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MASERATI History │2│3│4│ | ||||||||||||||||
MASERATI 250F 1955 | ||||||||||||||||
前にこのマセラティ物語は書いたのだけども ウェブのリニューアル作業中に誤って消してしまい その後は幻のコンテンツになっていました。 そんな中、一部の我がサイトの熱烈なファンの方から?? (ウソです、そんな奇特な方はいません!!) 復活を望む声がありましたので、このたび再度製作し アップする運びになりました。 製作作業はとてつもなく邪魔臭かったので、出来るだけ味わって 大事にお読み頂ければ幸いです。 もっとも内容自体は、さほど大したモンではありませんが! マセラティの歴史自体は、相当古く それこそ今ではイタリアスポーツカー界の帝王として君臨している フェラーリの倍以上の歴史を持っており また、創業当時はとてつもなく偉大なレーシングカーを生み出していたにも関わらず 商売が凄く下手で、経営の失敗に継ぐ失敗で 現在では後輩のフェラーリの子会社になる始末。 これでは創業者のマセラティ兄弟もさぞや成仏出来ないでしょうに! 蒸気機関車の運ちゃんだったロドルフォ・マセラティと、カロリーナ・ロジーナとの間に カルロマセラティという男の子が生まれた1881年。 その後、83年ビンド、87年アルフィエーリ、90年マリオ、94年エットーレ、98年エルネストが ほぼ、3年おきくらいに誕生しました。 いわゆる子沢山家族で、おとっつあんも他にすることが無かったんでしょうなぁ〜。 運ちゃんだった、おとっつあんの影響かどうかは知りませんが 兄弟は幼少の頃から機械に興味をもち とりわけ長男のカルロは特に造詣が深く自らレーシングバイクを製作し ローカルレースに出て、優勝するなど活躍をします。 その後、カルロ君は地元大手企業フィアットに就職し 上司との人間関係に嫌気をさしたのか、ただたんに通勤時間が長くて嫌だったのか知りませんが 数年で決を割り、イソッタ・フラスキーニに転職します。 確かこのとき、弟のアルフィエーリ君も入社したんじゃぁ〜ないかな! 結局、同社にはその後も、ビンド、エットーレも入社し、マセラティはイソッタファミリー化とします。 他に入る会社、無かったんでしょうかねぇ〜。 ところがです、1908年にマセラティファミリーに大きな悲劇を襲います。 長男のカルロ君が急死してしまうんですね。 さぞ、ご両親は悲しんだことでしょう! ハンカチで涙をぬぐう光景が目に浮かびます。 その後、兄ちゃんの死が影響したのかどうかは知りませんが 弟のアルフィエーリはイソッタを辞めて、地元ののボローニャに 「ソシアータ・アノニーマ・オフィチーネ・マセラティ」を設立します。 そして、弟エットーレ、エルネストも兄ちゃんの会社に入りますが ビンド何故かはそのままイソッタに残ったんですね。 もしかしたら、仲が悪かったんですかね! この会社の主な業務内容はいわゆる今で言う車のチューニングなんですが 運悪く、1919年第1次世界大戦の勃発により お客さんも車で遊ぶどころではなくなり、当然、業績は悪化しましたが アルフィエーリ君が作ったスパーク・プラグ「カンテーリ・マセラティ」の評判がよかったこともあり その後の同社の主力商品になりました。 戦争が終わり、再びチューニング業を再開したのですが 1926年、共同経営者??が辞めたことにより 当時、開発していたマシンに自らの名を冠し、発表をします。 これがマセラティの全ての始まりともいえるTipo 26というモデルです。 フロントのラジエータグリルにはボローニャのシンボル、海洋神ネプチューンのシンボルである 三つ鉾をモチーフにした「トライデント」の紋章は この時、はじめて付けられました。 さてさて、事実上、初のマセラティのレーシングマシンとなるTipo26は 1500ccの直列8気筒という現代では考えられないエンジンにスーパーチャージャーで過給したシロモノでしたが 時折、優勝をするなどの好成績を挙げました。 ところがそんな順風満帆なさなか 翌年、排気量を2000ccにスープアップしたTipo26Bを投入するも、ドライブするアルフィエーリが大クラッシュし 骨折、及び腎臓を1つ無くすという大怪我にあいました。 しかし順調に体も回復し、見事、この年のタイトルを獲得しました。 そして、1929年にはとんでもない無茶苦茶なマシンをデビューさせます。 Tipo26の直列8気筒エンジンを横に2機ドッキングさせV16気筒に ス−パーチャージャーも2基搭載させた、もう何でもアリのマシンです。 