第一章
「ふええん、痛いい〜」 夏の盛りの蝉時雨に混じって、千沙(ちさ)姫は川のほとりで足首を押さえて泣いていた。 「姫様がわがまま言うからですよっ」 しっかりものの侍女、かえこが冷たく言った。 「わ、わがままじゃないもん!」 千沙も泣きながらしっかり言い返した。 「わがままですよっ」 自分の主人である千沙姫に対して、かえこは時として姉のような口をきく。 「そんなことよりかえこちゃん、どうする? 姫様歩けそうにないよ。だれか呼んでこないと」 同じく侍女で、かえことは双子になるきえこが、とりあえず適切な提案をした。 「そうですね、姫様、これではご実家まで帰るのは無理ですよ。どうせ本気で帰る気もないのですから、お城からお迎えに来てもらいましょう」 かえこはすまして言いがならも、内心ではこれでいつもより早く帰れるとほくそ笑んでいた。 いつもより……。そう、千沙が夫であり城主でもある一清(いちきよ)に、「実家に帰ります」と言い放って城を出てきたのは、決してこれが初めてではない。 かといって夫婦仲が悪いわけではない。この時代にありがちな政略結婚とはいえ、一清はずっと以前からよく手紙をくれる安住(あずみ)の千沙姫を愛しく思っていたし、千沙は嫁いできて、一清に一目ぼれしたのだった。黙って並んでいれば、まだ若い、ままごとのような夫婦だった。 なのになぜかこういうことになってしまうのは、かえこときえこに言わせれば、千沙のわがままのせいであり、千沙に言わせれば、その都度それなりの事情があるのではあった。 そしてこの度の「事情」は、千沙にとってはこれまでになく深刻であった。 「千沙は帰りません」 「姫様?」 泣くのをやめ、きっぱり言い切った千沙に、かえこときえこも、さすがにいつもとは違うものを感じて互いに顔を見合わせた。 かといって隣国安住まで歩いても行けず、ため息をつくしかなかった。 と、そこへ 「どうかしましたか?」 明るい男の声がした。 見ると、町方の者らしい若い男が、にこにこしながら三人のほうに近づいてくる。 「さしでがましいかもしれませんが、先ほどから何かお困りのようなので、私でお役に立てることがあればと思いまして」 青年は快活そうにそう申し出た。 千沙は目をぱちくりさせてこの若者を見た。かえこときえこはもう一度顔を見合わせ、それから口を開いた。 「実は、千沙姫様が散策をしておられて、足首をくじいてしまわれたのです」 “家出”を“散策”と言い換えるあたりがかえこらしいところである。 「それでよろしければ、お城へ行って、迎えを寄越してくださるようにお伝えいただけませんでしょうか」 と、きえこが言葉を継いだ。 「千沙姫?」 男は少し驚いた顔をした。その様子を見て、かえこときえこのほうも、いぶかしげな顔をした。 というのは、姫君がこんなところで足をくじいていれば驚くのが当然なのだが、ここ、加賀の国では、千沙の評判は「わがまま姫」として知れ渡っていた。実際、市の立つ大通りで一清とけんかをしたことさえあるのだ。今さらここで千沙が泣いていたところで、それほど驚く者がいるとは思っていなかったからだ。 そんな三人の様子とは無関係に、今度は千沙が言った。 「親切にありがとう。でも城へは行っていただかなくてよいのよ。千沙は、自分で行きたいところへ行きますから」 「千沙さまっ! まだそんなことを!」 あわててかえこが叱った。 「もう気がすみましたでしょう?」 のんびりやのきえこも、さすがに千沙をいさめにかかった。 話のかみ合わない三人の会話を聞いている男の目は、点になっていた。 「とにかくっ、まだ帰りたくないの!」 なおも言い合う若いご婦人たちの顔を、点目になって順番に見比べていた若者が、 「あの〜」 と口をはさもうとした。とたんに、 「なによっ!」 勢いづいた女三人ににらまれ、思わず、というようにニ、三歩たじたじと後ろに下がった。それから少し困ったような愛想笑いを浮かべて言った。 「いや、その、結論が出るまでにもう少し時間がかかりそうですから、先にくじいた足の手当てをしてはどうかと思うのですが」 それを聞いたかえこときえこも、はたと我に返った。 「た、確かにそうね」 と、かえこ。 「でも、手当てって言ったって……」 きえこが不安そうに言った。 