうち十番目をメインとするのが通例だ。初子に残された機会は、既にごく限られていた。
 夕方遅い時間でもあるので、残り二レースをじっくり見るのはそれなりの物好きである。結果を知るだけなら、競馬場に残らなくても他の手段がいくらでもある。そうして人気のなくなった様が、気の弱い人間を余計に不安にさせる。
「では急ぎましょう。早くしないと、次のレースのパドックを見逃してしまいます」
 すたすたと、異様な風体のまま翡翠は歩き出した。何か言いたげではあったのだが、全面的に翡翠に依存してしまっている初子の今の立場としては、否定的な意見を出しにくい。ためらいながらもついて来る。
 それだけならば黙殺した所ではあったが、さすがに却って目立つ。見られないようにするための配慮なのだが、これでは残り少ない人目を独占するようで逆効果だ。仕方なく、翡翠は帽子を取ってお面を顔の片側に寄せた。逆側には自慢の長い髪を垂らして、正面以外からは表情がうかがえないようにする。さらに、初子の後ろに隠れて、他人の視線をさえぎった。既に日も落ち始めており、これでも顔を識別される可能性はかなり小さい。
 それだけなら内気で人見知りな女の子、といった風情だが、実はぐいぐいと初子を押している。一歩間違えばホラー世界の光景になる。
「ささ、お早く」
「ああ、うん。分かってるけど」
「ふう」
 翡翠はわざとらしく、ため息をついて見せた。その間にも足は止めていない。
「他の方が来ようと、去ろうと、そんなことはどうでも良いではありませんか。それにレースが人様になんと呼ばれていようと、わたくし達には関わりのないことです」
 ゆっくりと降りてくる夕闇の中、翡翠はそっとささやいた。
「わたくし達は、今ここにいます。それこそが最も大事。そしてわたくし達が賭けるレースこそ、わたくし達のメインレースです。元々こちらはあなた様には関わりのない場所、省みるべきものど、他には何もないではありませんか」
 次第に世界が、色をなくしてゆく。周囲の人影はただの群れとなり、視線を感じることさえなくなった。傍らにいるのは翡翠だけ。そんな異様な錯覚を不思議だとさえ思わずに、初子はゆっくりとうなずいた。
 次のレースも、予想は楽だった。一頭だけ突出して強い馬がいたのである。ただ、これは既に経験済みのパターンだ。単勝、つまりその一頭だけを当ててもあまり儲からない。それがもう、レースが始まる前、投票が締め切られて倍率が確定する前に大体分かってしまう。
「連勝にしましょうか」
「でも、難しいんでしょう」
「それは、そうですが」
 二番手以下はまさにどんぐりの背比べ、五十歩百歩だった。その中から的中を選び出すのは、翡翠と言えども簡単ではない。分散して買うという手もあるが、その弊害も既に経験済みだ。
「単勝にしておきましょう。ここで減らすわけには行かないわ」
 結果的に初子が選択したのは安全策だった。ただ、これは単なる逃げや守りの姿勢ではない。
 まだもう一レースある。そこで最後の大勝負をするために、今は待っているだけなのだ。それに単勝でも当てればそこそこは増えるから、決して単なる消極策ではない。いわば冷静に、状況を見切っている。
 翡翠は満足してうなずいた。
「ではそのように。初子様は券をお買いになってから、先にスタンドへどうぞ。わたくしは少し…」
 敢えて言わず、ただ視線を泳がす。二秒ほどあって、初子はかなり大胆に省略された内容を理解した。
「ああ、うん。じゃあまた後で」
 言いたくない事柄である一方で、そもそも人間であれば誰でも済まさずにはいられず、その場を離れることに対して謝る必要がない用事。要するにトイレである。そうだと気づいたなら、相手が恥らっている以上反応を見せずに送り出すのが礼儀だ。
「はい。ではまた、後ほど」 
 深々と頭を下げ、翡翠は初子を見送った。彼女が振り返らないのを見届けてから、翡翠は髪をかきあげ、後ろに流した。もう隠す必要もないようだ。
「美少女はそんなところへ行きませんのよ、初子様」
