第十章

 ふえは、城内の片隅で、蝉時雨を聞きながら涼んでいた。
が、その表情は憂鬱そうで、頬杖をついて縁側に腰掛けていた。
「お呼びですか、ふえ様」
 やって来たのは正木隆房だった。
「悪いわね、こんな所に呼び出して」
「いえ。それよりなんです?」
ふえは沈んだ顔を隆房に向けた。
「実はね、一清さまが安住と手を切ってもよいという方向にお気持ちが動き始めているのよ」
 これには隆房も驚いたようだった。
「まさか! だって千沙姫さまはどうするんですか?」
「ご覧のとおり、一清さまは千沙さまと別れる気はないの。だから気持ちがぐらついているというだけで、決心はついていないのよ」
「そう、ですか」
「もちろん、同盟を破棄するなら十分準備をして、その後の後ろ楯のことまで考えておかないといけないけど、あたしがあんたに相談したいのはそんなことじゃないのよ」
「と、いうと?」
「一清さまがそういう気持ちになったのは、あの土井半助の意見のせいなの。一清さまがあの男を召し抱えようとしていらっしゃることは、隆房も知ってるでしょう?」
「ええ」
「そりゃあ、あたしも今はあいつに手伝ってもらって助かってるけど、あまり一人の人間を、それもよそ者を重用しすぎるのはどうかと思うわ。一枚岩を誇る加賀家臣団にひびが入るのじゃないかと心配なの。取り越し苦労かもしれないけど……」
「そんなことはありませんよ」
 隆房は、我が意を得たりとばかり、ふえに同意した。
「わたしも正直言って、あの男が口出しすることは快くは思っていませんでした。しかし、近々忍術学園とやらに帰っていくと思えば我慢をしていたのですが、本気であの者を仕官させようといらっしゃるなら、困ったものですね」
「でしょう? だから、あんたからも一清さまにそれとなく意見してみてくれない? あたしがあんまり言っても、疑り深いと思われるだけみたいだから」
「分かりました。おまかせください」
隆房は笑顔でうなづいた。そして、
「ところで、安住と手を切るということ自体は、ふえ様はどうお考えなのですか?」
「そうね……」
 ふえはちょっと考え込んだ。
「今、急ぐのは得策じゃないわね。でも、いつまでも金を献上するのは面白くないわ。いずれは手を切るべきよ。でもこれはほかの人には内緒よ」
「分かってます。わたしもふえ様と同じ考えですから」
 隆房は意味ありげにうなづき、この会談はこれでおしまいとなった。
 隆房が去った後も、ふえは憂鬱な顔で頬杖をついたままだった。
「これでいいの?」
 いつのまにか、ふえの背後に影が一人、立っていた。
「ああ。悪いな」
影が……土井半助が、言った。


 後刻、隆房は家に帰ると、しんと静まり返った自分の部屋で書状をしたためた。
部屋の中が妙に薄暗く見えるのは、傾きかけた陽のせいばかりではない。人の気配、人の笑いやぬくもりのない部屋は、暗く、薄寒くさえ感じる。一人暮らしの長い隆房だが、静けさの中に一人帰ってくることに慣れたとはいえない。
 黙って、短い書状を書き終えると、隆房はそれを細長く折り畳んで、再び家の外に出た。
 庭の隅には鳥小屋があった。
「ただいま。また頼むぞ」
隆房は中の鳥に話し掛けた。
クルル、クルル……と、鳥は答えるかのように喉を鳴らした。
鳩だ。
鳩が十数羽ほども飼われていた。
 隆房はその中の一羽を取り出すと、足に今しがたしたためた書状を結び付けた。鳩は隆房になついているらしく、おとなしくしていた。
 隆房は一度鳩を両手で包むように持つと、空に放った。
 その直後、どこからか飛んできた小石が、隆房の鳩にドスッと命中した。
 鳩は声もなくその場に落ちた。
「誰だっ!」
 隆房は思わず振り返って怒鳴った。
「大丈夫。死んじゃいない」
そう言いながら植え込みの陰から出てきたのは、土井半助だった。今朝早くに会った時と同じ、忍装束に身を包んでいた。
 そしてもう一人。
顔面蒼白で、表情の凍り付いたふえが、立っていた。
 半助があごで合図を送り、ふえが鳩に歩み寄った。
「あっ!」
隆房が短く声を発し、慌てて鳩のほうに駆け出そうとした。が、その足元に半助の放った手裏剣が突き刺さり、足を止めた。
