だあくねす
第一章 悪魔、競馬場に行く。
第五話 悪魔と大谷初子 


登場人物(?)紹介へ


 今更後へは退けない。年端も行かない少女、少なくともそう見える存在を取り囲んだ強面の男たち誰もが、危機感を持ってそう思っていた。
 彼女には特異な能力がある。得体の知れない何かでいとも簡単に、しかも笑いながら人間を傷つけることができる。下手に立ち向かっては、自分の身が危ない。
 しかし、それでも、逃げ帰ることはできない。高々少女一人を相手にそんなことをすれば面目丸つぶれ、組織そのものが危うくなる。他人から怖れられて初めて成立する集団なので、ある意味外聞を非常に気にするのだ。
 やがて、一人が耐え切れずに最後の手段に打って出た。先程すごんで無視された、大柄な男である。
「何だか知らねえが、こいつを見てもまだそんなことが言えるかな」
 懐のものを取り出す。周りの人間はやや驚き、またためらったが、結局はそれを補佐するように動いた。大半の者は、自分達の体で壁を作って、周囲からそれが見えないようにする。他は見張りとして外を向いた。
 拳銃である。撃たれれば本当に死ぬ。もちろん人間であれば。しかし翡翠は、動じない。
「指の先ほどの鉛弾を打ち出すだけの道具を得意気に振りかざして、無様と言うよりは哀れですわね。それほどその不恰好な玩具を頼みとなさるのなら、試してみればよろしいでしょう。そんなものが本当に、このわたくしに、効くのかどうかを」
 効くはずである。間違ってもただの玩具、例えばモデルガンやエアガンではない。念を押しておけば、殺傷力を高めた改造エアガンでもない。
 紛れもなく本物だ。厳密に言えば原型を某国でコピーして製造された「まがいもの」ではあるが、銃としての機能に遜色はない。
 だからこそ、勢い込んで抜いた側がためらってしまった。彼らといえども、実際に発砲するのは敵組織との命がけの抗争の際などごく限られた場合だけである。下手に撃って無用に警察に目をつけられるような不始末をすれば、まず上層部からとがめられるものだ。言わば使いどころを選ぶ、切り札中の切り札なのである。当然、本人としては見せるだけで済ませるつもりだった。これで脅されない人間など、そもそも考えていなかったのだ。
 だから次の行動に詰まってしまう。とっさに言葉もない。それは周囲の仲間も同様だった。同じ事情で撃てとは言えないし、かといって制止すれば自分が臆病者と蔑まれることになる。
 たっぷりと、五秒も、翡翠は待った。これ以上は無駄と言うものである。相手にとっての主観的な時間は、はるかに長かったはずだ。そしてため息混じりに笑った。
「面白くない方々ですわね」
 ひょい、とその拳銃を取り上げる。一定の距離があったはずだが、彼女は歩み寄ることさえしていなかった。気がついたときにはもう、そこにいた。長い髪が、一本たりとも揺れていない。
「使うこともできない玩具など、あっても仕方がありませんわ」
 そしてそのまま、白く細い指が手の中の物をあっけなく握り潰した。まるでゼリーか何かでできていたかのようだ。たとえそれが粘土細工だったとしても、その大きさに対して少女の握力では、もっと抵抗があったずである。
 しかし大きく変形しつつ二つに分かれてしまったそれは、そのまま手からこぼれ落ちると硬く重々しい響きとともに地面に激突し、それ以上ばらばらになるでもなく転がった。歪められた面の鈍い金属光沢が、酷く目に付く。やはりどう考えても、鋼鉄製だった。
 実弾が入ったままの拳銃を強引に破壊したのだ。暴発しなかったのは、ただの偶然である。しかしたとえそんな事態に陥ったとしても、滑らかな弧を描く爪の先さえ傷つけることができない。そのことを、見ている全員が理屈ではなく本能で悟った。恐怖とともに。
 ある者は意味不明の悲鳴とともに、そしてまたある者は声さえも上げられずに逃げ出した。最後まで留まった者も別に勇気があった訳ではなく、単に反応速度が遅かっただけのことである。
 普段強面で通っているだけに、まとめて尻尾を巻いて逃げ出すその背中の群れはあまりにもぶざまで、惨めだ。ただ、それに対して同情するような慈悲を、翡翠はひとかけらも持ち合わせてなどいなかった。
「本当に、愚かな方々ですわね。このわたくしが、ただで帰して差し上げるはずがないのに」
 冷笑しながら手をかざす。わずかに間があってから、炎が吹き出した。
「うわっ!」
「ひいいいいっ!」
 独創性はないが、それだけに切羽詰ってもいる悲鳴が上がる。つまり彼等は、少なくとも一瞬で焼き尽くされて声も出せないほどの惨事には陥っていなかった。
 ただ、そんなことはもちろん悲鳴を上げざるを得ない人間達にとっては慰めになどならない。火の手が上がっていたのは、彼らの衣服からだった。すぐにでも消さなければ重傷の火傷は免れず、下手をすれば全身に燃え広がって丸焼きになってしまう。