 つぶやきつつ、言うに恥じない顔立ちをあらわにする。それが注視されていることに、翡翠は気づいていた。ただ、すぐに行動するべきでないとも判断している。ふらり、と歩き出したのはさらに初子が遠ざかり、完全に姿が見えなくなった後だった。
「ねえ、ちょっといいかな」
 声をかけられたのは、大などに言わせれば短気な彼女としても、それほど待たないうちのことである。
 相手は、少なくとも翡翠の記憶にない男だった。幸いにしてというべきか、先程のハアハア男ではない。
 何だか、物凄くどうでもよい顔の男だった。悪いのではない。悪さならもっと酷い人間が、見渡しただけでいくらでもいる。しかし逆に、人目を引くほど良くもないのだ。
 髪の色は明るく、一方で肌は軽く日焼けして浅黒く、眉は整えられ、あごの部分だけ鬚が伸ばされて…と、色々努力した跡は見て取れる。ただ、それでも土台の個性のなさはどうにもならなかった。むしろ、手を入れたその分だけ痛々しい。どうせやるならいっそ、大胆な整形が良いだろう。
 服装にも洒落っ気はある。地味で無難なだけの大よりは、余程ましだ。ただ、それもファッション雑誌をそのまま真似ただけのようにまとまりすぎて、ありきたりだった。しかも良く見ると、型はそれなりでも生地が安っぽい。
「おっしゃる通り少しだけ、手短に済ませていただけるのでしたら構いませんわ。ご用向きは?」
 にこやかに応じてはいる。口調も丁寧だ。しかし内容は揚げ足取りで、しかも自己中心的である。明らかに年下、に見える相手にそんな口をきかれて、男は腹を立てたに違いない。ただ、当然ながらこれはわざとである。「だったら用はない」と言って引き下がる訳には行かない事情が、彼にはあるのだ。それを見透かしているから、挑発している。
「すぐに済むから。ただ、ちょっと人に聞かれたくない話なんだ」
 少なくともこの男、表情の制御にかけてはかなり非凡だった。顔つきとは比較にもならないほどだ。内心の不快感を全く表していない。
「そうですか。それではどこか、良い所へご案内いただけますか」
 自分としても人目がないほうが好都合だ。尻の軽い女のようだという自分自身の感想には目をつぶって、翡翠は話を合わせた。
「分かったよ。じゃあこっちへ」
 逆にこの男にしてみれば、年端も行かない女の子を人気のない所へ誘い込んでいることになる。こちらはこちらで非常にみっともないのだが、もちろん翡翠は同情したりしない。
 少し歩いて、翡翠はその分だけ感心した。一見した所見るべきものが何もないようであっても、それなりの知識や特技を持っていることがあるらしい。先程彼女自身は他人の視線を避けるために少々労力を要したのだが、この男は難なく、誰もいない物陰にたどり着いていた。
 もちろん開催中の競馬場であるから、さほど遠くない所に多くの人の気配がある。しかし例えばここで悲鳴を上げたとしても、レースの喧騒が巻き起こっているさなかであれば、かき消されてしまうだろう。
 つまりこの男は、こうして不穏当なことができる場所に誘い出すことに慣れた人間だということだ。そんな人物に対しても、翡翠はにこやかに向き直る。
「さて、あまり時間もないことですし、早速本題に参りましょう」
「おい、おま…」
 先程までとうって変わって、声に凄みが出る。そして表情も、険しくなっていた。やはりこれは、どう考えても真っ当な人間のそれではない。
 例えば初子であったら、間違いなく震え上がっただろう。大でも、自分自身の不快感を殺して下手に出たはずだ。いずれにせよ、迂闊に立ち向かったりしないのが常識人、大人の反応である。危害を加えられたり、あるいはそうでなくとも嫌がらせを受けたりすれば、自分自身のささやかでも平穏な生活に支障をきたすからだ。それに比べれば、プライドなど安いものである。
「へぶらっ!」
 こんな醜く、意味もなさない声を上げたのは、もちろん翡翠ではない。彼女は相手に言い終えることさえ許さず、その顔面を殴りつけていた。彼女の華奢に過ぎる体躯からは有り得ない力で、首から引っ張られるようにして、男の体がはるか遠くへと吹き飛んでゆく。大あるいは彼女自身に言わせれば今更ということになるだろうが、翡翠に常識は通用しなかった。