男はまたにっこりと笑って、 「ちょっと待ってて」 と言うと、川の土手を下りて、手ぬぐいを水に濡らして戻ってきた。そしてつかつかと千沙に近づき、千沙の足首に触れようとした。が、 「キャーッ! 何するのよ!」 けたたましい悲鳴を上げた千沙に、バリバリと顔をひっかかれた。 (せめて『無礼者』くらい言えないのだろうか……) かえこときえこは、少し頭痛を覚えながらこの様子を見ていた。 男は涙目になって顔を押さえながら、 「何するって、あの、だから足首の手当てをですね」 「あ、ご、ごめんなさい……」 千沙は赤くなって素直に謝った。 若者は改めて千沙の足首を指で触り、腫れ具合を確かめるように少し押した。 「いっ……!」 千沙は顔をしかめた。 男は気遣うようにちらと千沙の表情を見て、手ぬぐいを腫れた部分に当てた。それからすっと立ち上がると、 「ここで待っていてください。動いてはいけませんよ」 とだけ言ってどこかに立ち去った。 「お医者さんでも連れてきてくれるのかしら」 かえこが少々不安げに言った。 「けっこう大胆な人だねえ。姫様のおみ足に触るなんて。」 きえこがぽつりと言った。 千沙は黙って、男が去ったほうを見つめていた。 ややあって、三人が心細くなり始めたころ、先ほどの青年は、ようよう戻ってきた。かえこの予想の反して、男は一人だった。手には何かの葉っぱのようなものを数枚持っていた。 男は千沙の前にかがみこむと、持っていた葉を揉んで汁をにじませ、それを千沙の足首に当てた。その上から手ぬぐいできつく縛り、 「これで少し休んでいれば、痛みはかなり和らぐはずです。それまでに、帰るのか帰らないのか、ゆっくり決められたらよろしいでしょう」 と、いくらかからかうような響きをこめて、にっこりと笑って言った。 千沙は、くじいた足の手当てをしてもらったことと、城の者を呼ばれなかったことにほっとして、この青年に対して初めて笑顔を見せた。 「ありがとう。お名前を教えてくださる? お礼をしたいわ」 「いや、いいですよ、お礼など」 男は照れて、頭をぽりぽりかきながら言った。 「でも、そういうわけにはいかないわ」 千沙がなおも名前を聞き出そうとすると、 「本当によいのです。では」 と、そのまま帰ろうとする。 「あ、ま、待って!」 千沙はあわてて留めた。 「それならお礼はしないから、お名前だけでも教えてください」 これを聞くと、さすがに青年は足を止めて吹き出した。 「姫様、そんな失礼な」 かえこときえこはあわてて言ったが、男は一向にかまわない様子で、心からおかしそうに笑った。 「わかりました。そこまで言われるのなら。私は…」 青年はほんのわずか考えるように間を置いてから 「半助、と申します」 と答えた。 「半助さんね」 千沙は嬉しそうに、無邪気な顔で言葉を続けた。 「もしよかったら、少しここで千沙とお話をしていってくれませんか?」 「え?」 半助と名乗った青年は、面食らったような顔をした。 「だって、本当にこれで治るかわからないじゃない。最後まで責任もってもらわなければ」 けろっとして言う千沙に、かえこときえこは赤面した。 男、いや、半助は 「まいったなあ」 苦笑まじりに頭をかきながら、それでも千沙のところに戻ってきた。それから笑顔で千沙に言った。 「べつに私は急ぎの用もありませんからかまいませんが、私と話しても、姫ぎみのほうが面白くはないと思いますよ」 「あら、そんなのお話ししてみなければ分かりませんわ。千沙も、皆さんといろいろお話ししたいのです」 「千沙も、ですか」 半助は妙に細かいところを気にしたようだったが、千沙はそんなことに気づきもせずに、無邪気に答えた。 「そうよ。一清さまは、いつも外を出歩いていて、領内の人たちとお話しているでしょう? 千沙だってもっとたくさんのことを知りたいのです。」 千沙がそう言うと、半助は困ったような顔をした。 「そういうことでしたら、残念ながら私はお役に立てません。この国の者ではございませんので。ほかの者が通るのをお待ちになりますか?」 ところが千沙のほうは、がっかりするどころか、ぱっと顔を輝かせた。 「この国の人じゃないの? じゃあ他所からいらしたのね! ねえ、どこからいらしたの? どんな国? 旅はいかがでしたか? いつまで加賀にいらっしゃるの?」 