「あなた様方がお持ちの、紙という紙を燃やして差し上げましたわ。さあ、早く全てお捨てにならないと、お体まで焼けてしまいましてよ」
 翡翠はころころと澄んだ声で笑いながら、その光景を見守っていた。良く観察すれば、あるいは燃やされようとしている当人達が冷静であったなら、炎上を始めているのが特定の部分に集中していることに気づいたはずだ。
 ジャケットの左胸、あるいは裾の前側左右。さもなければズボンの四隅のいずれかあるいはその複数。要するに、男物の服でポケットのある部分である。鞄を持っている人間については、それが盛大に燃え上がる。
 翡翠が狙ったのはもちろん、紙幣と馬券だった。彼女の予想に便乗して得た利益を、持ったまま逃がす気はないのだ。とは言え、それだけに発火の対象を限定したわけではない。そこまで丁寧に攻撃するほどの義理は、もちろんどこにも存在しなかった。
 競馬新聞、スーパーやコンビニのレシート、消費者金融のポケットティッシュ、煙草の巻紙と包装、ピンクチラシ…その他ありとあらゆる紙が燃え上がる。たちの悪いことに、本人が意識せずにたまたま服や鞄の中に紛れ込んでいるだけのものも数多くあった。
 鞄を持っていた者はそれを放り投げ、ジャケットに財布を入れていた者は脱ぎ捨てる。酸素の入りにくい内部に入っていたにも関わらず火勢は異常に強く、すでに周囲のものに燃え広がり始めていた。
 悲惨だったのは、ズボンに物を入れる癖がついていた人間だ。そして男の場合、大概そうしている。ポケットが火を噴いているので、そこに手を入れて中身を取り出すことなどもちろんできない。だからわきめもふらず、ベルトを外してそれを脱ぐしかなかった。それだけで済めばまだ良いのだが、ポケットの内布には下着が密着しており、高熱はそれをも焦がし始めている。
「好き好んで見たい景色でもありませんわね。わたくしはこれで失礼致しますわ」
 翡翠はそれだけつぶやくと、文字通り、その場から消えた。
 この日夕方、この競馬場では、集団で下半身を露出したまま走り去るという前代未聞の公然わいせつ事件があった。警備員達はもちろん制止したが、取り押さえることはできなかった。異常な光景を前にあっけに取られ、何とかしなければならないと思った時にはもう手遅れだったのである。それを責めるのは酷だろう。人として、当然の反応だった。
 大事件と言えばそうなる。警備員達が止められなかったということはつまり、事態は完全に主催者側の制御を離れていたのだ。しかし見かけ上あまりに低次元であったため、そのことを誰も気に留めなかった。もちろん、残りのレースの中止など考えられなかった。
 
 姿を消した翡翠は、そのまま別の場所へと現れていた。いわゆる瞬間移動である。現代の物理学では不可能であるとされているが、もちろん悪魔にそんなものは関係ない。
 ただ、その超常の力も万能ではない。やおら何もない場所に出てきたのを目撃されたら、事態を収拾できなくなる。そこで出現地点は慎重に選ばざるを得なかった。結果としては、広大な競馬場の本当に片隅になってしまう。
 もっとずっと近くで、人目につかない場所があることは分かっていた。それも複数だ。しかし、意地でもそこは選ばない。トイレである。
「まあ…いずれにせよ結果は変わりません。次のレースに間に合わないことはないはずですし、多少の遠回りも良いでしょう」 
 一人ごちてから、翡翠は歩き出した。元々、自分がここにこうしていること自体、ある種回りくどいやり方なのだ。それは理解している。
 例えば単に初子に金銭を与えるだけなら、この競馬場の金庫を破るという方法もあった。普通の人間であればともかく、翡翠にならば可能だ。証拠も残さない。
 しかしそれでは、意味がないのだ。安易に恵むだけでは、人間を幸せになどできない。例えば大のようにプライドの高い人間は、故のない施しをむしろ侮辱と受け取るだろう。初子はそこまで強硬ではないにしても、追い詰められていなかったらまず遠慮するはずだ。それに犯罪がらみの金だと分かっていれば、二人とも危険を感じて受け取りはしない。逆にもらえるものは何でももらう、という貪欲な人間もいるが、そういう性分ではいくらもらっても満足できないものだ。
 それが分かっているから、金銭を与えるだけなどという真似はしていない。初子に対しては助言を与えているが、賭けているのはあくまで彼女自身の金であり、その意味での責任は彼女が背負っている。先程の男たちに関して金を没収せずに燃やしてしまったのも、自分では使うあてがないだけでなく、初子に渡すつもりがなかったからである。
 喧騒が耳に届く。現に見ることができない以上自分では楽しめないので、翡翠は淡々と歩き続けた。初子と合流したのは、その時のレースの順位が確定してからややあったころである。