 その間にふえは鳩の足から書状を取り外して開き、さっと目で追った。
 隆房の顔色もみるみる青ざめていった。
「隆房……あんた……」
ふえは、信じられない、という顔を上げた。それ以上は言葉も出ない。
 書状の内容は、一清が安住との同盟を考え直そうとしていること、ついては新たな指示を仰ぎたい旨、鷲尾に知らせるものだった。
「なぜ、俺だと分かった」
無機的な声で隆房が言った。
「安住との同盟に反感を持っている者を一通り調べさせてもらった。家の中もね」
隆房はいまいましげにふえを横目でにらんだ。
「だから鳩を飼っているのは知っていた。なのにあんたは今朝、『鳥は嫌いだ』と言った。それで変だと思ってね。ちょっと仕掛けさせてもらった」
 隆房は、しまった、というように唇をかんだ。
 半助はさらに続けた。
「一清さまとわたしを拉致した時も、鳩を使って連絡をとっていたんだな。これなら自分は安全な場所にいながら迅速に指示を下せるわけだ」
 隆房の青ざめた顔が険しくなり、目が危険な光を帯びた。
「こうなったらおまえたちには口をつぐんでもらうしかないな」
隆房は刀をすらりと抜いた。
「隆房!」
ふえが叫んだ。半助は落ち着き払い、腕組みをしたまま隆房を見据えている。
「なぜ加賀を、一清さまを裏切った」
 子供のころから共に苦労し、加賀を守ってきた隆房の裏切りに愕然とするばかりのふえに代わって半助が、ふだんより一段低い声で詰問した。
 隆房は答えず、刀を構えたままじりっと間を取り、隙を伺っている。
 半助のほうはその刀さえも目に入っていないかのように冷静だった。
「何か脅迫されているのなら力になろう。秘密は守る」
そんな半助の言葉に、隆房はあざ笑うかのような薄笑いを浮かべた。
「あいにくだが、俺は自分の意志でやってるんでね」
「金か?」
「それも違うな」
 ふえの耳には、二人の声は聞こえていた。だが、反応できない。何の判断も下せない。
せめて隆房が脅されて、いやいや協力していたならよかったのに。金がいりようなら、なんとかしたのに。
 最後の望みの綱も断ち切られ、ふえはガクガクと震えながらペタリと地に膝をついた。
「それなら…な、なぜ……」
振り絞るような声で、かろうじてふえは尋ねた。
「そうだな。それくらいは教えてやろう。ふえ様も考えを変えてくれるなら、俺もしいてふえ様を殺したいとは思わん」
 言いながらも、隆房は半助に向けた刃をおろしはしない。
「俺は加賀を裏切っちゃいない。加賀のためにしていることなんだ」
「詭弁よ! そんなの!」
ふえが叫んだ。
「違う! 俺は! 俺はこの国を、この国の人たちを守りたいんだ!」
理解できない、というふうにふえは眉をひそめた。
「こんな小さな国だ。いつまた戦を仕掛けられるか分からない。そのたびに“加賀さま”に忠誠を尽くして殉死者を出すのか!? それならもっと大きく、強い国の一部になったほうが安全なんだ! 第一、いつかだれかが天下を統一しなけりゃ、この世から戦なんかなくならないんだ! いつまでも加賀さま以外に仕えないなんて狭い了見でいちゃいけないんだ!」
「だが、鷲尾はあんたにとっては親の仇なんだろう?」
 再び、半助が聞いた。
「そんな卑小な考えにみんなが捕われているから、天下統一が進まんのだ。俺はただ、安住より鷲尾のほうが天下を狙えるとふんだから味方しただけのこと。鷲尾がつぶれればまたほかを探すさ。だが……」
声高に演説をぶっていた隆房の声が、少し落ちた。
「できるなら、鷲尾に天下を取ってほしい。父の死が無駄でなかったと、天下統一のために仕方なく流された血だったと、思いたいからな」
 ふえは隆房を見つめていた目を伏せた。隆房の言っていることはやはり理解できない。正しいことなのかどうか分からない。それでも、隆房が私利私欲のために内通したのではないことは分かった。両親の死を無駄にしたくないという思いも、痛いほど伝わってきた。ふえ自身、同じその思いのために間者となる道を、自ら選んだのにほかならない。