これはTipo V4と称され こんな漫画みたいな何でもアリのマシンですから 当然、戦闘力も高く、シーズンを席巻しまくったのは至極当然のことでした。 またこの頃より、マセラティはカスタマー向けの市販レーシングカーも手がけるようになります。 それの最初になったのが、Tipo4CTR1100で それまでの直列8気筒から直列4気筒エンジンにすることで メンテナンスの負担を軽くするだけではなく、そのポテンシャルも高かったことから 販売も好調で、また後に様々な改良バージョンも展開することになりました。 ところが翌1932年には以前、事故により腎臓を一つ失っていたアルフィエーリが 腎不全により急死し、アルフィエーリの穴を埋めるべく イソッタにいたビンドも改めてマセラティに入社し 1933年にはTipo V4を5000ccに排気量アップしたTipo V5が投入され、そのシーズンは活躍しますが それも長くは続きませんでした。 っというもの、翌1934年にはナチスドイツのバックアップを受けた メルセデス、アウトユニオン等がシーズンを席巻し マセラティも直8から2気筒削った直6エンジンを搭載するTipo6C/34を そして1935年にはそれの改良版TipoV8Riさせますが この頃には同国のライバルであったアルファロメオも国からの資金援助を受け レースへの参戦コストも跳ね上がる一方でした。 そして翌1396年には切迫した財政状態により マセラティは遂にレースからの撤退を決断しました。 しかし、一方でレーシングカーの販売は続けられ 商品車であったTipo6CM1500はレースでも非常にポテンシャルが高く それが功を奏し、販売も好調そのものでした。 そんな折、このマセラティ兄弟の元にとある男が現れました。 それはアドルフォ・オルシです。 オルシは三兄弟に業務内容はそのままで、会社の経営を自分に任せて欲しいという話を持ってきました。 マシン開発は上手だけど、商売は下手だ!っという自らの身の丈を悟ってか?? マセラティ兄弟は、オルシに経営に委ねることにしました。 1939年のことです。 ところがこの年、あろうことかナチスのポーランド侵攻によって引き起こされた第2次世界大戦が勃発します。 ホント、なんてマセラティ兄弟は運の無いことなんでしょう! 新社長のオルシはもともとが鉄鋼王だったこともあってか 軍需産業に商売変えをし、その他にも、マセラティのある意味での主力商品??でもあった スパーク・プラグ、そしてバッテリー、各種工作機械まで製造販売することとになりました。 1945年に戦争が終わり、マセラティは早速レーシングカーの製作に取り掛かります。 ところがこの頃より、マセラティとオルシとの仲は悪くなります。 っというのも、純粋なレーシングコンストラクターを目指した兄弟に対して オルシがマセラティに手を出した真意は利益率の高い高級GTカーの販売にありました。 しかし、当の兄弟にはGTカーの開発など毛頭無く 折り合いが悪くなるのは、いわば当然のことでもありました。 1937年の事実上の会社譲渡時に 「10年間はマセラティ社で働くこと」が契約内容にあったことから 彼等はそのまま、エンジニアとしてマセラティ残りますが 契約満了と同時に会社を離れ、ボローニャに戻り、新たに自分たちの工房を立ち上げます。 それが後に唐沢寿明さんも買うOSCAになるわけです。 その後、マセラティは1947に初のGTカー、A6−1500をデビューさせ エンジンは兄弟が最後に製作したレーシングエンジンが搭載されました。 しかし、これがあまり売れなかったんだな・・・・。 因みにここで頑張ったエンジニアが、後に250Fの開発にも大きく貢献したルイジ・ベレンターニです。 また1952年にはあのジョアッキーノ・コロンボもフェラーリからマセラティに加わることになりました。 そして1954年、フロントエンジンのF1では最高傑作とされる250Fが登場します。 もちろんこれを開発したのが、先述のジョアッキーノ・コロンボで、その右腕としてベレンターニ そしてこれ以後の重要なモデルに携わることになるジュリオ・アルフィエーリというわけです。 しかし、コロンボとベレンターニは250Fの完成後に、フェラーリに移籍し これから後のモデルはアルフィエーリによるデザインとなりました。 1957年にはファン・マヌエル・ファンジオをチャンピオンにした このマシン傑作はF1としては、なんと31台も製作され販売されました。 今で言えば、シューマッハのフェラーリが31台も製作、販売されたようなモンですね! Next Page
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