「失礼を致しました。少々道に迷ってしまったもので」
 間違っても、体調が悪かったなどとは言わない。それはトイレに篭もっていたことを連想させるためだ。
 もっとも聞いている側に、そんな細かいことを気にするような精神的余力はどこにもなかった。片手で持てば済むはずのハンドバッグを両手で抱え、視線をせわしなく動かし、しかも小さくだが確かに震えている。挙動不審としか言いようのない姿だったが、あまりに酷いので何か悪事を働けるとも見えず、深刻に気に留める人間はいなかった。
 翡翠としてもその状態は理解している。言葉を選んだのは自分の口からそのようなことを言いたくなかっただけのことで、相手がどう受け取るかは重要ではない。
「そ、そう」
 初子は引きつった顔で、それだけ言った。翡翠は優しく見える笑顔で問いかける。
「うまく行きましたわね」
 相手のひどく動揺した様子に対して、全くちぐはぐな言葉のようでもある。しかしそれが間違っていないことを、翡翠は疑っていなかった。
 もし負けていたなら、反応はもっと別のものになったに違いない。呆然としているか、怒り出すか、ともかくも偏った様子になっただろう。
 勝ったからこそ、不安定な状態に陥っているのだ。文字通り抱えている物が大きすぎる。ハンドバッグの中には、これまでの彼女の人生で手にしたこともない大金が入っているはずである。余程肝の据わった人間でなければ、平然とした様子を保つのは困難だ。
 初子は大きくうなずこうとしてからその危険性に気がつき、結局視線だけで肯定の意図を示した。多額の現金を持っていると周囲に知られれば、引ったくりなどに狙われる可能性が高くなる。日常生活であれば速やかに金融機関に預けるなどすべきであるが、今はそれもできない。最後のレースに賭ける気がある以上は、当面自分の手で持っているしかなかった。
「さ、参りましょう。もうパドックにはお馬さんがいるはずですわ」
 実際の所、翡翠がそばについていれば問題はない。拳銃を持った複数の暴漢さえ難なく撃退するのだ。ただ、先程その力を誇示したのも相手の方がより後ろ暗い立場だったからであって、今披露するとなると差し障りが大きい。
 そうである以上、翡翠としても初子を落ち着かせる手段はごく限られている。だからその手を引いて、歩き出した。
 それがどれ程の意味を持つのか、実の所翡翠自身には良く分からない。そうすることに対して、自分では何らの感慨も覚えないからだ。悪魔にとっては単に、肉体の一部の物理的な接触でしかない。ただ、自分達と人間たちとは物事の受け取り方が違う、それは理解していた。
 初子はぎゅっと、その手を握り返していた。人間ならば痛すぎる力加減ですわね、と、翡翠はそんなことを考えていた。
 ただ、口に出したのは別のことである。
「残る勝負はただ一度…この際必要であれば文字通りの危険な賭けも致し方ないのかもしれませんが、どう致しましょう」
 具体的に必要な額も、また彼女の現在の所持金も聞いてはいない。しかし未だ前者が後者を上回っていることは確かだ。もし足りているなら、こんな所に留まっていないでさっさと例の男のもとに走るべきである。礼を言わずにそうしたとしても、少なくとも翡翠にとがめるつもりはない。
「場合によるわね。さっきと同じように倍率が低くなるなら、そうするしかないわ。でも、そうでないなら一頭だけ当てれば十分よ」
 内容には十分に筋が通っている。自分が無茶なつぎ込み方をした結果どれ程の倍率が下がるかも、それなりに考えてのことだろう。しかし落ち着いていると評するには、口調が早すぎた。恐らく、先程から繰り返し考え、自分で検証した内容をまくし立てているのだろう。
「承知しました。三番手あたりまで、考えてみましょう」
 不釣合いな大金を手にした影響で支離滅裂になってないだけ上等だ。そう評価することにして、翡翠は次の予想に集中することにした。そろそろ目指すパドックも近い。人間とは違うので、直接見えていなくてもある程度のことは分かるものだ。 
「特に優れているのが一頭、それほどではないにせよある程度の力を持っているのが数頭、残りは格下のようですわね」
「単勝式…か、連勝単式ね」
 一着だけ当てるのが単勝式、一二着を正確に当てるのが連勝単式だ。後者の方が倍率は高いが、その分危険も大きくなる。翡翠はうなずいてから一度目を閉じた。黒髪がかすかになびく。
「どうやらわたくし達だけ簡単にうまく行くような、あつらえ向きの風ではないようです」
 先程のような、自分達に直接向けられた悪意あるいは欲望は既にない。しかしそれ以外の要素が何か障害になる、そんな感触があった。ただ、悲観的になるのは性に合わないので付け加える。
「ただ、賭け事ですから。少々荒れた方が、結果的には良いかもしれません」