たたみかけられるように質問を浴びせられ、何を思ったものか、半助は大笑いを始めた。 今度は千沙の目が点になった。 「あの、わたし何か変なこと言いました?」 かえこときえこは声に出さず、冷たい視線を送った。 (なにもかも変ですよっ) 半助はなおもくすくす笑いながら、 「いや、ちょっと、思い出し笑いですよ」 と言った。 こんな豪快な思い出し笑いがあるものかと、千沙は思ったが、少なくとも半助が自分と話すことを嫌がってはいないことを感じていた。先ほどから、半助の態度には、庶民にありがちの媚びへつらいも恐れもなく、そのことにも快いものを感じ、好感を持つようになっていた。 「ここにすわってね」 千沙は自分のすぐ隣を指し示した。半助は諦めたような笑みを浮かべて、それでもさすがに千沙とは十分な間をあけて腰をおろした。 「それで? あなたはどこからいらしたの?」 千沙はわくわくした様子で改めて半助に尋ねた。 「摂津から来たのです」 「摂津? ずいぶん遠いのね。旅はいかが? 楽しかった?」 半助はまた少し、当惑したような顔をした。 「そう…ですね」 「いいわね。千沙もどこかに旅してみたいです」 千沙は心底うらやましそうで、どこか寂しそうでもあった。半助はそんな千沙に優しく微笑んだ。千沙は、身分が下の者にそのように笑いかけてもらったことはなかった。かしこまっているか、こびへつらっているか、あるいはあきれているか、であった。だから半助の、まるで兄が妹を気遣うような温かなまなざしに触れ、千沙は少し驚いたし、また少し切なくなった。 「千沙さまだって、安住からここまで旅していらっしゃったのでしょう?」 「そうだけれど、ちっとも楽しくなんかなかったわ。故郷を離れるのですもの。心細かったし、一清さまがどんな方か分からなかったから不安だったし……。」 千沙はその頃のことを思い出して、眉間に小さなしわを寄せた。 「何しろ一清さまとは一度もお会いしたことはなかったし、お手紙を差し上げても、いつもお返事は一言だけだったのですから」 「一言? たった一言のためにわざわざお返事をされる方なのですか?」 「ええ、そうなの」 千沙はなんでもないことのような顔で言った。 「お元気ですか? っていう書き出しでお手紙を書くと、『元気です』と一言だけお返事がくるの。だから、お忙しいのですか? と書いて、ほかにもいっぱい書いたのだけど、そうしたら今度は『忙しいです』とだけ……」 そこまで言って千沙が気がつくと、半助は千沙に背中を向けるようにして、肩を震わせてひくひくひきつっていた。 (ほんっとに遠慮のない人だなあ) かえこときえこは半ばあきれ、半ば感心して見ていた。 千沙は、こんな笑われ方をされるくらいなら思いっきり笑われたほうがましだと思ったが、不思議と悪い気はしなかった。 「でも、とても誠実で優しい方なのですよ」 千沙は、誤解を与えてはと、フォローを入れた。 「そうなんですか?」 半助は、笑いすぎて目じりに浮かんだ涙をぬぐいながら聞いた。 「ええ、だから国の人たちはみんな一清さまが大好きなの。あなたも加賀にいらしていかがかしら? 良い国でしょう?」 「ええ。でも千沙さまは、なんでまた安住にお帰りになりたいのですか?」 半助に軽い調子で聞かれ、千沙はどきりとして真っ赤になった。 「し、知ってたの?」 半助は頭をぼりぼりかきながら、笑顔を浮かべたまま悪びれずに言った。 「いやー、泣き声が聞こえたものですから、こちらに来たら実家に帰るとか何とか話しているのが聞こえてしまいまして」 千沙がここにいる理由を“散策”と言い換えたかえこは赤面した。考えてみれば、あれだけ声高に話していれば、聞こえて当然であった。 「一清さまにご不満があるわけではないのでしょう?」 半助は優しく言った。 「でしたらお帰りにならなくてはいけませんよ。加賀と安住の人々のためにもね」 子供に対するような、かんで含めるような言い方だったが、反論しようのない現実の重みを含んだ言葉だった。 かえこときえこは意外そうに半助を見た。 千沙は黙ってうつむいた。 しばし間があった。半助もそれ以上は何も言わなかった。 やっと千沙が顔を上げた。 「ええ、わかっているの、それは。だから今まで本当に実家に帰ったことはないの」 「え? 