第二章

千沙は、それから1日おきに半助の講義を受けに行くことになった。
 一清はほぼ毎日城の外を出歩いていて、昼間はいない。その間に半時ほど、人目につきにくい庵で半助と会っていた。
 というと何やら非常に危険であやしげな人妻の密会という雰囲気なのだが、実際にはかえこときえこがしっかりついていた。その上、千沙にも半助にも毛頭その気がないので、全く色気が感じられないのが、かえこにはかえって情けなく思えるほどであった。
 それでも千沙は、単に「孫子」の講義を受けるだけでなく、半助とのたわいないおしゃべりを楽しんでいるようだった。
 半助は実に辛抱強く(と、かえこときえこは思った)千沙の話を聞いてくれた。その話のほとんどが、一清についてののろけ話であることに千沙は気づいていなかったが、とにかくなぜか安心しておしゃべりができた。それは半助の、あたたかく誠実な眼差しのせいかもしれなかった。
 ある時、千沙は講義の内容に関して半助に質問をした。半助の教え方はいつもはとても分かりやすかった。(しかも半助は「孫子」をすべてそらんじているらしかった)だが、実際の戦や、この加賀の国にあてはめるとどうなるのか、と問うた時、半助はそのあたたかい笑顔のまま答えた。
「姫君がお知りになる必要のないことです」
千沙はその思いやりがかえって悲しかった。
「でも、それではふえ様のようになれません」
と悲しそうに言う千沙に、そのころには「ふえ」なる女性が一清の腹心の間者であることを理解していた半助は、
「千沙さまがふえ殿のようになったら、千沙さまはどこにいってしまわれるのですか?」
と尋ねた。
その言葉を聞いたとたん、千沙はハッとした。このところずっと、何を自分はうじうじと悩んでいたのかと、肩の力が抜けたような気がした。
 千沙は、童女のように澄んだ瞳を輝かせて、にっこりと笑って言った。
「そうか、そうよね。ありがとう」
 以来、千沙はますます半助を信頼するようになった。
(もしお兄さまがいたとしたら、こんな感じかな。一清さまの亡くなられたお兄さまもこんなふうにあったかい方だったのかしら)
 そんな千沙の思いとは別に、かえこときえこは気が気ではなかった。千沙と半助との間に何かが起こるとは思えなかった。千沙の機嫌がこのところずっと良いことは喜ばしいことだった。が、兵法の勉強なんぞ、2、3回で飽きるとふんでいたのが、5回、6回と回を重ねるにつれ、
(一清さまにばれたらどうしよう!)
という不安が、いまさらのように募ってきた。
 そしてその日は、来るべくして来たのだった。
 一清がその男を気に留めるようになったのは、やはり必然と言ってよかった。
 小国加賀を守るため、一清は国内と近隣諸国の情報を、細大漏らさず把握するよう努めていた。
 昔、国内に紛れ込んでいた敵のスパイを発見できず、結果として加賀は当時の領主、つまり一清の父、そして母と兄を失い、多くの領民が殺害され、家を焼かれたのだ。
 その苦い経験から、一清は自身の行動力と驚異的な記憶力をもって、国内を行き来する不審人物をすぐに発見できるようにしていた。
 したがって、滞在目的が不明で、領内のあちこちを歩き回っている半助が一清の目に留まるのに、そう時間はかからなかった。
 一清は、加賀の間者集団の頭であるふえに、半助の調査を命じた。そしてほどなく、この男がよりにもよって自分の妻である千沙姫と密会していることを知ったのである。
 それを突き止めて報告するほうのふえは、さすがに仰天して、どう伝えたものかと悩んだのだが、結局ごく冷静に、事実のみを伝えることにした。
 もともとふえは、一清と千沙の婚姻に反対だった。
 加賀は金を産出するが、軍事的、領土的には小国であり、金を差し出すことによって、大国安住の援護を頼んでいた。もっともこの同盟は、金は欲しいが技術のない安住のほうにとってこそ、むしろ好都合なものであった。ふえは、安住の姫をもらい受けることによって、安住の戦に巻き込まれることを懸念していた。
 したがって一清には気の毒ながら、もしこの結婚が破綻したとしても、ふえにとっては痛くもかゆくもないことだった。
 報告を聞いた一清のほうは、しばし呆然としてしまった。ショックを受けるというよりは、目が点になり、理解できていないようだった。
 次の瞬間、一清はふえが冗談を言っているのかと思った。しかし、一清の表情を見てとったふえは、もう一度同じ言葉を繰り返した上で
「わたくし、からかっているのではありませんのよ」
と念を押したのであった。
 ようやく一清は理解したものの、千沙が不倫しているとは思えなかった。「わがまま姫」とか「おのんき姫」とか呼ばれてはいるが、とてもそのようなことのできる姫ではないと、少なくとも一清は確信していた。
 いずれにせよ、その不審人物の正体を明らかにしておかなければならない。なぜ加賀に来たのか。千沙に近づいた目的は何か。一清はとりあえず、ふえにその男の尾行を命じ、自分は千沙の部屋に向かった。
 だが千沙から「それとなく」聞き出すなどという芸当は、一清にとっては最も苦手とする分野であった。
 一清が千沙の部屋に行くと、ちょうどかえこときえこもそこにいた。
「あー、千沙殿。少しお話があるのですが」
一清がそう言って部屋に入ると、かえこときえこはびくっとして青ざめた。
(改まってお話だって! きっとあのことだ! どうしよう!)