 条件は皆一緒、困難があるとすれば他の人間も同様のはずだ。少なくとも自分達にのみ不利な要素はどこにもない。
 初子は少し歩調を速め、パドックが見える位置に立った。翡翠も遅れずについてきている。
「ど、どれ」
「二番ですわ」
 ささやきではあったが、翡翠は即答した。今日一番とさえ言える強烈なオーラを放っている。普通の人間の目からしても、見るからに強そうだ。艶やかな栗毛に彩られた馬体はたくましく、既に体が温まっているのかうっすらと汗に濡れて輝いていた。闘志も十分なようで、厩務員二人を手こずらせている。
 初子はブランド物のハンドバックから、それには不似合いな競馬新聞を取り出した。そして点検をするかのように、まず馬の名前を読み上げる。
「二番…セイクリッドエンゼル」
 翡翠はぴくりと眉を動かした。彼女にとっては、気持ちの良い名前ではない。聖なる天使という意味だ。悪魔である翡翠としては対立する存在である。
 しかし結局、口に出しては何も言わなかった。気に食わなくても、強者は強者である。負けたくなければ、そこに賭けるのが当然の選択だ。詩的な感性よりは金銭感覚、そういう割り切りはかなりはっきりしている性分なのである。
 なお、馬の名前はゼッケンにも書いてあるので見れば分かることではあった。ただ、翡翠は人間の目には見えないものを主に見ているので、言われるまで注意を払っていなかった。番号さえ分かれば馬券は買える。
「本命じゃないけど、無印でもないわね」
 その様子を見たわけでもないが、初子も難しい顔になった。馬番号二番、セイクリッドエンゼルはいわゆる対抗馬だった。一番人気、本命ほどではないが、それに次ぐ強さと予想されている馬である。競馬新聞の欄には、その旨の印がついている。それだけに、ある程度買われて倍率もやや低めに落ち着くだろう。全く期待されていない、それだけに倍率の高い無印に比べて、勝った際のうまみには乏しい。
「やはり、性根を据えて勝負するしかないようですわ」
 そもそも自分たち自身が、本来の風向きを滅茶苦茶にするような台風の目を文字通り抱え込んでいる。翡翠はそのことを悟っていた。
 初子が今まさに手にしている、大量の現金だ。一点に賭けるだけで、配当倍率のバランスは大きく崩れるだろう。これまでのレースでも既に、遠くで傍観しているだけの大が異変を察知するほど激しく揺らいでいるのだ。
 まがりなりにも勝ち続けているから、手持ちの額はさらに膨れ上がっている。一方で日中と比べれば客は明らかに減っており、その分だけ全体としての掛け金は細っていると見られる。結果相対的な影響力は、間違いなくこれまでで最大になっているだろう。対抗馬に賭ければ、一躍一番人気に躍り出るに違いない。もしかしたら、最低人気の馬でもそうなるかもしれない。
「そうなると、他は?」
「四番、十一番…それと五番」
「オオガタイカイ、ラウドストーム、ヒメノコマチ…」 
 先程と同様初子が馬の名前を逐一口に出しながら競馬新聞を確認しているが、翡翠はそれを聞いていなかった。ただ、その二位集団の中での優劣を見極めようとしている。
「一位以外が三頭ね」
 一方初子は結論を急いでいた。手持ちの大金を券売機に入れるだけでも相当な手間だから、これはそれなりに合理的な行動ではある。いくら予想が正確でも、締め切りに間に合わせられなければ元も子もない。
 まとまりかけていた考えを、翡翠は放棄することにした。少し迷った後で挙げた五番が、他と比べれば若干印象が弱い。ただ、これまでの経緯で自分の予想が完璧ではないことも承知しているので、きっぱりと切り捨てるほどの決断はできずにいた。
「はい。それでよろしいですか」
「う、うん。これで行きましょう。十分だわ」
 自分に言い聞かせる口調とともに、初子は決断した。競馬新聞をハンドバッグにしまおうとする。よく考えればこれで今日全てのレースの予想は終わったのだから捨ててしまってよいはずなのだが、それには気づいていないらしい。
 しかも、手つきがおぼつかなかった。指先が震えてうまく折りたためない。そうしているうちに、その端に記された名前に目が留まった。作り笑いを浮かべながら、それを翡翠に見せる。動揺していないふりを、自分自身に対してしているのだろう。
 努力すればしただけ却って痛々しいのだが、それを指摘してはおしまいである。気づかないふりをして、翡翠は付き合った。
「何か面白いものがありまして?」
「ほらこれ、一番端。十三番の名前」
「…グロリアスジェイド」
 輝ける翡翠、などという意味だ。つまり彼女自身と、同じような名前である。
「記念に一枚買ってみようか」
 初子の誘いに対し、翡翠は顔で「考える」と伝えてからその馬を眺めやった。