今までって……」 半助がひくりとした。 と、唐突に千沙が 「あっ!」 と声を上げた。 「な、なんです?」 千沙はにっこりとして足首を指差して言った。 「痛みがひいてきたわ、ほら」 ほら、と言ったところで見えるわけはないのだが、よほど嬉しかったらしい。半助もほっとしたように千沙を見た。 「歩けそうですか?」 「ええ、すごいわね。お医者さまには見えないけど」 「医者ではありません。ただ、薬草や応急手当について少し知っているだけです」 半助は誇りもせず、あっさりと言った。 「じゃあ、どんなお仕事をなさっているの?」 「教師ですよ。今は夏休みですが……」 「学校の先生なの? それならいろいろなことを知っているわね」 「それほどでもありませんよ」 「『孫子』知ってる?」 千沙の唐突な質問に、かえこときえこは「ぶっ」と吹き出し、半助もいささかうろたえた。 「な、なんで『孫子』なんですか!」 「あのね、一清さまが以前にくださったの」 「『孫子』をですか?」 半助はけげんそうな顔をした。当然であろう。 「そうなの。それが結婚してから最初の贈り物だったの。ご自分は字がへたなものだから、領内でいちばん字の上手な者に書き写させたって、胸はっておっしゃいましたのよ」 半助はまた目が点になった。 「あれ、姫さま、それより前に馬をいただいているでしょう。ほら、姫さまに嫉妬して蹴倒そうとして。あの時も姫さま、実家に帰りますって」 きえこが口をはさんだ。 「一清さまも悪気はないのですよ。敵の大将の生首をわざわざ姫さまに見せちゃうような方だから、『孫子』なんかこまやかな配慮をなさったほうですよ」 かえこはフォローするつもりだったらしいが、まるでフォローにならず、半助はとうとう笑い出した。今度こそ遠慮なく、腹をかかえて笑っていた。 (うーん、思いっきり笑われるとそれはそれで……) 半助の笑いが収まるのを待って、千沙は改めて尋ねた。 「それで? 知っているの? 『孫子』」 半助は困ったような苦笑いを浮かべた。 「まあ、知らないこともありませんが……それで?」 「千沙に教えてほしいの」 「な、なんですって?」 半助と、かえこ、きえこの3人が同時に声を上げた。千沙は委細かまわず言葉を続けた。 「だって、せっかく一清さまがくださったのですもの。どんなことが書いてあるのかちゃんと理解したいのです」 「だ、だ、だったら一清さまにお聞きになればいいではありませんか!」 半助はうろたえた。 「一清さまには内緒で、そのうちびっくりさせたいのです」 半助はますますうろたえた。 「内緒って! よけいまずいですよ。だめです!」 かえこときえこも目をむいてこくこくとうなづいた。 「まずくなんかないわ。町外れに古い庵があるの。そこでどう?」 「千沙さまっ!」 半助はもう必死という感じだった。 「そ、外で男と会うなんて、一清さまにばれたら“お勉強”ではすみませんよ!」 「大丈夫よ。だって一清さまなんか、ふえ様と二人っきりでよくこっそり会っていらっしゃるもの」 しれっとして言った千沙の言葉に半助はぶっとんだ。かえこときえこは暗い顔で、額に手を当てていた。 「な、な、な……」 半助は口をぱくぱくさせた。 これは聞きようによってはとんでもないことなのだ。城主の浮気を奥方がよそ者にばらしていることになるのだから。 「姫さま、一清さまはお仕事でふえ様とお会いになるのですから、そーゆー誤解を招く言い方は……」 かえこは、こめかみに怒りの四つ角を浮かばせて、ふるふると震えながら注意した、 「とにかく、千沙だって好きに出歩きたいのです。だめだと言うなら実家に帰ります」 半助は、助けを求めるような目でかえこときえこを見た。 「かえこちゃん、とりあえず姫さまの言うとおりにしておこうよ。姫さま、言い出したらきかないし、そのうちまた気が変わるよ」 ときえこが小声でかえこにささやいた。 「そうね。それに少しは一清さまに怒られたほうがいいかもね。あたしたちがしっかり監視していれば間違いは起きないだろうし」 「こらこらこらーっ!」 まさかというような話の流れに、半助は色を失いかけた。 「そんなこと認めてどうするんですかっ!」 「だって認めないといつまでたってもお城に帰れないんですもの」 かえこときえこが声をそろえて言い、半助はがくっと首をたれた。 