(ばれたんだ、ばれたんだ! やっぱり!)
かえこときえこはうろたえたが、当の千沙はいつもと変わらぬ無邪気な笑顔で
「なんでしょう?」
と聞き返した。
一清は千沙の正面にきちんと正座してしまった。
「あのォ〜」
と、きえこがおずおずと口を出した。
「た、大切なお話でしたら、私どもは席をはずしましょうか」
(きえこナイス!)
かえこは心の中で拍手したが、一清に
「いや、二人ともここにいてください」
「と言われてしまった」
(ひえ〜ん、かえこちゃ〜ん)
(きえこぉ、もうだめだ〜)
ところが一清はべつに怒ったふうでもなく
「えーと、ですね、千沙殿……その……」
と、何やら言い淀んでいる。一清の頭の中では
(うーん、何と言って切り出そう……いきなりあの男は怪しいなどと言っては、疑うことを知らない千沙姫は不快に思うだろうし……何を話しているのかなんていきなり聞いて、品がないと思われても困るし……)
などという考えがぐるぐると回っていた。
「なんですか? 一清さま」
 再び千沙に聞き返されて、一清は腹を決めた。
「千沙殿はこのごろよく外出されるそうですね」
かえこときえこは首をすくめた。千沙のほうは驚きもせず、やはり澄んだ目で一清を見ていた。
一清は言葉をすくめた。
「姫君なのだから出歩くな、などと常識的なことを言えた立場ではありませんが」
「そうですね」
きっぱり千沙に言われて、一清は少し赤くなった。
「しかしながら、城内の者も不審がっております。(これは本当だった)よからぬ噂がたってからでは遅いですから、どちらへ何をしに行かれているのか、私に教えていただけますか?」
「はい」
千沙の素直な返事に、かえこときえこはずっこけそうになった。少しはじらせて、一清の反応を見るぐらいのことをするかと思ったのだ。
一清も少々面喰らっていた。
「で、ではどちらに行かれているのですか?」
「北の庵です」
「どなたかと会われているのですか?」
「ええ」
千沙はにっこりと笑って答えた。
(な、なんなんだ、この笑みは)
かえこときえこも、そして一清も、千沙の真意を図りかねていた。
「そ、それはどなたですか?」
「半助さんという方です」
「男の人ですね」
「もちろんです」
(もちろんて、そんなこと胸張って言うもんじゃありません!)
かえこの心の怒りが聞こえたかのように、千沙は続けて言った。
「そんな名前のご婦人がいるなんて、千沙は聞いたことがありませんもの」
「ま、それはそうですが」
と、一清。
(納得してどうするんですっ!)