 サラブレッドとしては珍しい、漆黒の馬である。馬の毛色を表す言葉としては「青毛」と言うが、実際わずかに青みがかっている気もする。まるで夜の闇の色だ。
 決して嫌いな色ではない。翡翠自身の今の髪も、その系統である。しかしすぐさま、首を振った。
「お気持ちだけで結構です。さほど強いとも思えません」
 先程挙げた候補から漏れている時点で、そもそも買う対象としては問題外である。しかもこの馬、見ていて闘志というものが感じ取れなかった。厩務員に引かれるがまま、仕方ないとでも言いたげな顔で歩いている。馬体も、同じレースに出場する他の馬と比べてやや小柄である。
 さらに言えば、普通の人間の目からしても魅力に乏しい馬だった。実績が他と比べて劣っており、競馬新聞の予想欄にも特に印がついていない。馬番号からして、そもそも主催者側から期待されていないようだった。ある程度強い馬にはもっと若い、一ケタ台の番号が割り振られることが多い。このレースは十三頭立てなので、完全にその逆を行っている。しかも番号が大きいほどコースの外側から出走することになるので、大回りになりがちで不利になりやすい。
「遠慮しなくてもいいのよ。そのくらいの余裕はあるから」
 勢いでさらに勧めてくる。翡翠はあえて、はっきり顔に出して拒絶した。
「遠慮ではありません。同じ名前だから、却って嫌なのです。例えば初子様、ご自分と同じ名前で愚かしい人間を見かけたら、良い気持ちがしますか?」
 例えばテレビで、芸人が馬鹿をやっていたり、あるいは凶悪犯が逮捕されたりしていたとする。普通であれば蔑んで済ませる所だが、同姓同名であったなら他に何の関係もなくとも気分を害するだろう。
 この場で勝てないということは、それらと同じくらいに否定されるべきだ。翡翠はそう感じる性分である。初子のように、同名のよしみなどという発想は持ち合わせていない。
 気圧されて、初子は慌てて謝った。
「ご、ごめんなさい。じゃあ、行きましょうか」
「はい」
 簡単にうなずいて、翡翠は初子とともにこの場を後にすることにした。不快感を引きずってはいない。そもそも、本来は気にかける必要さえなかったのだ。話が片付けばそれで良い。
 そして背を向ける。次の瞬間、件の黒馬が笑った。
「いえ…そんなはず、ありませんわね」
 気のせいだ。振り返らずに、翡翠はそう片付けた。愛も変わらず気のない様子でパドックを歩いている、そのことは見なくても分かった。
 
「さて…幸運の女神とやらは、悪魔にも微笑むのかね?」
 酒の入ったグラス片手に、大はつぶやいた。その水面には、とても幸運などもたらしそうにない皮肉っぽい笑みが映し出されていた。

 やがて、投票締め切りの時刻を迎えた。この時間、最終レースまで競馬場に残っているのはそれぞれ物好きばかりなので、欲しい馬券を買い逃したなどという人間はいない。万一いたとしても、それならばもうここには用がないから立ち去っているものである。スタンドには、どこか静かな緊張が満たされつつあった。
 当然、初子も翡翠の予想に従った馬券の購入を済ませている。異常な購入額がまた人目を引いてはいけないし、ましてなくしでもしては洒落にならないので、しっかりとハンドバッグの中にしまい込んでいた。内容は嫌でも頭の中に入っているので、今更見て確認する必要はない。
 表情には、緊張がありありと見て取れる。ただ、それは現に自分の金を賭けている人間に共通する、つまりこの場ではごくありふれたものだ。勝負が決まる前からにやにやしている方が、ある意味どうかしている。
 例えばアカデミー賞級の俳優なら、一万円賭けた場合と百万円賭けた場合を明確に演じ分けただろう。しかし初子の顔は、そこまで器用ではなかった。普通の人間は、それこそ劇的などと言えるものではない。緊張は緊張で、単純に顔がこわばっている。一方で通常では有り得ない形で勝ち続けており、金銭感覚が若干麻痺している。結果的にはそれらが功を奏しており、周囲と冷静に比較してみてもそれほど不自然ではなかった。
 本人の内心はともかく、客観的には問題がない。周囲に気を配ってみても、自分達に対する敵意はおろか関心さえ感じ取れなかった。放っておかれさえすれば勝って相応の利益が出るのだから、これは至極順調とさえ言えるほどだ。
 しかしこの時、翡翠の心は晴れていなかった。人間であれば誰もが愛らしいと褒め称えるであろう口元を、その見かけとは裏腹に気難しげに引き結んでいる。
 何故だか、本当に理由もなく、不安なのだ。ただ漠然と、嫌な感じがする。
 何か見落としただろうかと思って、既に手遅れだと承知で馬の気配を再度探ってみもした。多少遠くても、意識を集中させれば何とかはなる。しかし結果は、パドックで見た際のそれと変わりはなかった。むしろ騎手を乗せたことで、その印象が強まってさえいるほどだ。強い馬は優れた乗り手を得たことでますます勢いを増し、そうでない馬は重荷ができたことを嫌がっている。