「ともかくこの場は承知していただけません? お礼はいたします。それに、よそから来られたのなら、いずれお帰りになるのでしょう? それまでおつきあい願えませんか? そう悪い話でもないかもしれませんでしょう? 大名の奥方の家庭教師ですわよ」 かえこは、この男が承知してくれないと千沙の気が収まらないと、半助の前にえさとちらつかせた。が、 「そういう話には興味がありませんね」 半助に一蹴されてしまった。 「かえこ、そういう言い方は失礼ですよ」 珍しく千沙がかえこをたしなめた。 「ごめんなさい。領主の妻であることをかさに着るつもりはありませんでした。ただ、あなたは信用できそうだからお願いしたいのです。ほかに頼めるあてはないし」 千沙は半助の目をじっと見つめて、さらに頼み込んだ。 その千沙の目を、半助もまっすぐに見返した。 それから半助はため息を一つついて、かえこときえこに言った。 「万一の時はちゃんと証人になってくださいよ。間違いはなかったって」 この言葉に千沙の顔はぱっと輝き、かえこときえこは思わず手と手を取り合った。 「ありがとう! ありがとう! それじゃ、明日これくらいの時間に街の北はずれにある庵に来てね。待っています」 半助と約束を取り付けて、千沙はようやく城へと帰っていった。 道すがら、きえこが千沙にポツリと尋ねた。 「ねえ、姫さま、どうしてあの人にあんなこと頼んだの?」 きえこはぼんやりしているようで、時々妙に鋭い観察力を発揮することがある。かえこはそれを『動物的な勘』と呼んでいた。今度も、どうやらいつもの千沙の気まぐれとは違うものを感じとったらしい。 「だから、先生だったら知ってると思って」 「そうじゃなくて、どうして今さら『孫子』なんかお勉強したいんです? 全然興味なさそうだったのに」 千沙の顔が曇った。 「わたしたちに隠し事なんて水くさいですよ」 これはかえこ。かえこも厳しいばかりではない。政略結婚で嫁いできた姫に国元から付いてきた侍女は、仮にその姫が夫に愛されず孤立したとしても、自分達だけは姫を守っていく存在なのだ。かえこにも、それだけの覚悟も千沙への愛情も十分にあった。 千沙にもそんな二人の気持ちは通じていた。 「だってね、千沙も少しでも一清さまのお役に立ちたいのです」 「だからって……」 かえこがまた何か言いかけるのをさえぎるように、千沙は続けた。 「だって、だって、千沙はまだお世継ぎを生むこともできていないのですもの。このままじゃ役立たずって言われて、追い出されてしまうわ!」 かえこときえこは息をのんだ。というのは、千沙がいまだに子をなさないことを、とやかく言う者がいることは、二人の耳にも入っていたからだ。 実をいえば、今回の一清とのけんかの原因も、そのことと関係があった。 千沙がそれとなく、子供ができないことを気に病んでいると一清に打ち明けたのだが、女心に関しては人並み以上に鈍い一清はこともなげにこう言ったのだ。 『気にすることはありませんよ。千沙殿がお生みになれなくても、なんとかなるでしょう』 一清は千沙のプレッシャーを和らげようと、いざとなったら血縁の者から養子を迎えればよい、というつもりで言ったのだが、すぐに悪いことばかり考えてしまう千沙は、『側室を迎える』という意味にとってしまった。そしていきなり泣き出して、出てきてしまったといういきさつだった。 しばらく三人とも黙って歩いた。 それからまた、きえこが言った。 「だったら姫さま、どうして一清さまに内緒なの? ばれて怒られたら、それこそ追い出されるかもしれないですよ」 「でも、きえこ!」 今度は千沙はすぐに言い返した。泣きそうな顔だった。 「千沙は一清さまが好きだから、一清さまが何も行ってくださらずに、ふえ様と二人だけで会っていたとき、とても悲しかったの!」 「要するにただのやきもちでしょうが。」 とかえこ。 千沙は聞いていない。 「一清さまは、千沙がほかの殿方と会っても平気なのかしら。もしそうなら、千沙は愛されていないんだわ」 「姫さま、一清さまはお仕事なのですから、姫さまのわがままと一緒にしてはいけませんよ」 かえこがたしなめたが、女性として、千沙の気持ちも分からないでもなかった。 しかし、この安易さがその後の事件の発端であったのだ。 |