と再びかえこの心の怒り。
 しかし、一清の心配は、かえことはまた別のところにあったのだ。
「どういう人なのですか?」
「どういう、というと?」
「職業とか出生地とか」
「学校の先生だとおっしゃっていました。摂津から来られたということですから、お生まれもそこではないかしら」
「先生……ですか。それがまたなぜ加賀へ?」
「さあ。うかがったことはありませんもの」
一清はまじまじと千沙を見た。不自然だとか、変だとか、全く思わないのだろうか、この姫は。そんな得体のしれない男と話していて、何の不安も感じないのだろうか。
「ではいったい庵で何をなさっていたのです? その半助とかいう男と」
きわどい質問だが、一清の口調に嫉妬の色はなかった。
「おしゃべりしたり、『孫子』について教えていただいていました」
一清は完全に意表を突かれた。千沙はやはりにこにこと笑顔をふりまえていた。
「『孫子』ですか?」
一清はようやく口を開いた。
「なんですか、それは」
「一清さまったら、お忘れになったのですか? 前に一清さまが千沙にくださったのですよ」
「そ、それは覚えていますが……そういうことではなくて、なんで『孫子』をそんなよそ者に教えてもらっているのですか?」
一清は、数日前のきえこと同じ問いを発した。
 千沙もまた、同じような答えを返した。
「せっかく一清さまにいただいたのですもの。よく知りたかったのです。学校の先生ならご存じかと思って聞いてみたら、知ってるっておっしゃるから。それで……」
「どうして私に聞いてくださらなかったのです?」
まさか一清の気持ちを試すため、などと言わないだろうが、かえこときえこはハラハラしながら見ていた。
 千沙もそれはまずいと思ったのか、それとも本心からか、逆に一清に質問した。
「では、一清さまにお聞きしたら教えてくださいましたの? 千沙のために時間をとって? 毎日お出かけでしたのに?」
千沙の鋭い突っ込みに、一清はぐっと言葉に詰まった。忙しさにかまけ、千沙に寂しい思いをさせがちであることは、鈍い一清にもさすがに分かっていた。(もっとも、それも千沙にはっきりそう言われてようやく分かったのだが)
では、自分に対する不満からこんな突拍子もない行動に出たのだろうか。そう思うと、一清はむげに怒ったり、これ以上深く詮索もできなかった。第一、後ろめたいことがあって嘘をついているならもう少しましな嘘をつくだろう。いくらなんでも「孫子」などといううそくさい嘘をつくことはない。
それはともかく、
「わかりました。では明日は、私は城にいることにいたしましょう」
千沙の顔がパッと輝いた。明日は千沙も半助と会う予定はない。ところが、
「ですから、その半助なる者と会うのは、もうやめていただけますか?」
千沙の顔が暗転した。
「な、なぜですっ?」
「今申し上げましたように、城内のものが不審がっています。悪い噂が領内に広まらないうちに、ご自重を」
かえこときえこは、当然だよなあ、とうなづいていた。ところが、千沙は食い下がった。
「では、では、半助さんを城にお呼びすればよいでしょう?」
かえこときえこは「あれ?」という顔をした。一清がやきもちをやいていえるようには見えないものの、それでも千沙のことを気にして半助と会うなと言っているのだ。もうそれでよいではないか。
(まさか姫さま、あの人のことを……?)
一清はいぶかるでもなく、きっぱりと答えた。
「いけません。身元のはっきりしない者を、軽々しく城内に入れるわけにはいきません」
「あの人は悪い人ではありません!」
千沙はむきになって言い返した。
 一清の目が厳しくなってきた。
「悪い人かどうか、調べてみなければ分からないでしょう!?」
「分かります!」
「千沙殿!」
声を荒げた一清に、さすがに千沙はびくっとして口をつぐんだ。
「菊の事件を忘れたのですか?」
千沙は何も言い返せなかった。
 菊というのは、金鉱で地脈師として働く娘の名だ。地脈師がいなければ金を掘り出すことはできない。その菊が安住に奪われそうになったことがあった。事の発端は、行商人にばけてもぐりこんでいた男が、安住に通じたことだった。あの時は、秘密が漏れるよりはと、一清は菊に自害させる道を選んだのだが、それを救ったのはほかならぬ千沙だったのだ。
 一清の脳裏には、幼友達の鮎太の顔も浮かんでいた。だれも疑いたくはない。けれど……。
「よろしいですね」
一清に念を押されて、千沙はうなづくしかなかった。

 一方ふえは、半助の尾行を開始した。今までの調査では、この男は千沙と会う以外は領内のあちこちの村へと出掛けては、何をするでもなくぶらついたり、村人と会えば世間話などをしているようだった。また、市や街道に出ては、行き交う人々をながめていることも多かった。
 ふえは、この男が特に、安住へ通ずる街道を気にかけていることに、すぐに気づいた。その目も、ただなんとなく眺めているようでいて、一人一人の通行人の顔に、油断のない視線を送っていた。
 前日、一清が千沙と、そして後にかえこときえこから聞き出した情報を考えてみても、ただの町人とは思えなかった。ただ読み書きを教えるだけの教師なら「孫子」に通じている必要はない。どこかの間者か、軍師か……。
 摂津の者だというが、それらしい訛りもない。嘘をついている――ふえはそう確信した。
 その日、ふえは半助が朝、宿を出たところから尾行を開始した。
 つけていくと案の定、半助は安住への街道へと向かった。ところが
(……?……)
今日はそこに留まらず、街道を安住へと向かって歩き始めたのだ。
(安住へ戻るのか? あるいはだれかとつなぎを?)