 他にこの競馬場で不安定な要因となる可能性が高いのは、自分に尋常でない能力があると承知している、初子以外のもう一人だ。その可能性にも思い至ったが、すぐに考えを改めた。彼は元来、他人に影響するほど大胆なことはしない。良く言えば堅実、悪く言えば臆病な人物である。
 それに念のため常時確保している知覚の一部で探りを入れてみた所、すぐに飲酒をしている気配が伝わって来た。彼の場合そこそこ良い方向性の酒好きなので、そんなときにわざわざ悪だくみはしないものである。
 どう考えてみても、悪い要素はどこにもない。不安に囚われる方が不合理だ。まるで哀れで愚かな人間のようだ、と、普段の翡翠であれば自嘲しただろう。ただ、今日はそもそもその人間に肩入れをしにやってきているのだから、それもできない。あからさまに不機嫌な顔を隠すために、翡翠は再び先程買ったプラスチック製のお面をかぶった。開けられた穴の先で各馬ゲートインを始め、今日の最終レースの準備が整いつつあった。
 ファンファーレが鳴り響く。広大な競馬場全体に音が行き渡っているのだからもちろんマイクとスピーカー越しではあるが、演奏そのものは今この場、生である。きらびやかな衣装をまとった奏者たちに対しては、勝負前の最後の景気づけの意味もある大きな拍手が送られていた。
 確かに、多少の読み違いはあったかも知れない。今や出走を待つばかりとなった馬の群れを見ながら、翡翠はそう考えていた。「グロリアスジェイド」の様子が先程とは違っている。勝負を目前に控えてさすがに気合が入ってきたのか、だらしのない気配が影を潜め、ゲートが開くのを静かに待っていた。人間でもこういうタイプがいるが、本番にならないとやる気が出ない性分なのだろう。
 ただ、それもあくまで時間の経過の中で比較してみてのことだ。本来持っている力の差が埋まった訳ではない。最初に推した「セイクリッドエンゼル」の優位は揺らぎもしていなかった。むしろ爆発寸前と言った様子で、雄偉な体中に闘志を蓄えている。こちらも喩えるなら、一貫して勢いのある活発な性格ということになる。
 そして、一瞬の静寂が舞い降りた。いつまでも拍手を続けたり騒いだりしないのは、暗黙の了解以前に当然のことだった。レースが始まる、その瞬間をわざわざ見逃そうとする馬鹿はいない。皆固唾を飲んで、見守っている。
 ゲートが開く。仮初めの沈黙は、歓声と怒号に取って代わられた。飛び出したのは「セイクリッドエンゼル」、出遅れたのは「グロリアスジェイド」、その他はほぼ一団となっていて優劣が判然としない。
「そのまま…!」
「そのまま…」
 初子が喉から声を絞り出し、翡翠は低くつぶやいていた。
 この成り行きで一番怖いのは、先に出た馬のスタミナ切れだ。最後の直線で猛然と追い上げ大逆転、などというのは競馬ではむしろありがちな展開である。最初から最後まで逃げ切れる方が少ない。だからこそ、初子は不安を隠せない。
 ただ、翡翠はもっと先を見通している。そもそも今のままのペースでゴールまで走り抜けられるスタミナさえあれば良いのだ。他の馬は追いつけない。それも見込んでの推薦である。しかもこのレースは、さほど距離の長いものではなかった。
 残る要素は馬群を形成している二番手候補だが、こちらもそれほど問題があるとは思えない。周囲に引きずられるようにして本来の能力以上の速度を出してしまっている馬もいるが、それは皆予想から外しているものばかりである。
 やはり予想に間違いはなかった。コースを蹴る足音の、何と頼もしいことだろう。生身の人間には聞こえるはずもないその音に、翡翠は耳を傾けていた。
 あるいはそれこそ、彼女の尋常ならざる直観力が発した無意識の警告だったのかもしれない。
 みしり…。
 重厚な足音に混じって、かすかだが妙な響きが耳を刺す。もちろんそれを察したのは、翡翠だけである。騎手だけでなく、馬自身も気づいていない。まだ。
「まさか…」
 その源は、体に生じたある種のひずみだった。翡翠と言えども一見しただけでは分からないような、ごく些細なものである。もっとひどいゆがみの生じた人間などこの競馬場だけでも履いて捨てるほどいるが、日常生活には支障がない。生き物とは普通、多少の不具合があっても何とかなるようにできているのだ。
 みしり…。
 しかしサラブレッドは、言ってしまえば普通の生き物ではなかった。ただ走るためだけに品種改良され、調教されている。その身に備えられた力は実に強大だ。一方で体躯には無駄などなく引き絞られており、言い換えれば華奢で余裕に乏しい。
 みしり、みしり…。