 半助が、隆房の言葉をどう受け止めたものか、隆房にもふえにも読み取ることはできなかった。相変わらず顔色ひとつ変えていない。
「だったらそれを一清さまに言ったらどうだ」
「言ったって聞くもんか! 分からんのか! この国の人間の体質ってものが! 頭が堅いんだよ、みんな! それとも俺の言うとおりだと思うか? ふえ様は!」
隆房の言い様には、返答次第ではふえの命も、という響きがあった。
 ふえは口を開いたが、声が出なかった。むろん、隆房に賛成などできない。
 それでも何か言おうとする前に、半助が言った。
「一つ聞くが、もし鷲尾が加賀を支配するために、一清さまの命を要求してきたら、あんた、その手で一清さまを殺れるのか?」
ふえがびくっとして顔を上げた。
隆房の顔がこわばった。
「ああ、それで民の命が守られるならな」
 ふえは喉に鉛の固まりがつかえたようだった。息が苦しい。
 半助のほうは、やはり動じた様子を見せなかったが、その右手が腰の忍び刀の柄にかかった。
 瞬間、隆房が半助に斬り掛かった。
 半助は身をかわし、隆房が再び半助のほうに向き直った時には、半助の忍び刀も抜かれていた。
「くそっ!」
隆房の目が殺気を帯び、再度斬り掛かる。
ガッ! と刃と刃がかみあう音が響いた。
 半助も、さすがに先ほどまでの落ち着き払った様子は失せた。隆房のように殺気立ってはいないが、その目が鋭くなっていった。
 二度、三度、金属音が響いた。
ふえは必死に考えを巡らした。
助太刀しなければ。でも、どっちに?
言うまでもない。今はよそものの忍者が味方で、幼なじみが敵なのだ。
 何度か自分に言い聞かせるように繰り返す。
(一清さまのためよ。加賀のためよ!)
 ふらふらと立ち上がると、震える手で懐剣を取り出した。
 それを目の端で捉えた半助が、
「助太刀無用!」
と怒鳴った。
「でも!」
これはあたしの仕事、と言いかけて、ふえはその言葉を発することができなかった。
 二人が言葉を交わしたほんのわずかな隙を、隆房は見逃さなかった。
 隆房の切っ先を、半助は刀で受け止められず、かろうじてかわした。
そしてそのまま身を低くし、隆房のふところに潜り込むように一歩を踏み込んだ。
普通の刀ならば近すぎる間合いだ。が、半助の忍び刀は、隆房の胸を貫いた。
一瞬の後、隆房は声もなく前のめりに倒れ伏し、こと切れた。
 ふえは息をのんだ。
半助の忍服は返り血に染まり、肩で息をついていた。
「た、隆房!」
ふえは叫び声を上げ、隆房に取りすがって泣き出した。
「どうしてよ! なんでこんなこと! 隆房のばか! ばか……」
 泣きわめくふえの肩に、半助がそっと手を置いた。
ふえは我に返って、涙でぐしょぐしょの顔を上げた。
半助の顔にも、いつもの明るさはなかった。
「ごめん……」
半助はつらそうに、そう一言だけ言った。
 その半助の目を見ているうちに、ふえは一清を思い出していた。秘密を守るために、自分が可愛がっていた菊という娘を殺すと決めた時の、あの一清の目を。
「一清さまに……何て言えばいいの?」
 ふえは涙声で聞いた。何もできず、何も考えられない自分が情けなかった。
 ふえの肩に置かれた半助の手に、ぐっと力が入った。
「しっかりしろ! 一清さまを守るんだろ!?」
「だって…分からないのよ! どうすればいいの? こんなこと……一清さまがどんなに傷つくか……。あたしは何もしてさしあげられないわ!」
 自分でさえこんなにもショックだったのだ。幼いころからの友人である隆房が加賀を裏切っていたということが。一清の命を奪うことさえ厭わないと言ったことが。隆房の死そのものよりも、一清が傷つくことが、ふえは怖かった。
「わたしに任せてくれればいい」
半助が言った。真剣な表情だった。
「わたしが話すから、ふえ殿はわたしが話したとおりのことを見たと言ってくれればいい。わかったね?」
 半助がどういうつもりでいるのか、ふえには図りかねたが、親にすがりつく子供のように、こっくりとうなづくしかなかった。




 

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