「用があるのはわたくしの方。私に挑みかかったこと、皆様に悔いていただかなければなりません。さあ、出ておいでなさい。あなた様方のような虫けら以下の存在にもまだ、愚かしくも意地を張って戦う程度の度胸はおありでしょう。そうでなければ張り合いがありませんわ」
 艶やかに嘲笑って、挑発する。その視線の先には、複数の男の姿があった。
 その時冷静でいられたなら、先程の太った男とのやり取りの間に気がついただろう。あの男、確かに大金を持ってはいたが、それは初子と比べて極端に多いというほどではなかった。その程度の勝ち方では、先刻のように大きくオッズが下がったりはしないはずだ。
 つまりもっと大金を賭け、そしてそれに比例して儲けていた人間が他にいたのである。翡翠が先程までその存在に気づかなかったのは、恐らく彼らが当初翡翠自身や初子ではなく、例の肥満した男のカードを盗み見ていたからだろう。ただ、その男が事実上退場してしまったので、今度は関与していると見られる翡翠を脅すなどして、情報を得るつもりだったと思われる。
「威勢がいいな、お嬢ちゃん。腕も立つようだが、しかし大人に向かっての口の聞き方を覚えないと、すぐにでも後悔するぞ」
 サングラスをかけた大柄な男がすごむ。派手なジャケットの内側に手を突っ込んでいるのは、凶器を持っているからだろうか。
「口のきき方についての後悔ならもう、十分しておりましてよ。あなた様方にはもっと下品な罵声がお似合いでしょうのに、わたくしとしたらこの通り丁寧な申し上げようしかできません。とは言えたかがあなた様方のために、自分に合わないことを覚えるのも癪なお話ですわ」
 悲しそうに、翡翠は語ってみせた。並一通りの脅しが効くような相手ではない。それが敵対している側にも共通認識として広がったらしく、先程とは別の男が口を開いた。こちらは中年で中背、小じわの寄った細い目元が狡猾そうな印象を与える。
「中々口も回るようだね。この状況でそれができるんだから、ずいぶんと勇気もある。さっきあのデブ相手に悲鳴を上げてた可愛い女の子とは思えないが」
 これでも、この男としては譲歩しているつもりなのである。可能であれば、暴力を使わずに済ませたい。別に相手に対して慈悲心を持っている訳ではないが、証拠である傷跡が残るような真似は避けるべきなのだ。アウトローだからこそ、そのぎりぎりの境界線には敏感なものである。
 しかしこれは、この話題だけは、絶対的にまずかった。自分自身の死刑執行令状に署名をしたに等しい。
 身動きどころか言葉さえ発さないまま、翡翠は攻撃した。迂闊なことを言ったその口元が切り刻まれる。切り方が細かすぎて、吹き出した血が霧状になっていた。
 そのまま頭を丸ごと解体してやろうかと思ったが、辛うじて思いとどまる。ついでなので、傷口も塞いでやった。ただ、破壊した跡を適当に繕っただけなので、元通りになった保障はどこにもない。
 遅れてやってきた激痛に、その男は倒れ込んでのた打ち回った。自分の口を手で押さえて何とかしようとするが、既に固まっているのでもうどうにもならない。
 何が起きたのかさえ理解できない。負傷した二人以外の男たちも、立ち尽くしていた。
「誤解があるようですわね。これでもずいぶんと、手加減をしておりますのよ。命を奪うのも、それ以上の苦痛を与えるのも、わたくしにとっては至極簡単なこと。ただ、お世話になっている方のご忠告があって、ことを荒立てぬようにしているだけですわ」
 とろけるような笑みを浮かべつつ、甘い声で語る。そこには既に、先程生理的に受け付けないものを目の前にして素直に悲鳴を上げたような、幼い少女の表情は見て取れなかった。
 妖しくも怖ろしい存在が、そこにたたずんでいる。そのことを、取り囲んでいる側もようやく理解しつつあった。


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