 そして「セイクリッドエンゼル」は、特に鍛えられた馬だった。十分な筋肉がついており、大きな体重をものともせずにコースを強く蹴り出し、高速で走って行く。全力を出した際の負荷は強烈に、しかも地面に蹄鉄が触れるたびごとに襲い掛かる。
 思わず目をつぶる、という行動のパターンそのものを、翡翠は持ち合わせていなかった。身の危険を感じたことがほとんどないためだ。また、まれにあったとしてもそれを不快だとは感じない。元々生き物ですらなく、情動もそれに応じたものであるためだ。だからただ、目を見開いたままその時を見守っていた。
 逞しい馬体が沈み込み、よろめく。翡翠以外のものたちにすれば、突然のことだった。なおも走り続けてはいたが、変調は誰の目にも明らかだ。
 それを目指して追い続けていた二位以下の馬群は混乱を強いられる。無論抜かすつもりで走ってはいたのだが、先行の急減速は自動車でいう追突事故を招きかねない。とは言え密集しているため、迂闊に左右に避けようとすれば互いに接触してしまう。そうでなくとも進路妨害で失格となるおそれがあった。
 悲鳴と罵声が激しく交錯する。この混乱を目の当たりにして喜ぶ人間など、誰もいなかった。少なくともそう聞こえる。初子のか細い声は、完全にかき消えていた。
 やがて、そしてふらついたまま、「セイクリッドエンゼル」は馬群の中へと消えた。初子の勝負は、これで終わった。
 言い訳はいくらでもできる。強すぎたから負けたのだ。有り余る力に、馬そのものが耐え切れていなかった。もしもう少しだけ脚の力が弱かったなら、追いつかれそうになりながらも僅差で勝てていたかもしれない。また、このような事故を目の当たりにした経験が翡翠自身にあれば、予想はもっと慎重だっただろう。そしてそもそもまで話を戻せば、大が喝破したとおり、賭けに頼らざるを得なかった初子が悪いと言えばそれまでになる。
 しかし、結果が全てだ。努力も道義も重んじない翡翠だからこそ、誰よりも強くそう思う。自分は負けたのだ。それも無様に。許されるはずがない。しばらく、ほとんどそんなことばかり考えていた。
 それに属さない、残るわずかな部分はというと、身構えていた。結局全てを失った初子が逆上するに違いない、そう判断してそれに備えていたのである。
 悪いのは自分だとは重々承知でも、甘んじて相手の処罰を受け入れるという発想は存在しない。どんな理由があったとしてもまず守るべきは自分自身であり、攻撃を受けるなら迷わず反撃する。それが悪魔たる翡翠の本性だ。
 いっそそのついでに、初子の肉体と精神ごと全てなかったことにしようかと、そんな選択肢さえも可能性としては考慮していた。ただ、そうなれば余計に無様で、最早惨めと称される域に達する。何しろ自ら選んで幸せにすると決めた相手を害することになるからだ。誇り高い翡翠としてはそれが許せず、少なくとも自分から仕掛けることはできなかった。
 だからただ、待つしかない。そうしているうちに、あたりからは急速に人影が消えていった。今日全てのレースが終わったのだから、当然である。職員でもなければ、この場に留まるいわれはない。しかし初子と、翡翠は立ち尽くしたままだ。そして一向に、初子は何も言ってこない。
 翡翠はゆっくりと、傍らに視線を転じ、そして見上げた。それが「恐る恐る」という動作であることを、彼女は内心で頑強に否定していた。
 初子は、笑っていた。薄ら笑いを浮かべていた。その視線の先には、最早馬もいなくなって暗がりに沈むコースだけが横たわっている。
 精神を壊してしまったのだろうか。だとしたらやはり、自分は惨めだ。そう思いながら、翡翠はとりあえず手を差し伸べようとする。しかし初子の体は、それをすり抜けるようにして沈みこんだ。
「は…!」
 どさり、という音とともに硬い椅子に腰を下ろす。翡翠の手だけでなく、声も間に合っていなかった。勢いよく打ち付けているから尻が痛いに違いないのだが、しかしその表情に変化はない。ただ、ようやく口を開く。
「ごめん。ちょっとだけ、黙っててくれるかな?」
「…はい」
 それが、今日の初子にとって、最も強い口調だった。翡翠は立ったまま、遠くを眺めやっていた。
 やがて初子は、深く深く、ため息をついた。へらへらと笑い続けていたからもう肺に空気など残っていないようだったのに、それでも、深くため息をついた。
 立ち上がったのはそれからである。顔には、微笑を浮かべていた。先程の中身のない笑みとは違う、何故か心のこもったものだった。大したことのない造作だという翡翠の基本的な認識は変わっていないのだが、それでもその顔は美しく見えた。
「やっぱり、元々無理だったのよね」
 全くもってその通り、ではある。しかし今の翡翠に、それを肯定することはできなかった。そうだとあらかじめ指摘されていたのに、それを無視してまでやっていたのだから。