ふえは緊張した。
 半助のほうは変わった様子もなく、急ぐこともなく歩いていった。
 昼近く、安住領内に入ってすぐの茶店に、半助は入った。
 ふえは少し離れたところからそれを確認すると、自分も姿を現し、旅人を装って茶店に入り、半助の後方に腰をおろした。
 半助は、のんびりとお茶をすすっていた。
(だれかを待っている?)
ふえは直感した。
 その直感は正しかった。ほどなくして、その街道を安住側から一人の行商人の男がやってきた。年のころは二十代半ばというところか。半助なる男と同じくらい、とふえは見た。
 行商人はためらわずに半助の隣に座った。ふえは茶をすすりながら、全身を耳のようにして、男達の会話に聞き耳を立てた。
 意外なことに、男達は全くあたりをはばかることもなく、声もひそめず、初対面のふりさえせずに、話し始めた。
「よう、どうだった?」
と、まず行商人が口を開いた。
「残念だが……」
「そうか……おまえちゃんと調べてくれたんだろうな」
「おまえなぁ」
半助は苦笑した。
「小さな国だ。すぐ調べはつくさ。そっちこそどうなんだ?」
「今のところ、手がかりなしだ」
「今のところって、おまえ、何日たってると思ってるんだよ」
「うっせえ」
どうやらこの行商人ふうの男、本物の行商人ではないようだ、とふえは推測した。
「気持ちは分からんでもないが、今回は諦めたほうがいいんじゃないか?」
と半助が言った。行商人ふうの男の表情は、ふえからは見えなかったが、何事かを考えている様子だった。
「あと三日、三日待ってくれよ。せっかくここまで来たんだからよ。な、頼む!」
 半助は小さなため息をついた。が、嫌がっている様子もなく答えた。
「分かったよ。じゃ、三日後にまたここで落ち合って、その時の状況によってまた考えよう」
「恩にきるぜ。じゃ、また三日後にな」
「ああ」
それだけで二人の男は立ち上がった。
 二人が勘定を済ませると、ふえは、茶屋のおかみに小声で、しかし男達の耳には届くように言った。
「あの、厠貸してくださる?」
 二人が出たとたん、自分も店を出たのではいかにもわざとらしくて怪しまれる。安心させるためにわざと言ったのだ。
 しかし、実のところふえは一瞬迷ったのだ。どうやら行商人ふうの男が、半助という男に何事かを頼んだらしい。ならば、行商人ふうを追ったほうが、何を企んでいるのか直接確かめられるのではないだろうか。だが、一清の命令は半助の行動を探ること。それにふえにとっても、大切なのはまず加賀なのだ。やはりここは半助の後を追うことにしよう。
 ふえはそう決めると、身を隠しつつ半助の後をつけて加賀へ戻った。
 半助は加賀へ戻ると、しばらく市をぶらついてから宿に戻った。
 ふえは城へ戻り、一清に報告した。
 一清は腕を組んで考え込んだ。
 ふえが聞いた会話の内容だけでは、何の目的で半助がこの国へ来たのか見当がつかない。行商人ふうは安住の手の者か。あるいはまた別の国の者か。三日たって「諦める」のなら、それを待てばよいのか。しかし、もしそれで手後れになったら……。
「分かった、ふえ」
ようやく一清は口を開いた。そしてふえに指示を与えていった。

 

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