 それに、そうやって語る様子そのものが理解できない。何もかも失ったはずなのに、それに加担した自分に対して怒るでもなく、かといって嘆くでもなく、むしろ優しく笑っている。だからただ、まるで金を賭けたのが相手ではなく自分であるかのように、押し黙っていた。
「今日はありがとう。ちょっとだけでも夢が見れて、楽しかった」
 それが、今生の別れの挨拶だった。お互い死んではいないが、しかしもう、再び相まみえる機会はないだろう。
 このまま沈黙を守っていては、あまりにも愚かしい。翡翠は口を開いたが、しかしやはり、かけるべき言葉を見つけることができなかった。
「翡翠」
 不意に、横槍を入れるかのように声がかけられる。翡翠はとっさに、苛立ち紛れにその相手を攻撃しようと振り返った。
「危ない…んじゃ、ないのかな? 何をしようとしたのかも、俺には良く分からないけれど」
 しかし驚きもしない相手を見て、手を止めざるを得なかった。小首をかしげた大が、そこに立っていた。
「どうして…」
 言ってしまってから、翡翠はまだ自分が愚考から抜け出せていなかったことに気がついた。余計なトラブルを避けるために帰ると言っていたが、それが嘘だったのだ。逃げを打つ以上、行き先を偽るのはむしろ当然のことである。敵を欺くにはまず味方から、であるし、そもそも大は翡翠を味方だとは思っていない。
 先程は酒を飲んでいたが、それも競馬場内の飲食店でのことだろう。レストランがあるくらいだから、そういう店も複数あるのだ。
 翡翠が理解したことには触れず、大は立ち去るタイミングを逸していた初子に向き直った。
「お初にお目にかかります。私はこの子の保護者で、田中と申します」
 丁寧に頭を下げる。今度は初子がどうしてよいか分からず、沈黙する番だった。どうにかぎこちなく、こちらも頭を下げただけである。
「今日一日この子にお付き合いいただいたようですね。ありがとうございました」
 そして再び、大は頭を下げた。礼儀正しいがその分親しみやすさに欠ける、距離を置くような態度でもあった。
「これはそのお礼です。初対面の方に、しかもこのような形でお渡しするのは無作法だとは承知しております。しかし他に持ち合わせもありませんし、せずに済ませるほうが良くないかと思いまして」
 ポケットから紙片を取り出して、手を出すように促す。結果、初子はそれが何であるのか分からないまま受け取った。大が説明したのは、その後である。
「どちらにお住まいかは存じませんが、近県までならそれで十分お帰りになれるでしょう。余るようでしたらお食事でもどうぞ。おいしいものでも、と言えるほどのものではありませんが」
 確かに本人が言っている通り、包みもせずにそのまま渡すのは品がないとされているものだった。また、状況によっては失礼なことにもなる。
 現金である。一金五千円也、だった。
 商店で買い物をしているのではないのだから、何か袋に入れて渡すのが常識だ。謝意を伝える礼であるならなおさらのことである。
 また、祝儀や餞別、香典などの慣習で認められる場合を除けば、基本的には大人相手に現金を贈ること自体軽々しくすべきではない。小遣いやお年玉を渡すのと同じだから、子供、つまり格下としての扱いになるためだ。もっと悪い表現をすれば、物乞いに施しをするようなものである。
 ホステス、ホストなど、水商売では金品をもらうことが当たり前の人々もいるが、これはそもそも客の方が上という明確な立場の違いがある。しかもそういう仕事は、社会的に良いものとは思われないことが多い。
 怒る以前に慌てて、初子はそれを返そうとした。もらう理由がなく、逆に田中と名乗った初対面の男に悪いと思ったのだ。翡翠といたことを仕事と割り切って考えれば時給千いくらの計算になるから、それほど高額というわけでもない。むしろ安いとさえ言えるくらいだ。しかし今の初子には、そこまで金を稼ごうという気がなくなっていた。金銭感覚が既に、普段のそれに戻っているのだ。
 ただ、それは大も予想していたことだった。自分だったら、意地でも受け取らない。それがまがりなりにも社会人として稼ぎのある人間のプライドだ。競馬で負けたとしても、それも含めて自分の責任である。だからこそ、相手に渡してから説明したのだった。そしてその手がつき返される前に、次の行動に出ている。
「では失礼します。翡翠、帰るよ」
 拒絶する丁寧さで三度目に頭を下げてから、大は足早に立ち去った。二秒だけその後姿を見つめてから、翡翠は初子に向き直る。そして自称保護者を見習うように、深く頭を下げてから後を追った。
 初子はその不思議な二人連れの姿が見えなくなるまで、ぼんやりとそこに立っていた。それから先程と同様の微笑を浮かべて、家路につくことにした。


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